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 その翌週はエマは来なかった。なんとなく仲直りしたような形になったので、グランは少し期待していたのだが、泣かせてしまったのがだめだったのかもしれない。待てよ。泣きたいのはこっちだろ。恋人を想って泣く子が来るのを待つって。
 苦笑いして工房で仕事を始める。親方はたまに寂しそうにするが、ちょうど仕事も減ってきたところだからと強がっている。鉄を打つのはかなりの重労働だ。前は親方とアントンと三人で交代でやっていたが、もう親方と二人でやるしかない。打って広げて、葉っぱや花の形にしていく。親方はこれが得意で、すごく華のある細工になる。グランが同じように作ってもどこか迫力が足りないのだ。
「お前はお前でいい。一人一人違う。お前の素直な細工の方が好きだという人もいるだろうよ。俺と同じものを作ろうとしなくていい。でも技術は盗みなさい」
「はい」
 休憩。この仕事はちょくちょく休まないと倒れてしまう。水筒の水を含む。ぬるくなっているがほっとする。少し外の空気を吸うために工房を出ると、小柄な少年が不安げに立っていて、グランに話しかけてきた。
「あの、ここ、鍛冶屋だろ?エムて子の知り合いいないかな」
「エム?」
 少年に見覚えがあった。
「君は、エス?エマのことかな……」
「あんたが…」
 少年は声を潜めて言い直した。
「あんたがエムの恋人?」
「恋人ではないかな……何?」
「でもあんただろ?この通りの鍛冶屋で……エムがキスしない・・・人」
 どきっとした。たぶん俺のことで間違いない。
「エムが大変なんだ。あんたのことは呼ばないでくれって言われたけど……死んじまいそうで……」
「ちょっと待ってな」
 グランは工房にとって返すと、親方に急用ができてしまったので上がらせてほしいと頼んだ。親方はグランの勢いに驚きながら、明日はちゃんと来いよ、と言ってくれた。
「あいつ、ここんとこずっと注射打ってたんだけど、かなり合わないみたいで……」
 歩きながらエスが言った。
「注射?なんの?」
「梅毒の薬」
 頭が真っ白になった。そんな風に見えなかったけど。
「あいつ、去年かな。客に移されて。そんときは治療しなかったんだ。ほっとくと治ったように見えるからさ。でも今の売春宿で検査しろって言われて、俺たちもやらされたんだ。そしたらあいつ陽性でさ……」
「いつ?検査したの」
「んーと……ニヶ月くらい前かな。医者がさ、キスでも移るから、キスはだめ、セックスもフェラチオもカポットつけてしなさいって。あいつすげー泣いてた。恋人とやっちゃったから、移してたらどうしようって」
 ひどいよグラン。俺の気も知らないで。
 そんな。
「客なんて、そんなに俺たちのこと大事にしないからさ。キスすんなって言ったってするし、自分が病気持ってても言わないし、カポットだって黙って外してたりしてさ……あんた、手になんかできたら病院行けよ。梅毒は手のひらにぱーっと赤いぶつぶつができるんだ」
 あんなに真剣に、執拗なくらいに、息を詰めて手のひらを。
 エマ。
「エマ!」
 売春宿の一室に飛び込むと、本当にベッドしか入らない薄暗い狭い部屋の中に、青白く痩せてしまったエマが横たわっていた。
「バカ!エス!……呼ぶなってあんなに頼んだじゃん……」
「だってお前死んじまうんじゃないかって……怖いんだよ!俺に客がついてなきゃここに寝かせられるけど……そうでないと宿の裏の地べたに寝かせるしかできなくて……お前、家に帰るのやだって言うし」
「来い、エマ」
 エマを抱き上げると悲しいくらい軽かった。グランの着古しのシャツを手に持っていた。エマはグランの肩に顔を埋めるようにして泣いた。
「うちに行こう?エマ。いいから。わかったから」
「エム、ほんとに、ほんとにちゃんと休めるとこで休みな!注射するたびに弱ってんじゃん……」
 幸い、グランの借りているアパルトマンは工房よりは売春街に近かったので、シーツにエマを包んで抱いて連れて帰った。道々、エマはずっと泣いていた。
「よく泣くなあ」
「……黙っててごめん」
「まあ、家で少し話そう。揺れるけど大丈夫か?」
 エスもアパルトマンの前まで付いてきた。シーツを返すと、エスは「よろしく」と言って来た道を走って戻って行った。
 ベッドにエマをそっと降ろした。この前会った時も痩せたと思ったけど、ますます痩せて肋骨が浮いている。
「食べてないのか?食べられない?」
「……うん、もともとかなり副作用がある薬みたいなんだけど、注射した後二、三日はだるくて何もできなくなるんだ。食事も取る気力なくて。一昨日打ったから、明日か明後日にはましになると思うんだけど……」
「何回打つの?」
「わかんない。週に一回打って、今四回かな……あと一ヶ月くらいやって、検査して大丈夫なら終わりだけど……一年かかる人も少なくないみたい…」
 言ってくれれば良かったのにな。言えなかったのか。喋るのも辛そうに見えたので、話は一旦そこでやめてエマを寝せてやることにした。エマは安心したようにすっと眠った。この前もきっと、注射して間もなかったのだろう。病気で具合が悪くなったわけじゃないのが救いだった。良くなろうとしているんだ。
 梅毒は、グランが小さい頃は治らない病気だった。頭がおかしくなって死ぬとか、鼻がなくなるとか、身体中にできものができるとか。子供心に恐ろしかった。最近になってドイツでちゃんと治る薬ができて、必ずしも怖い病気ではなくなったと聞いていた。まさか治すためにこんなに辛い思いをするとは知らなかった。幼い頃、母親は「誠実に生きていればかからない病気」と言ってグランを安心させた。性病だからだろう。でもエマは誠実じゃなかったんだろうか?これしか生活の糧を得る手段がない人間が必死に生きているのが、誠実でない、神の意にそまないと言うんだろうか。
 エマが目を覚ましたのは夕暮れ時に近くなってからだった。顔色は良くなっていない。食べられそうなものをベッドまで運んでやると、少しずつ口にした。
「ごめん。迷惑ばっかかけて」
「いいよ。前にも言っただろ。俺が勝手にやってるだけだから、お前にやって欲しいのは」
「どうもありがとう」
「そう」
 グランがちょっと笑うと、エマもつられたように少し笑顔を見せた。
「お前、友達に俺のこと恋人だって言ってただろ」
 エマがぱっと顔を赤くした。
「もう!エス!……そうだよ。ごめん……」
「なんで?」
「………ほんとごめん。そうだったらいいなって思って……」
 エマの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「大丈夫か?他に恋人いないか?」
「いないよ!」
 エマは耳まで真っ赤だった。でも泣きそうに唇を噛んだ。また泣かせてしまう。グランはエマのほおにかかる髪を指で流しながら言った。
「俺もそうだったらいいなって思ってた」
「嘘だろ。俺が弱ってるからって優しいこと言わなくていい」
「なんでそう思う?」
「だってあんた、男娼のお前なんか抱きたくないって言ったじゃん……」
 エマとはちょっとずつすれ違うんだな。グランは少し笑ってしまった。
「エマ。それはお前が思ってるような意味じゃない。お前のことを金や恩で買おうとは思ってないってこと。言い方が悪かったな。ごめんな。どうしたら信じてくれる?」
 エマはかなり長い間無言だった。夕日が沈んで部屋の中がオレンジからゆっくりと紫色に変わった。グランは部屋の明かりをつけようとした。
「あのね。俺、言えなかったんだ。あんたに恋人になって欲しいってことも、病気持ってることも。怖くて。もう来んなって言われるの怖くて。自分のことしか考えてなかった。本当にごめん」
「うん。もうわかったよ」
「どうすんの?移っちゃってたら」
「治したらいいだろ。まあ、ちょっと面倒かな」
 グランが笑うと、エマもふっと笑った。
「あんた天使か何かなの?最初からそうだったよね」
「俺が?俺は一般人だよ。道で天使を拾っただけさ。すごい寒そうな……」
「寒かった!本当に助かったんだ」
 エマはあははと声を上げて笑った。
「……あのさ、じゃあ、俺の病気が治ったら…」
「うん」
「あの……」
 ものすごく言いづらそうだった。もう部屋はかなり暗くなって、向かいの建物に灯りが灯っているのが見えた。
「……てくれる?」
「ん?」
 グランが耳を寄せると、その耳にエマが囁いた。
「……キスして、抱いてくれる?」
「もちろん」
「もうぐちゃぐちゃになるくらい、してね」
 ごくんと喉が鳴った。今すぐにキスしたいのをかなり堪えた。
 体調が悪くて苦しそうなエマを見るのは辛かったが、そこにエマが居ることが嬉しかった。やっと繋がった。







 エマはそれから丸一日寝込んで、二日目に少し歩き回れるようになった。売春宿にいた時はこのくらいからまた客を取っていたと言うので、グランはさすがにやめろと言った。
「だって、薬代もかかるし、部屋代もさ。エスが多めに払ってんだ。今」
「客にまた病気のやつが来たらどうなんの?薬打ってるから移らないの?」
「わかんない……でも絶対カポットはさせるし、客にもキスはさせないことにするよ。自分のもしゃぶらせない。基本は手かな、しばらくは」
「生々しいな……」
 エマはぱっと赤くなった。ごめんね、エスとはこんな話ばっかしてるから。グランが薬代くらい持つよと言ったが、エマは食事も用意してもらって、洗濯も一緒に出してもらってるからこれ以上頼れないと断った。その代わり、朝晩の食事の時と体調が悪かったら必ずグランの部屋に戻ってくることを約束した。エマには合鍵を渡した。朝はグランが朝食を用意して出かけてしまってからエマが起きてきて一人で食べるが、夕食はいつも二人。エマは食後にまた街に立つけど、人通りがなくなると戻ってきてグランと眠る。グランはたいていもう眠っていたが、エマは起こさないようにうまくベッドに入り込んだ。
 注射の日、エマはグランに抱きついてきた。
「大丈夫だから。うちに帰ってくればいいから」
 グランがそう言って抱きしめると、エマは頷いて病院に出かけて行った。グランの家に来て少しましになったが、まだまだ痩せていた。
 仕事から帰ってくると、部屋にエマがいなかった。代わりにトイレからえずく音がした。
「エマ?」
「……おかえり。ごめん…」
「大丈夫か?」
「今日は夕食いらない……」
 エマが医者から聞いてきたことによると、梅毒の治療薬とはつまるところヒ素なんだそうだ。死なない程度のヒ素に、梅毒に効く成分を結びつけて体に入れてやる。だから副作用が全く出ない人はめったにいなくて、ほとんどの人がある程度体調を崩す。弱っていれば死ぬこともある。
 ひとしきり吐いてしまうと、エマは白い顔をしてぐったりとベッドに横になった。横に水を置いておく。眉根を寄せて苦しそうに眠るエマを見ると、早く治って欲しいと思う。代わってやりたいとも思う。今はできることをやって見守るしかない。たまに目を覚ますエマが、グランに向かって手を伸ばす。手を取ってやるとにこっとするが、顔色が悪すぎるし、生気がない。これを身近で見ていて、しかも場合によっては宿の裏手にほったらかさないといけなかったエスはかなり気を揉んだだろう。そんなことを続けていたら、エスが危惧した通り、エマだって弱り切って死んでしまったかも知れない。治療の終わりが見えないのも嫌な話だった。
 翌日は吐くことはなかったが、やっぱり血の気のない顔をして冷や汗をかいて寝ていた。とにかく辛そうだった。水やりんごを少しだけ口にした。ちょうど日曜日だったので日中もグランがそばにいると、エスがふらっとアパルトマンの裏に来たのが窓から見えた。
「エス!」
 グランが窓から声をかけた。エスは手を大きく振った。「行っていい?」すぐにグランの部屋のドアにトントンとノックの音がして、エスが部屋に飛び込んだ。
「エス」
 エマが嬉しそうに手を出すと、エスはその手にパンと手のひらを打ち付けた。
「うちにいた時よりは元気そうだな!お客にお菓子もらったからさ!」
 エスが持ってきたのは花梨のパートドフリュイだった。いくつか入っている。エマが一つ摘んで「甘い」と言った。
「少しずつ食べな」
「ごめんね、エス」
「いんだよ!俺が客つかない時とかはお前がなんとかしてくれたんだから!」
 エスはいかにも少年らしい少年だった。エマのような中性的な感じではない。エマと街に立っていなければ、男娼だと思う人はどれくらいいるだろうか。
 エマとエスはしばらく話をしていたが、エマが疲れたのか話の途中でかくんと寝そうになってしまったので休ませる。せっかく来てくれたから、グランはエスにサンドイッチでも持たせることにした。
「あんた料理すんの?」
「他に誰がすんの?」
 エスはものすごく驚いていた。たいていグランのような職人の弟子だと、親方の家に住み込みで働いておかみさんに世話してもらうのが常だ。一人で住んで食べるものも自分で作るというのはかなり珍しい。結婚して親方の家を出たというならわかるが……。
「親方の家は狭くてさ。親方の年取ったお袋さんと兄弟子も住んでたから、部屋がなくてな。こういう時は便利だろ。住み込みしてたらエマは連れ込めなかったよ」
 ワインを出してやるとエスはこくこくと飲んだ。エマは眠っている。
「エムの恋人?」
「そうだな。俺のことで間違いないみたいだ」
「珍しいよ。俺たちみたいなのの恋人なんてさ、まあほとんどがジゴロか同業だ。よっぽど運が良くて金持ちの愛人さ。あんたみたいにまともに働いてて恋人だっていうやつを見たことないね」
「そう?なんでだろう」
 エスは信じられないものを見ているといった顔でグランをじろじろ見た。
「だって、娼婦だの男娼だのだぜ。あんたわかってんの?許せんの?他人が恋人をガンガン抱いてんだぜ?まともなやつはやめてくれってなって、やめられないってなって、続かないんだよ」
 エスは言うだけ言ってしまってから、余計なことを言ったと呟いた。
「俺、戻るよ。エムによろしく。エムのこと頼むな」
 グランがサンドイッチを紙に包んで渡すと、エスはありがとうと言ってそれを持って出て行った。
 そりゃ、やめてほしいよ。
 こんな仕事してなかったら梅毒だって貰わなかっただろ。今こんなに苦労して治療もしなくて済んでた。俺だってエマの体に誰にも触れさせたくない。なあ、本当に触れさせたくないんだ。本当にだ。でもエマは「俺は体を売ってるんじゃない、技術を売ってるんだ」と言った。エマがそう言うなら、安易に街に立つなとは言えない。そうやって彼は稼いでるし、仕事として割り切ってると思うから、俺も仕事してるだけだと思い込もうとしてる。この仕事やめろ、別なことを考えろって言うのは簡単だけど、無責任だろ。そんなに簡単に別な仕事なんて見つかる世の中じゃない。
「グラン」
 エマがまた腕を伸ばしてきた。その手を取ってサンドイッチをサイドテーブルに置いてやる。少しだけ顔色が良くなってきた気がする。でも明日までは少なくとも、ベッドから立ち上がれないだろう。
「食べられるか?」
「うん、昨日よりかなりいい」
 エマはサンドイッチをゆっくり少しずつ食べた。そして食べ終わると両手をグランに差し出した。グランがぎゅっとエマを抱きしめると、エマは「キスしたい」と言った。とても小さな声で。
「キスしたいなあ」
「でもダメ。グランに移っちゃったらもう俺すごく後悔するもん……」
 グランはこつんとひたいをくっつけた。鼻先も触れる。もうほんの少しだけ、あと少しグランが下を向けば、エマが顔を上げれば。
「……俺さ、何も言わずにあんたとやっちゃおうかと思ったんだ……」
「ん?」
「もう、一回すごいのやっちゃっただろ。だから……もうどうせ手遅れかも知れないんだから、死ぬまであんたと思いっきりキスしてやりまくりたいと思ったんだ」
「はは。そうか。確かにすごかった」
 エマは抱き合ったまま、グランの耳元にキスした。
「あんたが俺に溺れたらいいと思った…セックスだけでもいいから、俺のこと……」
 グランがエマの白い首に唇を這わせた。
「……俺のこと、欲しがってほしかった。ごめんね…」


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