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第3章
第10話
しおりを挟むアスカが深い呼吸をし始めると、リオールはそっとその顔を覗き込んだ。
穏やかな寝息。緊張がほどけたような、少し泣きはらした目元。
ようやく、眠れたのだと、リオールは胸の奥に小さな安堵を抱いた。
今、この腕の中にいる命はふたつかもしれない。
それを思うと、不思議と心の奥が震えるようだった。
「……そなたは、本当に強いな」
小さな声でそう呟き、アスカの髪を優しく撫でる。
責任と不安を抱えながら、それでも前に進もうとする姿は、何より誇らしい。
リオールはそっと寝台に身を横たえ、アスカを優しく抱きしめた。
ぬくもりを確かめるように、呼吸を重ねる。
どんな未来が待っていても、そばにいよう。
支えて、守って、共に歩もう。
それが、夫として、そしてこの国の王として、自分がなすべきこと。
「……おやすみ、アスカ」
静かに目を閉じる。
夜はまだ深く、その眠りはどこまでもあたたかかった。
□
目を覚ましたリオールは、そっと体を起こし、まだ眠るアスカを見つめる。
そして、昨日彼が医務官と話していた内容を思い出し、陽春を呼んだ。
「目を覚ました王妃の体調が優れぬかもしれん。すぐに処置できるように、準備をさせておけ」
「はい」
「清夏か薄氷はいるか」
扉の向こうに向けて声をかければ、二人が現れる。
「今日の王妃の衣についてだが、体に負担をかけないように緩いものにしてくれ。それから……朝食は王妃が食べたいと望んだものがあれば、何でも用意するように」
「かしこまりました」
「……私は少し離れるが、何かあればすぐに報告するように」
そっとアスカの頬を撫でる。
無理をしないと約束はしたが、ちゃんと守ってくれるだろうか。
信頼していない訳では無いが、どうにも彼は無理をするくせがある。
「ギリギリまで寝かせてやってくれ」
「はい」
アスカの額に、最後にひとつ、静かに口づけを落とす。
代わりに、自身が働けばいい。
リオールは寝台から抜け出すと、ふっと息を吐いて国王宮に戻った。
定刻になり、リオールはアスカと共に、王宮の正門前にいた。
そこでは輿が整えられている。白と金の布に包まれた美しい輿に、アスカは興味津々のようだ。
「これに乗って、行くのですか?」
「ああ。ところで、体調はどうだ? 朝起きたときに気分が悪いということはなかったか」
「はい。今日は大丈夫でした」
「衣は? きつくはないか」
「これも……清夏たちがゆるめに仕立ててくれました。苦しくはありません」
ひとつひとつ、丁寧に確認するリオールに、アスカは少しだけ笑う。
リオールはホッとして、アスカの手を取った。
昨日のように震えてはおらず、静かに胸を撫で下ろす。
「もしかして、緊張されておいでですが?」
「当然だろう。妊娠しているかもしれぬ王妃が、人の中に出て行くのだ。これが、心配せずにいられると思うか?」
「……ありがとうございます。でも、やりますよ。ちゃんと、私の目で見て、渡したいのです」
そっと手を握られる。
その手は、確かに前を向く意志を宿しているように思えた。
「……顔色も、悪くないな」
「はい。今日は、きっと大丈夫です」
二人は輿に乗り、正門を出る。
そうして王都の通りへと出ると、民たちの視線が集まり始めた。
輿の中、リオールはもう一度だけ、念を押すように言う。
「そなたが倒れたら、私の心がもたぬ。……何があっても、無理はしない。それを忘れるな」
「ええ、忘れません」
アスカの静かな微笑みと共に、輿は炊き出しの広場へ。近づくにつれて、アスカの表情が少しずつ強ばっていく。
「大丈夫だ、アスカ。上手くいく」
「……はい」
「肩の力を抜いて。……そうだ」
一度深呼吸をした彼の目が、リオールを見つめる。
リオールはふっと柔らかく微笑み、そっと口付けを交わした。
広場に着くと、既に多くの人々が集まっていた。
貧しい身なりの者も、子どもたちも、老いた者も、皆が列を成して鍋の前に並んでいる。
火の前では、手際よく料理をよそう炊き出し係の姿があった。
輿の幕が開かれ、アスカが外に出ると、視線が一斉に集まった。
一瞬、広場の空気が止まったかのような静寂。その中を、アスカは静かに一歩、踏み出す。
「王妃さまだ……」
「本当に来たんだ……」
小さな声がざわめきを呼び、やがて人々は少しずつ頭を下げ始めた。
リオールが後に続き、二人が揃って炊き出し場へ向かうと、配膳をしていた女官たちが深く礼をした。
「皆さま、今日は足を運んでくださってありがとうございます。……さあ、冷めないうちに、どうぞ」
アスカはにこやかに声をかけ、鍋の前に立った。
大きなお椀に一杯ずつ、あたたかい野菜のスープをよそい、手渡していく。
リオールは少し後ろからその姿を見守っていた。
アスカの手元に向けられる目は真剣で、しかし一人ひとりにかける言葉は柔らかく、優しかった。
その中に──
先日、街で倒れていたあの子どもの姿を見つける。
痩せ細った体にくたびれた服、下を向いたまま列に並んでいる。
アスカはすぐに気づき、手を止めた。
「……いらっしゃい」
しゃがみ込んで目線を合わせると、子どもは小さく目を上げた。
その手に、ふわりとした湯気の立つお椀が渡される。
「たくさん食べて。おかわりも、していいからね」
静かにうなずいたその子の表情に、少しだけ、緊張がゆるむ気配が見えた。
リオールは、そんなアスカの後ろ姿を、ひと言も発さずに見守っていた。
配膳が始まってしばらく。
アスカは途切れることのない列に、根気よく粥を配り続けていた。
リオールが何度か水を勧めても、彼は首を横に振って「もう少しだけ」と言い、最後の一人まで、丁寧に手渡していった。
──そして。
「……これで、全員……」
アスカがお椀を置いた瞬間、ふらりと小さく揺れた。
「王妃──!」
すかさずリオールが支える。
咄嗟に伸ばした腕で腰を抱き寄せ、倒れるのを防いだ。
「す、すみません。急に、少し……目が回って」
「無理をするからだ。……もう、いい。休め」
アスカの肩をしっかりと抱き、リオールは休憩所へと導く。
陽春がすぐに毛布と水を用意し、薄氷と清夏も慌ただしく動く。
アスカは水を一口飲んで、少しだけ息を整えた。
悪阻の兆しはなく、顔色も大きく崩れてはいない。けれど、やはり体の疲労は否めなかった。
「……配れて、よかったです」
ほっとしたように笑うアスカに、リオールは小さく溜息をついた。
「よかった、ではない。少しでも異変を感じたら、すぐに私に言え」
「はい……気をつけます」
軽くなった風が、アスカの髪を揺らす。
街に、静かに炊き出しの香りが残る中──
次の波が、思いがけない形で訪れようとしていた。
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