気がつけば彼に抱かれていました

美凪ましろ

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第一部――『気がつけば彼に抱かれていました』

◇1

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 待ち合わせ場所に向かう足が弾むのが自分でも分かっていた。

 スキップでもしたい気分だった。ひと目がなければ鼻歌さえ歌っていた。

 三年間付き合っている彼氏に『大事な話があるんだ』と呼びだされれば――決まっているじゃないの。

 あの、魅惑の四文字がわたしを待っている。

 頬が自然と緩み、胸のなかは期待に膨らむ。

 彼は、親が裕福で。庶民的な生活を送るわたしはその恩恵にあやかり、会うたび美味しい食事をご馳走になっていた。

 これからは、彼のために手料理を振る舞う日が続くのだ。

 わたしはそれほど料理が得意というわけではないが、なんだったら料理教室に通ったっていい。きっと通わせてくれるだろう、彼のことなら。

 愚かなことにわたしは未来のことさえ予想していたのだ。

 その三十分後に、その夢と希望が粉砕されることなど、つゆ知らずに。


『来年、結婚するんだ。だから、別れて欲しい』



 * * *


 鶏もも肉。

 豚肉の切り落とし。

 生姜焼き用のロース肉。

 目についたものをひたすらにかごにぶちこむ。

 手つきが乱雑なのが自分でよく分かった。

 気分最低。

『……ぼくの結婚相手は、ぼくが物心つく頃にはとっくに決まっていた。大学の卒業から五年後という約束だった』

 鍋食べたいな。でもめんどくさい。

 でも作んなきゃ。一人暮らしだし。

『三年前に。きみから告白を受けたのは、本当に嬉しかった。

 そのことだけは、……信じて欲しい』

 頭なんか下げられたって、知らないっつの。

 嘘も方便嘘も方便。

 あーあ。今頃、高級フレンチを食べているはずだったのになあ。

 とことん負け組なわたし。

 とことん勘違い女なわたし。

『分かりました。いままで、ありがとうございました。

 一条(いちじょう)先輩と過ごした日々はわたしの宝物です。

 末永く、お幸せに』

『待てよ。……出るのか』

 憎しみも悲しみも彼のこころに残したくない。

 にっこりと笑って店を去ったのはわたしに残された最後のプライドだった。

 それでまあ。現在。自宅最寄り駅スグのちょっとお高めのスーパーにて。

 ドリンクコーナーで牛乳の一リットルのパックをIN。明日の朝はシリアルを食べよう。ということはシリアルコーナーシリアルコーナー……

 角を曲がったところで、あっ、と叫びそうになった。

 散々鍋の材料を揃えておいて、肝心の鍋のタレを買っていないではないか。

 なににしよう。醤油。ちゃんこ。味噌。……魚の下処理をする気にはなれないな。

 わたしはここで笑いそうになった。

 振られたってのに。のんきに鍋の材料なんか買い漁ってやんの。やーいやーい。そんなんだからセレブ男に振られたんだぞ、と。

 おまえなんかひとりいなくなったって世の中誰も困りゃしねえっての。

 ――ああ。

 ため息を押し殺す。もう、つっこみが絶望的に暗いわ。いま、目の前に崖があったら笑って飛び降りてるかも。

 いかん。

 下を向くとなんだが目の奥が熱くなり、必死で歯を食いしばる。ここをどこだと思っている。学校でも家でもない、大人の立ち寄るスーパー。ましてやわたしは妙齢の女性。年齢一桁の子どもならわーわー泣くことも許されるけども。

 と思えば思うほどに思考は追い詰められ目も頬もどんどん熱くなっていき、たまらず片手で目を覆う。

 ――と。



「もし。そこの、爆買いしてるお嬢さん」


 驚きに涙腺が動きを停止する。


 古畑任三郎みたく眉間を摘まんだ姿勢のまま、ゆっくりと、振り返ればそこには――


「鍋食うんならおれにも食わせろ」


 清潔感を感じるけれども使い込んだことの分かる黒のスーツ。

 白地に、淡い青のストライプのワイシャツ。

 ネクタイは帰りの電車で外したのか、第三ボタンまで開襟していて。

 肌が白く線が細いくせにぼっこぼこの実に男を感じさせる喉仏があらわとなっており。

 大学時代に全体を長めにしていると『それでもボクはやってない』の『彼』に似ていると言われたのを気にしてわざと短めにカットした髪は仕事帰りにも関わらず、乱れずちゃんとセットされており。


 なにか怒ったような、悲しいような目で彼はわたしのことを見ていた。

 
 彼は、わたしのよく知る人物だった。


 * * *


「ああ。うんめえ。超うめえーっ」

 ……果たして豚しゃぶが『鍋』に分類されるのかは謎だが。

 ともあれ、目の前の男は実に美味しそうに食べている。

 その姿に、こちらも食欲をそそられる。

「豆腐、……そろそろ、いっていいかな」とわたしが鍋に箸を伸ばすと、視界に大きな手のひらが入る。箸を持っていたはずの彼の手だ。「ああ、いい、おれ、取ってくるから座ってて。台所の引き出しにあんよね、豆腐すくうやつ」

「うん……」

 きびきびと動く彼の後ろ姿を見る。手、……大きかったなあ。

 身長が大きいと手もやっぱり大きい。

 ということは、やっぱりあれも……。

 なにを連想しているんだこの失恋女め。

「……なに笑ってんの」目ざとく彼がそんなわたしの笑みに気づく。「はい。皿よこせ」

「……ありがと」

 そして彼はわたしのグラスにビールを注いでくれた。よく、気の回る男だ。

 土鍋から立つ湯気の向こうに見える男は、正直、見てくれはいい。

 性格もいい。

 だけれど、……

 思考を打ち止めにし、熱いうちに彼のよそってくれた具材を口に放り込む。水菜。もやしのしゃきしゃきした食感と、ほろっとした豆腐の柔らかさとポン酢の酸味が相まって、

「なにこれ。超絶美味しい」

「超絶旨えよなあ」男は目尻に皺を寄せて笑う。その表情が女の目に実に魅力的に映ることを知っているかは定かではないが。「肉も食えよ。なんならおれがしゃぶしゃぶしてやるけど?」

「いい」とわたしは首を振った。「自分でしたほうがなんか美味しい気がするもん」

 微笑んで彼は肉のパックを渡す。目を細めても目の大きいひとだなあ、とわたしは思う。

 そして、彼は、わたしと一緒に箸で肉を挟み鍋で茹で始めると、

「にしても。OX(オーエックス)でおまえ見かけるとは思わなかったな」

「わたし、最近結構OX派なんだよね。特に平日は。平日わざわざ遠いほう行く気しないじゃん。けいちゃんこそなんであそこにいたの」

「おれは、……外歩いてたらなか見えるじゃん、ほんでなんか、血相変えて爆買いしてる女がいたから」

 わたしは茹で上がった肉をごまだれ入りの器に入れてため息を漏らした。「……傍から見ても変なひとだったわけね」

「別に、普段のおまえを知ってるやつじゃなければ変だとは思わないんじゃねえの」

 変、か……。

 いっとき忘れかけていた悲しみや憎しみの情がこころの表層に浮かび上がりかけるのを封じ込め、わたしは肉を口に入れた。

 たまらず、笑みがこぼれる。「うん。美味しいね。けいちゃんの言うとおり、肉はごまだれで野菜はポン酢で食べるのがなんか、美味しいね」

「だろだろ?」得意気に言い彼は手酌をする。気を遣われるのが嫌いな男だ。「にしても、しゃぶしゃぶっていいよな。二人で食うと超旨え」

「……一人でしゃぶしゃぶ作る気にはなれないもんね。鍋ならともかく……」

「まーな」

 けいちゃんは、わたしの大学一年の頃からの友人である。

 大学卒業後、偶然にもわたしの住むマンションの近くに住み始めた彼とは、時々、どちらかの部屋でこうして自炊をする仲だ。

 一人暮らしで食事を作るのはかったるい。けどひとりで外食する気になんかなれず、されどテイクアウトの濃い味じゃちょっとなあ、……というときに、とてもありがたい存在だ。

 勿論、食費が安く済むという意味でも、一人暮らしの孤独を埋めてくれるという意味でもありがたい。

 食事をした流れでどちらかの家に泊まることもある。男女関係には、勿論、ない。

 わたしにはついさきほどまで彼氏がいたわけで、けいちゃんには、長年片想いをしている相手がいる。

 仔細は知らない。以前にけいちゃんに訊いたところ『秘密』と言われたのだ。

 彼は割り合い、なんでも答えてくれるひとだ。男性のあけっぴろげな生理のことだとか守秘義務を貫いたうえでの仕事の話。高校時代までの女遍歴。(大学時代以降のことなら一緒にいたから大体分かっている)その彼が『秘密』と言うからには、それを無理に聞き出すのも無粋というものだろう。

 わたしは残っている野菜をすべて鍋に入れてから、彼に水を向けた。「けいちゃんは、最近仕事は忙しいの」

 すると彼は顔を器のほうに向けたままで、

「二十日間休みなし。だから今日は帰された」

「二十日間!?」声が裏返ってしまった。「なにそれ。労基違反じゃないの」

「んなこと言ってもなあ。SE(エスイー)さんなんかもっと働きまくってんからなあ……、おれはまだマシなほうだぜ」

「にしても、働き過ぎじゃ……」

 あいも変わらず彼はわたしのほうを見ようとはしない。おそらく、ポン酢のほうに入れて、豚肉で野菜を巻きつけている様相。その食べ方、なんか美味しそうだ。

 というより。

 よく見れば、彼の頬はもともとシャープなほうだけれど、その痩け具合がひどくなっているような……。目の下のくまだってちょっと濃いし。

 ここでわたしは、自分にはまったく他人のことが見えていないことに気がついた。

「まあな。そんでも、ひとには、自分だけの力で壁を超えなければならない時期があるだろ。いまがそのときって話。……ま、頑張るよ」

「あまり、……無理、しすぎないでね……」

「優しいのな綾乃(あやの)ちゃん」やっと彼がわたしを見て笑った。笑わなかったのはほんの三十秒足らずのことだったけれど、わたしにはひどく長く感じられた。「おれのこと心配してくれてんの?」

「あったりまえじゃないの。友達なんだから」

「友達、ね……」瞬時。彼の目に悲しいなにかが過ぎったように見えたが――気のせいだろう。

 一緒に美味しいものを食べ。

 元気づけることを優先しよう。

 その後は。いつもどおり彼が会話をリードしてくれた。わたしは、笑いっぱなしだった。笑いすぎて顎が外れるかと思った。笑いながらもなんとか完食した。


 絶望的な日に救われた気分になれたのは紛れも無く彼のおかげだった。



 *
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