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閉店後のコンビニ
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深夜零時十五分。
俺の勤めるコンビニ「サンクスマート二子玉川店」の営業終了時刻は、毎日深夜零時だ。
最後の客が店を出てから、レジを締めて、売れ残った弁当や惣菜に廃棄シールを貼り、翌日の仕込みをして……そんな作業がひと段落すると、だいたい零時半になる。
「はぁ……今日も終わったな」
店内の照明を半分落とし、バックヤードに向かう途中、ふと通路の奥に目をやった。菓子パンの棚の向こう、雑誌コーナーあたりに、人影が見えたような気がして。
「……誰かいるのか?」
声を掛けながら歩み寄る。でも、そこには誰もいなかった。
視界の端に動くものを捉えたような感覚。だが、店内をぐるりと見回しても、俺以外に人はいない。
「疲れてるのかな」
そう呟いて、バックヤードの更衣室に向かった。制服を着替えて、明日のシフトを確認し、マネージャーに挨拶をして帰り支度を済ませる。
その時、店の前の道路から、小さな人影が覗き込んでいるのに気がついた。
「あれは……伊吹か?」
俺は驚いて急いで店の外へ出た。
「伊吹、こんな時間にどうしたんだ?」
ガラス戸の向こうに立っていたのは、小学生の男の子——結城伊吹だった。彼は淡々とした表情で俺を見上げた。
「蓮にい、こんばんは。ここに来たくなったの」
伊吹は、そう言って店の中を見た。
「帰りに寄ってみただけ。蓮にいのバイト先、一度も来たことなかったから」
俺は時計を見た。午前零時四十分。小学生が一人でこんな時間に出歩いているなんて。
「親は心配してないのか?」
「大丈夫。今日はお父さんもお母さんも出張だから、おばあちゃんが来てるの。でも、おばあちゃんはもう寝てる」
伊吹は相変わらず淡々と答える。まるで、深夜に一人で出歩くことがごく当たり前のように。
「とにかく、送っていくよ。こんな時間に一人で歩かせるわけにはいかない」
俺がそう言うと、伊吹はしばらく店の中を見つめていた。
「蓮にい、この店、何かいるよ」
その言葉に、さっきの人影が頭をよぎった。
「何かって……何が?」
「わからない。でも、すごく強い気配がする。だから来たの」
伊吹のこういうところが、不思議だ。彼は「見える子」だった。霊感とか第六感とか、そういった類のものを持っている。俺が初めて彼と出会ったのは、大学の近くにある図書館。閉館間際、伊吹が本棚の影に潜む「何か」を見ていたときだった。
あの日以来、なぜか彼と俺は時々顔を合わせるようになり、彼の不思議な能力に振り回されることも増えた。
「じゃあ、一旦中に入るか。でもすぐに帰るからな」
伊吹を店内に招き入れると、彼はすぐに菓子パンの棚の方へ歩いていった。さっき俺が人影を見た場所だ。
「ここに来るんだ。毎日」
伊吹は棚と棚の間の通路を見つめて言った。
「誰が?」
「わからない。でも来るの。いつも同じ時間に」
俺は背筋がぞわりとするのを感じた。店が閉まった後、誰もいないはずの通路に現れる人影。それは俺の見間違いではなかったのか。
「蓮くん、まだいたの?」
突然、バックヤードから声がした。振り返ると、マネージャーの田代さんが立っていた。
「あ、すいません。今帰ります。ちょっと友達が来たもので」
「友達?」
田代さんは首を傾げた。
「ほら、ここに……」
俺が伊吹を指差した方を見ると、そこには誰もいなかった。
「えっ?」
慌てて周りを見回すと、伊吹は店の入口のところに立っていた。いつの間にか移動していたようだ。
「すみません、もう帰ります」
「気をつけてね。最近この辺り、変な噂あるから」
田代さんはそう言って、再びバックヤードへ消えていった。
俺は伊吹と一緒に店を出て、彼の家に向かって歩き始めた。
「田代さん、何か変な噂があるって言ってたけど、知ってるか?」
伊吹は首を横に振った。
「ううん。でも、あの場所に誰か来るのは確かだよ」
「……本当に何かいるのか?」
「うん。でも、悪いものじゃないと思う」
伊吹の家に着くと、彼は「ありがとう」と一言だけ言って中に入っていった。
翌日、俺は大学の講義を終えた後、いつものバイト掛け持ち先である古書店「真壁堂」に向かった。
「やぁ、蓮くん。今日も元気そうだねぇ」
店主の真壁誠司はいつものように飄々とした態度で迎えてくれた。三十代後半から四十代ぐらいの男性で、古書から都市伝説まで何でも知っている博識な人物だ。
「真壁さん、相談があるんですけど」
「あら、珍しい。どうしたの?」
「コンビニのバイト先で、変なことがあって」
俺は昨晩の出来事を話した。人影のこと、伊吹が現れたこと、そして「毎日同じ時間に誰かが来る」と言っていたことを。
誠司はコーヒーを啜りながら、興味深そうに聞いていた。
「二子玉川のサンクスマートか……確か、あそこって昔は別の店だったよね?」
「はい、三年前までは『キラキラマート』っていうコンビニでした」
「ふーん」
誠司は意味ありげに頷いた。
「その辺りの噂なら、少し知ってるよ。『深夜の常連客』って言われてるやつかな」
「深夜の常連客?」
「そう。閉店後のコンビニに現れる、帰れない客の話。店が閉まった後も、毎晩同じ時間に同じ場所にやってくるんだって。生前、その場所でよく買い物をしていた常連さんの魂らしいよ」
「……冗談でしょう?」
「さぁねぇ。でも、二子玉川のあの辺りは昔から変わった話が多いんだよ。特にそのコンビニの前の交差点は、事故が多いって聞いたことがある」
俺は黙って考え込んだ。確かに、店の前の交差点は見通しが悪く、ヒヤリとする場面を何度か目撃したことがある。
「それで、伊吹くんはどう言ってた?悪いものじゃないって?」
「ええ、そう言ってました」
「なら、たぶん大丈夫でしょ。伊吹くんの感覚は結構正確だからね」
誠司はにこやかに笑った。彼もまた、伊吹の「見える力」を知っている数少ない大人のひとりだ。
「でも、気になるなら今晩も様子を見てみたら?もし何か異変があったら連絡してね。わたしも興味あるから」
その日の晩、俺は再びコンビニでバイトをしていた。閉店時間が近づくにつれ、昨晩のことが頭から離れなくなる。
最後の客が出て行き、レジを締め、片付けを始めたとき、店のドアが開く音がした。
「すみません、閉店しました」
振り向きながら言うと、そこには伊吹が立っていた。昨日と同じ時間だ。
「また来たの?」
「うん。今日は見えるかもしれないと思って」
「見える?何が?」
伊吹は答えずに、昨日と同じ場所——菓子パンの棚の方へ歩いていった。
「もうすぐだよ」
時計を見ると、午前零時二十分前。
「何がもうすぐなんだ?」
「蓮くん、まだいたの?」
また田代さんだ。昨日と同じように声をかけてきた。
「あ、はい。もうすぐ終わります」
「そう。じゃあ、先に帰るね。施錠よろしく」
田代さんはそう言うと、店を出て行った。
「伊吹、何か見えるのか?」
伊吹は黙って菓子パンの棚を見つめていた。そして零時十八分、彼が口を開いた。
「来た」
俺には何も見えない。何も聞こえない。でも、伊吹の真剣な表情からは、彼が確かに「何か」を感じていることが伝わってきた。
「誰がいるんだ?」
「おばあさん。いつも同じものを探してる」
伊吹は空中の一点を指差した。
「何を探してるんだ?」
「わからない。でも、見つからなくて困ってる」
その時、店の電話が鳴った。深夜にこんな時間に電話なんてめったにない。
恐る恐る受話器を取る。
「はい、サンクスマート二子玉川店です」
「蓮くん?真壁だよ。今、伊吹くんと一緒かい?」
「え?ええ、そうですけど……どうして?」
「ちょっと思いついたことがあってね。そのコンビニの前の交差点で起きた事故のこと、もう少し調べてみたんだ」
「……何かわかったんですか?」
「ええ。三年前、そこで亡くなった老婦人の話を聞いたよ。キラキラマートの常連さんだったらしくてね。毎日特定のお菓子を買っていく人だったって」
俺は息を呑んだ。
「特定のお菓子……何ですか、それ?」
「うーん、それがねぇ……」
誠司の言葉が途切れた時、店内の照明が一瞬チカついた。
「何かあった?」
「いえ、ちょっと照明が……」
その時、伊吹が動いた。彼は雑誌コーナーの端にある小さな棚に向かっていった。そこは季節商品や特売品を置く場所だ。
「蓮にい、ここにあったの」
伊吹の視線の先には、今は空っぽの棚があった。
「何がそこにあったんだ?」
「いちごのお菓子。おばあさんが探してるの」
「真壁さん、伊吹が『いちごのお菓子』と言ってますが……」
電話の向こうで誠司が声を上げた。
「ああ、それだ!話によると、その老婦人は『苺のラングドシャ』というお菓子を毎日買っていたらしいんだ。孫にあげるためにね。でも事故の日、そのお菓子が売り切れだったんだって」
「苺のラングドシャ……」
俺は思い出そうとした。確かに以前、キラキラマートではそういうお菓子を売っていた記憶がある。でも、店が変わってからはもう取り扱っていない。
「おばあさん、悲しそう」
伊吹が呟いた。
「蓮くん、こういう場合は『迷いの理由』を解消してあげるのがいいんだよ。彼女が探しているものを用意してあげれば、きっと成仏できるんじゃないかな」
「でも、そんなお菓子うちの店では……」
「大丈夫、わたしが用意する。明日、店に持っていくから」
そう言って、誠司は電話を切った。
伊吹はまだ空の棚を見つめていた。
「伊吹、今日はもう帰ろう。明日、真壁さんが解決策を持ってくるって」
「……うん」
伊吹はようやく目を離し、俺のほうを向いた。
「蓮にい、おばあさん、毎日同じことをしてるの。ずっと同じ時間に来て、同じものを探して、見つからなくて帰る。何回も何回も」
その言葉に胸が痛んだ。毎日同じことを繰り返す魂。解放されるきっかけもなく、ただ探し続ける存在。
翌日、誠司は約束通り苺のラングドシャを持ってきてくれた。かなりレトロなパッケージの、今ではあまり見かけないタイプのお菓子だ。
「これがそうです?」
「ええ、調べたらこれが三年前に売られていたものと同じみたいだよ。今はもう製造していないんだけど、アンティークお菓子を扱う店で見つけたんだ」
誠司は誇らしげに笑った。
「で、どうするんですか?」
「簡単さ。今晩、閉店後にこれをあの棚に置いておくんだよ。伊吹くんの言う通り、おばあさんが来たらきっと見つけるはずさ」
「それで成仏できるんですか?」
「さあ?でも、迷いの原因が解消されれば、執着する理由もなくなるんじゃないかな」
その日の晩、俺たち三人はコンビニに集まった。誠司も特別に店長の許可を得て、閉店後の店内に入れてもらった。
「へえ、これが蓮くんのバイト先か。清潔感があっていいねぇ」
誠司は周りを見回しながら感心している。
「真壁さん、本題に集中してください」
「いやいや、環境観察も大事な要素だよ。こういう現象は場の状態にも影響されるからね」
伊吹は黙って雑誌コーナー近くの小さな棚のところに立っていた。時計は午前零時十分を指している。
「伊吹くん、どう?何か感じる?」
誠司が尋ねると、伊吹はゆっくりと頷いた。
「うん。もうすぐ来る」
誠司は苺のラングドシャを袋から取り出し、棚に置いた。
「これでいいのかな?目立つようにしておこう」
零時十八分。
空気が変わった気がした。温度が少し下がったような、静電気を感じるような、そんな微妙な変化。俺と誠司には何も見えないが、伊吹の表情が真剣になった。
「来た」
伊吹が囁いた。
「どこにいるんだ?」
「入口のところ。中に入ってきた」
俺たちは息を潜めて待った。伊吹の目線の動きを追いながら、見えない「おばあさん」の動きを想像する。
「棚の方に歩いてる」
伊吹の目線は菓子パンの棚から雑誌コーナーへ、そして小さな棚へと移動していった。
「見つけた」
伊吹の声に、俺たちは固唾を呑んだ。
「おばあさん、笑ってる」
その時、置いてあった苺のラングドシャのパッケージがわずかに動いた。誰も触れていないのに、パッケージが少し持ち上がり、また元に戻ったのだ。
「見えた!」
思わず声が出た。
「蓮くんにも見えたかい?」
誠司が驚いた声で聞いてきた。
「いえ、パッケージが動いたのが……」
その瞬間、店内の照明が一瞬明るく輝き、そして元の明るさに戻った。
「消えた」
伊吹が言った。
「おばあさん、もういないの。お菓子を持って帰った」
パッケージは確かにまだそこにあったが、何か「抜け殻」のように感じられた。その存在感が薄れたような気がする。
「成功したのかな?」
誠司が首を傾げながら言った。
「うん、成功した」
伊吹は珍しく微笑んでいた。
「おばあさん、『ありがとう』って言ってた。『これでやっと孫に会える』って」
その言葉に、俺たちは言葉を失った。
翌日からは、閉店後の人影も感じなくなった。伊吹も「もう来ない」と言った。
一週間後、真壁堂でバイトをしていると、誠司が新聞を持ってきた。
「蓮くん、これ見た?」
渡された新聞の地域面には小さな記事が載っていた。
『三年前の交通事故犠牲者を追悼 地域住民が安全対策を訴え』
記事によると、二子玉川のあの交差点で亡くなった老婦人の三回忌にあたり、遺族や地域住民が集まって追悼集会が行われたという。そして、その老婦人の孫が「おばあちゃんに会えた気がする」と話したことが書かれていた。
「ほらね、やっぱり」
誠司はうれしそうに言った。
「何がやっぱりなんですか?」
「いや、あのおばあさん、きっと孫に会いたかったんだよ。でも、最後のプレゼントを渡せなかったから、ずっと迷ってたんじゃないかな。そのプレゼントを受け取って、やっと成仏できたんだと思うよ」
「でも、あのお菓子はまだ棚に……」
「形あるものだけが本当のものじゃないよ、蓮くん。おばあさんが持って行ったのは、そのお菓子の『想い』の部分なんだよ。物質としてのお菓子はそこに残っていても不思議じゃない」
「そんな抽象的な話で済まされても……」
「まあまあ、結果オーライじゃない?伊吹くんも『成功した』って言ってたしね」
誠司はにこやかに肩をすくめた。
「それより、次はどんな都市伝説に出会えるかな?この辺りにはまだまだ面白い話がたくさんあるんだよ」
「冗談じゃないですよ。もう勘弁してください」
「あはは、冗談冗談。でも、伊吹くんが『見える』限り、こういうことはまた起きるかもしれないねぇ」
その言葉に、俺は深いため息をついた。そして、伊吹の不思議な力と、これからも続くだろう奇妙な出来事について考えずにはいられなかった。
「まったく、納得いかねえ……」
そう呟きながらも、どこか安堵感を覚えていた。少なくとも今回は、良い結末を迎えることができたのだから。
俺の勤めるコンビニ「サンクスマート二子玉川店」の営業終了時刻は、毎日深夜零時だ。
最後の客が店を出てから、レジを締めて、売れ残った弁当や惣菜に廃棄シールを貼り、翌日の仕込みをして……そんな作業がひと段落すると、だいたい零時半になる。
「はぁ……今日も終わったな」
店内の照明を半分落とし、バックヤードに向かう途中、ふと通路の奥に目をやった。菓子パンの棚の向こう、雑誌コーナーあたりに、人影が見えたような気がして。
「……誰かいるのか?」
声を掛けながら歩み寄る。でも、そこには誰もいなかった。
視界の端に動くものを捉えたような感覚。だが、店内をぐるりと見回しても、俺以外に人はいない。
「疲れてるのかな」
そう呟いて、バックヤードの更衣室に向かった。制服を着替えて、明日のシフトを確認し、マネージャーに挨拶をして帰り支度を済ませる。
その時、店の前の道路から、小さな人影が覗き込んでいるのに気がついた。
「あれは……伊吹か?」
俺は驚いて急いで店の外へ出た。
「伊吹、こんな時間にどうしたんだ?」
ガラス戸の向こうに立っていたのは、小学生の男の子——結城伊吹だった。彼は淡々とした表情で俺を見上げた。
「蓮にい、こんばんは。ここに来たくなったの」
伊吹は、そう言って店の中を見た。
「帰りに寄ってみただけ。蓮にいのバイト先、一度も来たことなかったから」
俺は時計を見た。午前零時四十分。小学生が一人でこんな時間に出歩いているなんて。
「親は心配してないのか?」
「大丈夫。今日はお父さんもお母さんも出張だから、おばあちゃんが来てるの。でも、おばあちゃんはもう寝てる」
伊吹は相変わらず淡々と答える。まるで、深夜に一人で出歩くことがごく当たり前のように。
「とにかく、送っていくよ。こんな時間に一人で歩かせるわけにはいかない」
俺がそう言うと、伊吹はしばらく店の中を見つめていた。
「蓮にい、この店、何かいるよ」
その言葉に、さっきの人影が頭をよぎった。
「何かって……何が?」
「わからない。でも、すごく強い気配がする。だから来たの」
伊吹のこういうところが、不思議だ。彼は「見える子」だった。霊感とか第六感とか、そういった類のものを持っている。俺が初めて彼と出会ったのは、大学の近くにある図書館。閉館間際、伊吹が本棚の影に潜む「何か」を見ていたときだった。
あの日以来、なぜか彼と俺は時々顔を合わせるようになり、彼の不思議な能力に振り回されることも増えた。
「じゃあ、一旦中に入るか。でもすぐに帰るからな」
伊吹を店内に招き入れると、彼はすぐに菓子パンの棚の方へ歩いていった。さっき俺が人影を見た場所だ。
「ここに来るんだ。毎日」
伊吹は棚と棚の間の通路を見つめて言った。
「誰が?」
「わからない。でも来るの。いつも同じ時間に」
俺は背筋がぞわりとするのを感じた。店が閉まった後、誰もいないはずの通路に現れる人影。それは俺の見間違いではなかったのか。
「蓮くん、まだいたの?」
突然、バックヤードから声がした。振り返ると、マネージャーの田代さんが立っていた。
「あ、すいません。今帰ります。ちょっと友達が来たもので」
「友達?」
田代さんは首を傾げた。
「ほら、ここに……」
俺が伊吹を指差した方を見ると、そこには誰もいなかった。
「えっ?」
慌てて周りを見回すと、伊吹は店の入口のところに立っていた。いつの間にか移動していたようだ。
「すみません、もう帰ります」
「気をつけてね。最近この辺り、変な噂あるから」
田代さんはそう言って、再びバックヤードへ消えていった。
俺は伊吹と一緒に店を出て、彼の家に向かって歩き始めた。
「田代さん、何か変な噂があるって言ってたけど、知ってるか?」
伊吹は首を横に振った。
「ううん。でも、あの場所に誰か来るのは確かだよ」
「……本当に何かいるのか?」
「うん。でも、悪いものじゃないと思う」
伊吹の家に着くと、彼は「ありがとう」と一言だけ言って中に入っていった。
翌日、俺は大学の講義を終えた後、いつものバイト掛け持ち先である古書店「真壁堂」に向かった。
「やぁ、蓮くん。今日も元気そうだねぇ」
店主の真壁誠司はいつものように飄々とした態度で迎えてくれた。三十代後半から四十代ぐらいの男性で、古書から都市伝説まで何でも知っている博識な人物だ。
「真壁さん、相談があるんですけど」
「あら、珍しい。どうしたの?」
「コンビニのバイト先で、変なことがあって」
俺は昨晩の出来事を話した。人影のこと、伊吹が現れたこと、そして「毎日同じ時間に誰かが来る」と言っていたことを。
誠司はコーヒーを啜りながら、興味深そうに聞いていた。
「二子玉川のサンクスマートか……確か、あそこって昔は別の店だったよね?」
「はい、三年前までは『キラキラマート』っていうコンビニでした」
「ふーん」
誠司は意味ありげに頷いた。
「その辺りの噂なら、少し知ってるよ。『深夜の常連客』って言われてるやつかな」
「深夜の常連客?」
「そう。閉店後のコンビニに現れる、帰れない客の話。店が閉まった後も、毎晩同じ時間に同じ場所にやってくるんだって。生前、その場所でよく買い物をしていた常連さんの魂らしいよ」
「……冗談でしょう?」
「さぁねぇ。でも、二子玉川のあの辺りは昔から変わった話が多いんだよ。特にそのコンビニの前の交差点は、事故が多いって聞いたことがある」
俺は黙って考え込んだ。確かに、店の前の交差点は見通しが悪く、ヒヤリとする場面を何度か目撃したことがある。
「それで、伊吹くんはどう言ってた?悪いものじゃないって?」
「ええ、そう言ってました」
「なら、たぶん大丈夫でしょ。伊吹くんの感覚は結構正確だからね」
誠司はにこやかに笑った。彼もまた、伊吹の「見える力」を知っている数少ない大人のひとりだ。
「でも、気になるなら今晩も様子を見てみたら?もし何か異変があったら連絡してね。わたしも興味あるから」
その日の晩、俺は再びコンビニでバイトをしていた。閉店時間が近づくにつれ、昨晩のことが頭から離れなくなる。
最後の客が出て行き、レジを締め、片付けを始めたとき、店のドアが開く音がした。
「すみません、閉店しました」
振り向きながら言うと、そこには伊吹が立っていた。昨日と同じ時間だ。
「また来たの?」
「うん。今日は見えるかもしれないと思って」
「見える?何が?」
伊吹は答えずに、昨日と同じ場所——菓子パンの棚の方へ歩いていった。
「もうすぐだよ」
時計を見ると、午前零時二十分前。
「何がもうすぐなんだ?」
「蓮くん、まだいたの?」
また田代さんだ。昨日と同じように声をかけてきた。
「あ、はい。もうすぐ終わります」
「そう。じゃあ、先に帰るね。施錠よろしく」
田代さんはそう言うと、店を出て行った。
「伊吹、何か見えるのか?」
伊吹は黙って菓子パンの棚を見つめていた。そして零時十八分、彼が口を開いた。
「来た」
俺には何も見えない。何も聞こえない。でも、伊吹の真剣な表情からは、彼が確かに「何か」を感じていることが伝わってきた。
「誰がいるんだ?」
「おばあさん。いつも同じものを探してる」
伊吹は空中の一点を指差した。
「何を探してるんだ?」
「わからない。でも、見つからなくて困ってる」
その時、店の電話が鳴った。深夜にこんな時間に電話なんてめったにない。
恐る恐る受話器を取る。
「はい、サンクスマート二子玉川店です」
「蓮くん?真壁だよ。今、伊吹くんと一緒かい?」
「え?ええ、そうですけど……どうして?」
「ちょっと思いついたことがあってね。そのコンビニの前の交差点で起きた事故のこと、もう少し調べてみたんだ」
「……何かわかったんですか?」
「ええ。三年前、そこで亡くなった老婦人の話を聞いたよ。キラキラマートの常連さんだったらしくてね。毎日特定のお菓子を買っていく人だったって」
俺は息を呑んだ。
「特定のお菓子……何ですか、それ?」
「うーん、それがねぇ……」
誠司の言葉が途切れた時、店内の照明が一瞬チカついた。
「何かあった?」
「いえ、ちょっと照明が……」
その時、伊吹が動いた。彼は雑誌コーナーの端にある小さな棚に向かっていった。そこは季節商品や特売品を置く場所だ。
「蓮にい、ここにあったの」
伊吹の視線の先には、今は空っぽの棚があった。
「何がそこにあったんだ?」
「いちごのお菓子。おばあさんが探してるの」
「真壁さん、伊吹が『いちごのお菓子』と言ってますが……」
電話の向こうで誠司が声を上げた。
「ああ、それだ!話によると、その老婦人は『苺のラングドシャ』というお菓子を毎日買っていたらしいんだ。孫にあげるためにね。でも事故の日、そのお菓子が売り切れだったんだって」
「苺のラングドシャ……」
俺は思い出そうとした。確かに以前、キラキラマートではそういうお菓子を売っていた記憶がある。でも、店が変わってからはもう取り扱っていない。
「おばあさん、悲しそう」
伊吹が呟いた。
「蓮くん、こういう場合は『迷いの理由』を解消してあげるのがいいんだよ。彼女が探しているものを用意してあげれば、きっと成仏できるんじゃないかな」
「でも、そんなお菓子うちの店では……」
「大丈夫、わたしが用意する。明日、店に持っていくから」
そう言って、誠司は電話を切った。
伊吹はまだ空の棚を見つめていた。
「伊吹、今日はもう帰ろう。明日、真壁さんが解決策を持ってくるって」
「……うん」
伊吹はようやく目を離し、俺のほうを向いた。
「蓮にい、おばあさん、毎日同じことをしてるの。ずっと同じ時間に来て、同じものを探して、見つからなくて帰る。何回も何回も」
その言葉に胸が痛んだ。毎日同じことを繰り返す魂。解放されるきっかけもなく、ただ探し続ける存在。
翌日、誠司は約束通り苺のラングドシャを持ってきてくれた。かなりレトロなパッケージの、今ではあまり見かけないタイプのお菓子だ。
「これがそうです?」
「ええ、調べたらこれが三年前に売られていたものと同じみたいだよ。今はもう製造していないんだけど、アンティークお菓子を扱う店で見つけたんだ」
誠司は誇らしげに笑った。
「で、どうするんですか?」
「簡単さ。今晩、閉店後にこれをあの棚に置いておくんだよ。伊吹くんの言う通り、おばあさんが来たらきっと見つけるはずさ」
「それで成仏できるんですか?」
「さあ?でも、迷いの原因が解消されれば、執着する理由もなくなるんじゃないかな」
その日の晩、俺たち三人はコンビニに集まった。誠司も特別に店長の許可を得て、閉店後の店内に入れてもらった。
「へえ、これが蓮くんのバイト先か。清潔感があっていいねぇ」
誠司は周りを見回しながら感心している。
「真壁さん、本題に集中してください」
「いやいや、環境観察も大事な要素だよ。こういう現象は場の状態にも影響されるからね」
伊吹は黙って雑誌コーナー近くの小さな棚のところに立っていた。時計は午前零時十分を指している。
「伊吹くん、どう?何か感じる?」
誠司が尋ねると、伊吹はゆっくりと頷いた。
「うん。もうすぐ来る」
誠司は苺のラングドシャを袋から取り出し、棚に置いた。
「これでいいのかな?目立つようにしておこう」
零時十八分。
空気が変わった気がした。温度が少し下がったような、静電気を感じるような、そんな微妙な変化。俺と誠司には何も見えないが、伊吹の表情が真剣になった。
「来た」
伊吹が囁いた。
「どこにいるんだ?」
「入口のところ。中に入ってきた」
俺たちは息を潜めて待った。伊吹の目線の動きを追いながら、見えない「おばあさん」の動きを想像する。
「棚の方に歩いてる」
伊吹の目線は菓子パンの棚から雑誌コーナーへ、そして小さな棚へと移動していった。
「見つけた」
伊吹の声に、俺たちは固唾を呑んだ。
「おばあさん、笑ってる」
その時、置いてあった苺のラングドシャのパッケージがわずかに動いた。誰も触れていないのに、パッケージが少し持ち上がり、また元に戻ったのだ。
「見えた!」
思わず声が出た。
「蓮くんにも見えたかい?」
誠司が驚いた声で聞いてきた。
「いえ、パッケージが動いたのが……」
その瞬間、店内の照明が一瞬明るく輝き、そして元の明るさに戻った。
「消えた」
伊吹が言った。
「おばあさん、もういないの。お菓子を持って帰った」
パッケージは確かにまだそこにあったが、何か「抜け殻」のように感じられた。その存在感が薄れたような気がする。
「成功したのかな?」
誠司が首を傾げながら言った。
「うん、成功した」
伊吹は珍しく微笑んでいた。
「おばあさん、『ありがとう』って言ってた。『これでやっと孫に会える』って」
その言葉に、俺たちは言葉を失った。
翌日からは、閉店後の人影も感じなくなった。伊吹も「もう来ない」と言った。
一週間後、真壁堂でバイトをしていると、誠司が新聞を持ってきた。
「蓮くん、これ見た?」
渡された新聞の地域面には小さな記事が載っていた。
『三年前の交通事故犠牲者を追悼 地域住民が安全対策を訴え』
記事によると、二子玉川のあの交差点で亡くなった老婦人の三回忌にあたり、遺族や地域住民が集まって追悼集会が行われたという。そして、その老婦人の孫が「おばあちゃんに会えた気がする」と話したことが書かれていた。
「ほらね、やっぱり」
誠司はうれしそうに言った。
「何がやっぱりなんですか?」
「いや、あのおばあさん、きっと孫に会いたかったんだよ。でも、最後のプレゼントを渡せなかったから、ずっと迷ってたんじゃないかな。そのプレゼントを受け取って、やっと成仏できたんだと思うよ」
「でも、あのお菓子はまだ棚に……」
「形あるものだけが本当のものじゃないよ、蓮くん。おばあさんが持って行ったのは、そのお菓子の『想い』の部分なんだよ。物質としてのお菓子はそこに残っていても不思議じゃない」
「そんな抽象的な話で済まされても……」
「まあまあ、結果オーライじゃない?伊吹くんも『成功した』って言ってたしね」
誠司はにこやかに肩をすくめた。
「それより、次はどんな都市伝説に出会えるかな?この辺りにはまだまだ面白い話がたくさんあるんだよ」
「冗談じゃないですよ。もう勘弁してください」
「あはは、冗談冗談。でも、伊吹くんが『見える』限り、こういうことはまた起きるかもしれないねぇ」
その言葉に、俺は深いため息をついた。そして、伊吹の不思議な力と、これからも続くだろう奇妙な出来事について考えずにはいられなかった。
「まったく、納得いかねえ……」
そう呟きながらも、どこか安堵感を覚えていた。少なくとも今回は、良い結末を迎えることができたのだから。
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