気がつけば彼に抱かれていました

美凪ましろ

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第二部――『おれの彼女のおっぱいは世界一!』

◇2 *

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「なんかあんた、胸でっかくなったん違うが」


 まじまじと見つめてくる恵琉(える)にそう言われ、ストローでジュースをすする綾乃は頬が染まる感覚を意識しつつ頷いた。

 こういう、あけすけなトークができるのは女性ならではだ。相手が異性なら、先ずこういう話はしない。

 そして綾乃はストローから唇を離し、目の前の親友に笑いかける。「でも、恵琉ほどじゃないよ」

 なにしろ、佐々木(ささき)恵琉(える)はFカップの美乳の持ち主。一緒に日帰り温泉に入ったときなどは、彼女のプロポーションに密かに魅せられたものだ。

 タンクトップに包まれた胸は確かに高い位置で盛り上がっている。露骨に視線を注げるのも同性ならでは。

 異性に見られると不快なのに、同性だとそうでもないのはどうしてだろう。

「ふぅん。やっぱ愛されとるんね、小池くんに」意味ありげに恵琉は笑う。仔細は伝えずともどうやら伝わっているようで。

 綾乃が恵琉と知り合ったのは大学時代の合コンだったがそこで出会った男性とは一切喋らず、同じ県内の出身であり、年齢も同じ彼女と意気投合し、親友になった。――東京で石川県出身の人間と出会うのは河原で四つ葉のクローバーを見つけることよりも難しい。

 知り合って二年後に恵琉はできちゃった結婚をし(いまでは『授かり婚』と言うらしいが当時はそう呼ばなかった)、既に七歳の子どもがいる。ちなみに本日は、彼女の夫が子どもの面倒を見ているそうだ。

 恵琉が結婚する前は、あけっぴろげな性のトークなどを繰り広げたものだったが結婚してからはさっぱり。お互い守秘義務というものを持つようになった。

 というわけで、綾乃は、『つき合って八ヶ月が経つけれども毎日最低でも二時間セックスをし、毎日愛されまくり、おっぱいを揉まれまくっている』ことなど気軽に打ち明けられないでいるのだが。

 勿論、丈一郎のことは大好きだ。彼は、綾乃の固く閉ざした扉を開いてくれた最愛の男だ。彼と関係するまでは、あんなにセックスが気持ちのいいものだとは知らなかった。特に、丈一郎がなかに入ってきて、彼が綾乃の最奥をゆっくりとかき混ぜるあの動きが綾乃は大好きだ。脳髄に響くくらい満ち足りてしまい、どうしようもなく、丈一郎が愛おしくなる。それで、あんまり気持ち良すぎて、立て続けにいってしまい、ひどい時は事後一時間ほどベッドから動けない。寝てしまうことすらある。――丈一郎がきちんと事後処理をしてくれてはいるが。

 果たして、これが異常なのか正常なのか、綾乃には分からない。そのことは綾乃にとって苦しかった。明確な基準が分からないのだ。こと、ひとびとが隠匿するセックスという領域において。

 誰にも打ち明けられない事象を抱えるのは誰しも苦しい。綾乃も、妙齢の女性であるため、そろそろ周りにも結婚する人間が目立ち始め、相手が恵琉でなくとも、そういう話をできないでいる。

 綾乃は、先ず、探りを入れることにした。「……恵琉って、旦那さんと仲いいの?」

「まあ、それなり」クールな答えが返ってきた。「うちら、夫婦関係築く前に子どもがおったやん。やから、子どものおらん新婚時代がどんなもんかよう分からんけど……、子どもが二歳になるくらいまでは喧嘩ばっかやったな。そっから、熟年夫婦みたいな感じになったわ」

「熟年夫婦……」

 理解できないでいる綾乃に恵琉は補足を入れる。「子どものことで会話はするけど、お互いの話題はなーんかさっぱりて。興味が薄れるっつうか……毎日一緒におるから、やっぱ飽きてしまうんやよね」

 ちなみに恵琉は兼業主婦で、平日は証券会社でばりばり事務の仕事をしている。それくらい割り切った考えの持ち主でないと、育児と外での仕事の両立は難しいのかもしれない。

 思い切って綾乃は尋ねた。

「率直に聞くけど、……レス?」

「ううん」とアイスティーを一口ストローですすり、恵琉は首を振る。「一ヶ月にいっぺんくらいは、あるよ。なんかやけに盛りあがる」

「そう、なんだ……」不躾な質問かとも思ったが、恵琉はちゃんと答えてくれた。

「綾乃がなにに悩んどるかは知らんけど。あたしでよかったら聞くよ?」と恵琉は綾乃に水を向ける。「んー。それでも、あたしに言いづらいようなことやったら、直接小池くんに聞いてみいや」

 恵琉の台詞は、孤独のなかをさまよう旅人に差し伸べられる手だった。

 恵琉の笑みが、まるで女神のように綾乃の目に映る。

 ここのところずっと悩んでいたことを、打ち明けようと思った。

「そのね、……触られるのが、毎日で、……そういうのも、つまり、毎日で、……あのね。これが、いつまで続くのか、ちょっと、不安で……」実をいうと仕事中に眠くなるのを防ぐため、最近ではひとりで急いでお昼を食べ、昼寝をしている。「別に、嫌ってわけじゃないんだけど、むしろ、好きなんだけど、……でもね。わたし、か、んじやすいタイプみたいで、……だから結局触られるとそういうことになるっていうか……」それから余波が収まるまでが大変なのだ。

 すると、「前戯だけでどのくらいかかるん」と恵流の声。

「さ、んじゅっぷんとか、一時間とか、まちまち……」

「ながっ!」恵琉ののどちんこが綾乃には見えた。「え? なに? あんたら、つきあい始めたん年末くらいやなかったんけ」

「11月11日……」

「あそっか。ごめん。あんたの誕生日やったね。つまり、つきあい始めて八ヶ月以上経つんに、相変わらずがっつくってことなんね。そら、……しんどいわ」

「ブラも全部買い換えになったし」

「EとかFになったん?」

「さすがに、恵琉ほど大きくはないよ」綾乃は苦笑いをし、髪を耳にかける。「ワンサイズアップ」

「まあ、……愛されるんは嬉しいけど、ほんでも、大変なときもあるわなあ。

 ……小池くんに、素直に話してみたら?」

「そうする」思いつめていた綾乃の顔にやっと笑みが戻る。「そうだね。もうちょっと、控えめにして欲しいって、頼んでみる」

 でも綾乃には分かっていた。すぐには無理だろうと。自分にも、丈一郎にも。

 享楽に浸りきった恋人同士が、そこからぬけ出すのは、難しい。三年も経てば自然と『冷める』ものだが、この恋人同士はそれを知らずにいる。

 すると恵流が、カップに口をつけ、付着した口紅をハンカチでそっと拭いながら、丈一郎のフォローに入る。「まあ、でも、小池くんも、よっぽど嬉しかってんろうな。

 ずぅーっとあんたんこと、好きやってんろ?

 誰もが必ず異性にがっつく二十代の頃に、彼女作らんとずぅっとあんたと友達関係続けて、手ぇ出したいん我慢してむらむらする自分抑えこんで。

 男性がそれを続けるんは、女のあたしらが想像する以上に苦しいことやと思うわ」

 綾乃は、ちょっと目を見開いて、恵琉に訊いてみる。「恵琉って、その、……けいちゃんが、大学一年の頃からわたしを好きだったってことに、気づいてたり、した?」

 恵琉と出会った直後、丈一郎も入れて三人で飲みに行ったことがある。よって、二人は面識がある。

「バレバレやったわいね」綾乃の質問に対し、目尻に皺を寄せて恵琉は笑う。「なんかあんた見る目が違ったもん。

 ……やからあたし。釘刺しといたんよ。

 綾乃を傷つけるようなことがあったら、あたしは絶対に許さん、て」

「恵琉……」綾乃は、目が熱くなる。「わたしの知らないところでそんなこと……」

「やからあんたから『けいちゃんとつきあい始めた』って報告受けたときにな、すっごく安心してん。

 ……あんだけ思い続けておる男なら、あんたんこと、悪いようにはせんやろと思ったし……」

 綾乃が恵琉に丈一郎のことを話したのは電話でだった。同時に、一条に振られたことも明かすと、恵琉は怒り狂った。『なにそれ。殴り飛ばしたいわ!』と綾乃が心配になるくらいに激高したのだった。

 そのとき、すこし落ち着くと、恵琉は明かしたのだった。『ほんでも、……別れたんは正解やったとは思うわ。

 あんたたちの関係、奇妙やったやろ?』

 恵琉は、一条と面識があるわけではないが、綾乃の話を聞くうちに、心配になってきたのだそうだ。

 一条誠治は、綾乃と将来を共にする気がないのではないかと。

 恵琉のその心配は的中したわけで、綾乃の初めての恋は、別の女性と結婚を決意した彼氏に別れを告げられるというかたちで幕を閉じた。

 恵琉は、若いうちから子育てを開始したというだけあって、他人に対して自分の考え方を押しつけたりしない。これも、綾乃が恵琉と仲良くし続けたいと思う理由だった。

 もし、一条と恋人の時代にいろいろと言われていたとしたら恵琉との関係を切っていたかもしれない。

 いまなら、一条との関係は不自然だったと思い返すことができるが、それは事後だからだ。当時は別れることなど絶対に考えられなかった。

 彼は、異性として魅力的で、裕福な家庭に育った割りには自分と違う立場に対する人間の思考を理解する包容力の持ち主で。話し方はいつも穏やかで、綾乃に対してだけでなく誰に対しても優しい男だった。

 それに。大学入学直後という多感な時期から四年半ものあいだ、ずっと片想いをしてきて――特に。学年がひとつうえの一条が卒業してからが苦しかった。卒論や就職活動、それに就職など気を紛らわせるものがあれど、からだの半身ががらんどうで。まるで抜け殻だった。表面上平気な顔を取り繕う自分が滑稽に思えたほどだった。

 一条とは彼が在学中は頻繁に会う間柄だったが――といっても、場所はキャンパス内限定ではあったが、卒業後は一切連絡を取り合わなかった。つまり、彼自身の綾乃に対する興味関心はそれだけの程度。

 同じ大学の先輩の結婚式の二次会がなければ、会うことすら叶わなかったであろう。

 その二次会に参加する頃には、一条と最後に会ってから一年半が経過していた。

 久しぶりに見る彼は、社会の荒波に揉まれた人間に共通する、熟成した大人の雰囲気を身にまとっていた。されど、話し方は大学時代となんら変わらず。むしろ、意識的に砕けたトークをしている節があった。他の先輩と話す彼を綾乃は盗み見た。彼が、綾乃を見た。綾乃に笑いかけてくれるその顔は相変わらず無垢な少年のようであり――

 胸が高鳴るのを抑えられなかった。

 これを逃すとチャンスは二度とない。駄目元で告白したところ、なんと、彼は、綾乃の想いを受け入れてくれたのだ。

 本当に、一条が綾乃を愛しているのか、或いはそうでなかったかは、分からない。彼の気持ちは彼にしか分からない。週に一度だけの逢瀬という関係性を注視すれば冷淡とも言えるが、他方、彼が綾乃といるときにこころから嬉しそうな顔をする瞬間があった。例えば、綾乃が家族の話をするとき。

 ベッドのうえで、初めて綾乃が自分からキスをしてみたときの反応を、綾乃は忘れることができない。

『……頼むよ。そんなことをされると、ぼくは、止まらなくなる……』

 見たこともないほどに頬を赤く染め、弱々しく発言したあの言動が嘘だったとは、どうしても綾乃には思えない。

 だから、綾乃は信じることにした。

 過去の自分も、いまの自分も。

 自分の主観こそが絶対だと思い込み、意見をあますことなく伝えるのが正義だと考える人間は世の中に多い。我慢できない人間も多い。著名人が『しでかした』際のネットニュースのコメントなんかまさにそれだ。……市民が権力を持つ現代社会においては発言の『威力』を軽視してはならぬが。ときには。言い放つだけではなく。相手に判断を委ねること。その人間が自分から『気づく』のを待つ瞬間も必要なのだ。なにかを『変える』にはそれなりに『技術』が求められるのである。誰かを育てるときになどは特に。それが、相手を『信じること』。待つのも見守るのも勇気と覚悟が必須。会社で後輩を指導する立場になってみて、綾乃は気づいた。

 分かっていても黙ってくれていた恵琉の、偉大さが分かった。

 指摘されていたら激怒してますます一条とのことに意固地になっていたかもしれない。

 綾乃は、恵琉に信頼と感謝の念を抱いている。

 その思いは、ときに声に出して伝えるべきだと思った。「本当に、……すごいよね、恵琉って。

 二十歳で結婚して仕事も子どもも持ってるのに、落ち着いてるし、……押し付けがましくないし。

 スタイルいいし、身奇麗にしてるし……、本当に、わたしの憧れだよ」

「平日は髪振り乱しておるわいね」髪を耳にかけ、また恵琉が笑う。「ネイル塗る暇もないもん」

 恵琉は、同郷の人間相手に喋るときだけ、方言を使う。

 それは上京して間もない頃。『東京』に慣れることに必死だった綾乃の目には眩しく映った。

『故郷』を捨てるのがクールでかっこいいことなのだと当時は思い込んでいたが。

 恵琉と出会っていなかったら、年に一回欠かさず故郷に帰る習慣を絶っていたかもしれない。

 綾乃がこうして恵琉に会うのは、恵琉の新築の一軒家を訪れて以来だった。あれから五年は経つだろうか。忙しい恵琉は、なかなか気軽に友人と会う時間も作れず、育児と家事に必死に奔走している。電話で喋ることはあれど。

 会うのが久しぶりであっても、共通の認識が、隔たった時間を溶かしだしてくれる。そのあと、綾乃と恵琉は、学生時代の頃のように、追加注文したパフェをつつきながらひたすらに語り合った。恋人のこと夫のこと子どものことそして将来のこと。

 夢や希望――。

 生きることは必ずや苦痛を伴うものだ。しかし、同時に希望や愛に満ちあふれている。自分を見失うときは、それを忘れてしまうだけであって。

 綾乃にとって、恵琉は、自分に大切なものを気づかせてくれる、大切な存在だった。

 自分の将来を体現する、憧れの女性でもあった。

 綾乃だって、いつか家庭を持ちたい。愛するひととの子どもが、欲しい。

 恵琉と話すうちに綾乃は自分の想いを確信した。


(けいちゃんと、いつか、一緒になりたい――)


 * * *

 
 帰宅すると、丈一郎はひとりテレビでサッカー観戦をしていた。彼は仕事柄、スポーツ全般をチェックしている。

 洗面所で手を洗うと、綾乃は彼に近づいた。彼の瞳が、綾乃の姿を認めると収縮する。いつも、綾乃を見ると彼の表情が柔らかい笑みへと変わるのが、綾乃には嬉しかった。「おかえり、綾乃。楽しかった?」

「うん、ありがと」綾乃は、彼を胸に抱き締める。

 すると、素早く彼の手が綾乃の背中に伸び。衣服の下に手を滑りこませ、ぱちん、と拘束を外す。もう慣れたものだ。

 焦らすようなことはしない。彼が脱がせる動きに従い、綾乃は彼のしやすいように動く。あっという間に上半身はだかとなり、この胸は――

 丈一郎の情熱を、受け止める。

「み。見なくていいの、サッカー……」テレビの歓声が耳に入る。どうやら選手が得点を決めたみたいだ。すると、顔を起こした丈一郎は手を伸ばし、リモコンでテレビを消す。

「いい。あとで携帯でチェックするから、いい」

 綾乃の乳首を舌で軽く転がしてから、丈一郎が言ってのけた。


 いまは、おまえの声だけが聞きたい。


 * * *


 綾乃の知る男性は、丈一郎を除けばひとりだけだ。

 なので、一般的な行為がどういうものかを、彼女は知らない。

 一条誠治とのセックスは、満たされることはあれど、別段、強烈というものでもなく淡々としていた。

 義務で行う仕事にもちょっと似ていた。勿論、からだとこころは満たされることはあれど。

 綾乃は、丈一郎に抱かれると、声が出るのを抑えられない。

 彼女は卑猥なものを、文書や画像でしか知らない。要するに、映像を見たことがないのだ。

 なので、どういう種の声が『正しい』のかがよく分からない。それでも――


 自分は、よくあえぐほうだと思う。


「あ。ああ。けいちゃん、けいちゃん……」

 ベッドのうえで丈一郎に執拗に求められ。綾乃は、必死で彼に助けを求める。

 その彼はますます、綾乃を高いところへと導いていく。

「綾乃。――綾乃」腰をゆっくりと回しながらくちづけをくれる。綾乃の好きな、彼の愛し方だ。目の奥が熱くなり、彼を締めつける自分の力が強くなるのが分かる。

 目の前に閃光が弾けた。

「ん。はああ……」ねっとりとした彼の舌が出て行く。彼女の変化は彼に、伝わったようで。

 頬に添えられた彼の手が、熱い。

 視線を、感じる。

「あ。ひあ、あっ……」最中に乳房を揉まれ。綾乃は切ない声を放つ。

 手加減した彼の力が、愛おしい。

「……気持ちいいの、綾乃?」彼の、低い声がここちよく綾乃の耳に響く。続いて、髪を優しく撫でてくれる彼の動きが伝わる。

「うん……」目を閉じたまま綾乃は答える。まだ、自分の世界から出ていけない。

 すると、丈一郎は、綾乃の腰に手を回すと、くるんと上下を入れ替え、


「今度は、おれのことを気持ちよくしてよ……」



 * * *


 丈一郎の厚い胸板に手を添え、ふと綾乃は考える。

 毎日のことなのにこうなってみると、いつも丈一郎が、どんなふうに動いていたかが、分からない。

 案外、難しいものだ。

 丈一郎なら、初めてのことであっても、難なく行えるだろうに……。

 腰を動かしてみる。でもなんだか物足りない。丈一郎がするほどには、うまく行かない。

 丈一郎との初めてのセックスは、正常位で。でもこの体位。どう動けばいいのかまったく分からない。

 どうすればいいのだろう。

 救いを求めて目を開いた。丈一郎は真っ直ぐに綾乃のことを、見つめていた。

 このひとのためになにか、してあげたい。

 また一突き。でもその力は、ひどく弱い。いつも彼の提供してくれる快楽には、とても足らない。

 綾乃は、唇を噛みしめる。

 何度か繰り返し、たまらず綾乃はこぼした。「どうしよう……、けいちゃんがしてくれるほど、うまくいかないよ……」

 綾乃の胸に募るのはむしろもどかしさのほうだったのだが。

「なんか、……いいもんだな。下から、綾乃が動いてるのを見んの」

 意外にも、丈一郎の声は、喜びに満ちていた。

「えっ?」と首筋に埋めていた顔を綾乃は起こす。すると、頭の後ろに手をかけられ、強く引き寄せられる。

 丈一郎の頬に額を預けたまま、綾乃は彼の声を聞く。

「別に、そんなのは、二の次でいいの。

 一生懸命な、綾乃が、可愛い。

 大好きだよ。

 おまえが、動くたび、おっぱいが揺れて、超、いい眺め……」

 やっぱりおっぱいなのか。

 丈一郎の頭の後ろに手を回し、綾乃は声に出さずに笑う。

 その肝心な柔らかな胸は、彼の固い胸板に潰されている状況だが。彼は、このことをどう思っているのだろう。

 ちらと彼の表情を確かめようとすれば、彼の口元が笑みを浮かべる。

「いまから、綾乃のこと、気持ちよくしてやるから、ちょっと待ってて」

 待っていたのは下からの深い突きあげ。

 いままでとは違うところに当たって、深い意識へと綾乃を追いやって行く。

 鳥肌が立つ。背筋がしびれ、ますます愛液を吐き出してしまうのが分かる。

 この体位で情交に及ぶのは、初めてだった。

 丈一郎は、計算してやっているに違いない。

 綾乃は、流れに身を任せた。すると、間もなくしてそのときは訪れる。

 暗闇のなかで必死に手を伸ばせば花開く情景のなか。


 やはり、彼は綾乃の姿を認めると笑いかけ。

 そして、差し伸べる手を握りしめてくれた。



 * * *


 セックスの後は、シャワーを浴び、抱きしめ合って眠る。……ベッドには、情交後に特有の匂いは残ってはいるけれど。

 からだの前面で、丈一郎の固く締まったからだを感じ。他方、彼の大きな手は綾乃の背中に回されている。

 違うんだなあ、と綾乃は思う。

 男と女のからだは、どこまでも違う。

 丈一郎とこうなる前は、丈一郎のことを男として意識せぬよう努めてはいたが、その意識こそが彼をなにものでもない『男』として綾乃のなかにつきまとい――

 端正な顔を持つ彼に真っ直ぐ見据えられ心臓の鐘が激しく音を鳴らしたこともあった。

 お皿に盛った鍋料理を、汁まで残さず『うめーっ』と平らげる姿。

 しめのお茶漬けをいつかのCMの男のようにかきこむ姿。美男子ゆえ、いずれも様になった。

 なんど見ても、飽きることなどできず。

 綾乃は、頬杖をついていつもそんな彼の姿を眺めていた。『観察する』という表現が正しいくらいに。

 大きな図体を丸めて料理に向き合う姿。お皿を持つ、血管の浮いた手の甲。広い肩幅。突き出た喉仏。

『おまえ、結構早い段階で、おれに惚れてたんだよ』――彼がああ言った通り、確かに、綾乃は丈一郎のことを意識してはいたのだ。自覚するのが遅かっただけで。

 いま思えば、一条誠治への恋心は、小学生の頃のそれと似ていた。相手と真摯に向き合う要素よりも『憧れ』の要素が強かった。

 丈一郎とこうなったいま、あれは、丈一郎に対する感情とは別のものだと断言できる。

 綾乃は丈一郎を起こさぬようそっと身を起こし、丈一郎の頬に手を滑らせた。肉の薄い男性特有の頬。肌の手入れをきちんとする丈一郎の肌は、触り心地がいい。職業柄、ひとと会うことの多い丈一郎は、身なりに気を遣っている。綾乃の愛用している乳液先行型の乳液を塗ってみたところ、『気持ちいー!』と丈一郎は喜んでくれた。

 閉じた目も、鼻も、口も大きい。肌が、白い。陶器のような白さだ。年をとってからシミになるのを気にして、例年四月から日焼け止めを塗っているそうだ。日焼け止め落としも常備している。

 下唇に指の腹を滑らせる。意外と、かさついていた。長いまつげがすこし震えた。起きてしまうのではないかと内心、綾乃は身構えたが、もとの落ち着きを取り戻し、安心した。

「けいちゃん」

 胸の奥から、『愛おしい』という情愛が湧いてくる。自分は、確かに丈一郎を愛している。

 なんて、美しい顔でこのひとは眠るのだろう。

 なんて、美しい顔でこのひとはひとを愛するのだろう。

 綾乃は、浅く上下する丈一郎のはだかの胸に頬を預けた。彼になら、安心してすべてを委ねられることを、綾乃はよくよく知っている。

 そっと、丈一郎のお腹に手を置いた。誰に対しても第一印象で好印象を与えねばならない営業職という職業柄、丈一郎はからだを鍛えているそうだ。初めての夜は、彼のからだを直視する余裕などなかったが、翌朝、ベッドのうえで見た彼のからだの美しさに、綾乃は密かに魅せられたのだった。

 余分なものを削ぎ落とした丈一郎のからだが、綾乃一人を愛す人間として、ただそこに存在した。

 綾乃は、丈一郎の後頭部に手を回し、より自分の柔らかさを押しつけるようにする。綾乃自身がとても気分よくいられる体勢だ。丈一郎は、『綾乃のおっぱいが潰れるのを見るのはいやだ――いいや、そ、こまで、悪くないかも』と煩悶するポーズでもあるが。

 丈一郎は、いまだ目覚める様子にない。

 それをいいことに、綾乃は、思い切って、丈一郎の腰の横に手をついて、からだを上下させてみた。自分の乳房を使って丈一郎を愛撫する動き。恥ずかしくて、丈一郎の意識が覚醒していたら、できない行動だ。もし彼の目前でしてみれば、間違いなく彼は喜ぶだろうけれど。

 もっと、彼の喜ぶことをしてあげたい。

 けれども、自制心や羞恥心のほうが勝ってしまう。いつも丈一郎に求められ、自分を見失うばかりで。

 ひょっとしたら、自分は、ひどく自己中心的な人間なのではないのか。

 自分の乳房をこすりつけて、綾乃は感じないわけではなかったが――彼に、与えられたものをちっとも返せてはいないのではないか。

 そう思うと、胸の奥から、栓を開いたかのように、悲しみがあふれ出てくる。

「けいちゃん……」

「綾乃。……お?」丈一郎が、目を開いた。綾乃の行動に、気づいたようだ。彼の口の端が弓なりにあがる。「おまえ、……そういうこと、してくれるのは嬉しいけどさ。おれが完全に起きてるときに、してくれるほうが、もっと、嬉しい、かな……」

 丈一郎が顔を歪める。彼の状態は、彼に密着している綾乃には分かりきっている。

 だから、綾乃は動いた。そして、邪魔な掛け布団を床に落とすと、彼の性器を自分の乳房で挟み込んだ。

「ちょ。綾乃……!」

 やるなら、いましかない。

 歯の奥を噛み締め、綾乃は行為に及ぶ。

 難しい。うまく、滑らない。

 すこし濡れた丈一郎の尖端に触れ、それを乳房に塗りたくるようにした。そして、再び没頭する。

「……んあ。綾乃ぉ……」上ずった丈一郎の声が聞こえる。綾乃は、丈一郎の視線を受け止め、乳房で挟み込んだまま、自分のからだを上下させる。すこし、ましになった。

 丈一郎の情交に比べれば自分の動きは非常に生ぬるいものであろうが。

 それでも、丈一郎の表情に苦悶と快楽が入り交ざる。

 開かれていく丈一郎を行為のさなか、綾乃は盗み見た。

 それは、とても愛おしくて切ないものであった。

「けいちゃん……」綾乃は、自分も感じながら声を出した。「好き。好きなの。大好きなの。だから、……

 気持ちよく、なって……?」

「あ。綾乃……」丈一郎の、いつも綾乃を愛する大きな手が綾乃の後頭部に触れる。「おれ、……死ぬわ。まじで、意識、飛びそ。ほんとに、……気持ちい……」

「本当?」綾乃は、嬉しくなる。

 いつも、彼に愛され、導かれるばかりで、自分はちっとも丈一郎のことを見たせていないのではないかと綾乃は、悩んでいた。

 だから、綾乃は動きを加速させた。何度か往復させるうちに、こつが掴めてきた。丈一郎の表情を盗み見、どんな動きがいいのかを予測し、動きとして結実させる。それは、いままでにないほどの、性の営みの効果を、綾乃に実感させた。

「あ。あ、出る出る。綾乃。おれ、出ちゃうよ……」

 余裕を失った丈一郎が、綾乃には愛おしかった。「いいよ。いっぱい出して。綾乃のこと、汚して……」

 自分の声が、丈一郎に安心感を与えたのが綾乃には分かった。

「あ。あ。あ、ああ……!」

 動きを止め、真正面からそれを受け止める。

 自分の体内で弾ける丈一郎はこんななのかと、綾乃は、感動すら覚えたのだった。

 ひくん、ひくん、と全身を揺らし、精液を吐き出し尽くす丈一郎の姿。

 肩で、荒い呼吸をし、まともに動かないだろう手で綾乃の髪を撫でる愛おしい男。


「けいちゃん。――大好きよ」


 顔にしたたるそれを手の甲で拭い、いまだ余波に震えるその男に、自分からくちづけた。


 * * *


「ひ。あっ、あ……!」

 一度達したのが分かっているはずだというのに。

 そうすると必ず綾乃のなかに入ってきて、目的を遂げるこの男が、自分のことを離してくれない。

 ――鬼畜か、この男は。

 頭のてっぺんから足のつま先まで快楽のるつぼに水浸しにされ、そのまっただ中。頭の端で、綾乃は思う。

 それにしても、丈一郎の手や舌はよく動く。器用なものだ。

 そして、触られているのが『乳房』だけだと、さすがに、綾乃は物足りなくなってくる。

「けいちゃん、……触ってよぉ」内ももをこすり合わせながら綾乃が言ってみようとも、いつも、綾乃の目を見て要望に応じてくれる丈一郎が、自分のことを、見てくれない。

 いったい、どうしたのだろう、丈一郎は。

 このままでは、また――

「……あ。いやあ、わたし、また、いっちゃ、あ……」

 乳房をもみくちゃにされ舌で指で散々愛撫され。綾乃は涙を流して、二度目の絶頂を迎えた。

 震える綾乃の頬を両手で挟み込み、丈一郎がようやく声を発す。

「なんどでもいかせてやるよ、おまえのことは……」

「けい、ちゃ……」

「あんまり、思いつめるなよ。

 おまえは、おまえだ。

 堂々としていろ。

 そんな綾乃をおれは、愛しているんだから……」

 唇に、丈一郎の潤いが伝わる。

 それを通して、彼の愛情が、胸の奥へと、熱い鉄の塊となって、綾乃のなかへ降りてくる。触れたらもう――引き返せない。

 自分がなにに対して悩んでいたのか。丈一郎には、お見通しだったのだ。

「けい、ちゃ……」突き上げる感情と戦いながら、綾乃は声を絞った。「あたし、ね……、いつも。けいちゃんに、もらってばかりで、なんにも、返せてないのかって、すごく、不安で……」

「綾乃」彼の指先が綾乃の涙を拭う。「ごめんな、おれ、……気づいてたのにな。綾乃の不安をちゃんと取り除いてやれなくて、……悪かった」

「けいちゃんが、謝ることなんて、ないの。わたしが。わたしが……」

「どんなやり方が正しいかなんて、誰にも決められやしないだろう?

 おれたちには、おれたちにふさわしいやり方が、あるんだ。

 だからそれを、二人で見つけていこう。

 おれたちにならできるよ、絶対。

 ……聞くけど綾乃。

 おっぱい触られんの、いや?」

「ぜんぜん」綾乃は即答した。「すごく、……気持ち良すぎて、だから、けいちゃんのこと、ぜんぜん、触ってあげられなくて……」

「おれはなあ、綾乃」綾乃に微笑みかける丈一郎の目はどこまでも優しい。彼の感情は、その手つきにこそ如実に現れている。「綾乃と一緒にいられるだけで、すごく幸せなんだ。

 おまえがいく顔見るの、おれ、病的なほどに好きなんだ。

 自分のことがどうだっていいと思えるくらいに……」

「けいちゃん……」

「いや。どうでもいいってのは嘘だな」丈一郎が眉を歪めて笑う。「ひとまず、おまえさきにいかせてから自分が、ってやり方が、合っているみたいなんだ。

 そういうの、……重たい?」

「ううん」綾乃は首を振った。「でもね、もうちょっと、けいちゃんのために動いてあげたいって思うのに、余裕がなくて……」

 これじゃあ、ただのマグロじゃん。

 綾乃がそうぼやくと「こら」と丈一郎に頬を摘まれた。

「マグロな女の子ってのは、たぶん、なんもレスポンスを返さない子ってのを指すんだろうけど、……てか、あれは、お互いの責任なんじゃないか。男のほうが、引き出せてないってのが、先ず、悪い。悪すぎる。

 ……つまり。相手の女の子に、自分を素直に出させない関係にあるってことだ」

 綾乃は、どきりとした。まるで、一条誠治との関係を言い当てられたかのようで。

 綾乃の胸中さておき。丈一郎の話は続く。「まず、な。おれは、抱くときに、必ず綾乃をなんも考えられないくらいの状態に追いやっている。これは、おれの責任だ。

 おれは、好きでそれをやっている。

 それに、……綾乃に痛い思いなんか、絶対にさせたくない」

 端正な丈一郎の顔が、すこし歪む。その表情だけで、どれだけ、丈一郎が綾乃のことを思いやってくれているのかが伝わる。

 丈一郎は、絶対に、綾乃の気持ちを置き去りにしない。

 どこまでも、相手の意志を、尊重してくれるひとだ。

 実を言うと、丈一郎になら、毎日何時間だって愛されたいくらいだ。仕事が生活があるから、少々大変なだけであって……。

 綾乃が、そっと丈一郎の頬に手を添えると、綾乃の行動を待って見つめ返し、再び丈一郎が口を開く。「それとな。綾乃は、……おれのために、いろんなことをしてくれてる。

 おれにキスするとか手でぎゅうっとおれにしがみつくとかおれの首筋吸うとかいろんなこと……」

 そんな程度のこと。

 もっと、女のほうから積極的に動くのが、本当のセックスではないのか。

 不安に目を見開かせた綾乃の頭をするりと丈一郎が撫でる。「綾乃がそうしたいってんなら、別におれは歓迎だけど、……なあ。

 お互いを知りたいからセックスするんだ。

 無理は、やめないか。

 おれは、好きで綾乃を抱いてる。

 綾乃は、おれのことが好きだから、おれに抱かれてる。

 おれは、おれに抱かれてるときの、綾乃の顔が、すごく好きなんだ。

 綾乃は、可愛い声を、おれにいっぱい聞かせてくれてる。

 綾乃が、すごく感じてるのが伝わってどうしようもなく、たまらない気持ちになるんだ。

 もっと、感じさせてやりたいって、狂いそうになる。

 狂ってる自分を抑えこむのが大変なくらいに……。

 誰かに対してこんな気持ちを抱くのは、初めてってくらい、綾乃に、惚れてんだ……」

「けいちゃん……」そんなに、丈一郎に好きになってもらう価値が、果たして自分にはあるのだろうか。

 綾乃は、まだ、こころから完全に不安を除去しきれない。

 そんな綾乃に、丈一郎は笑いかける。「……言ってなかったっけ。おれ。

 綾乃に出会ったその日に、綾乃に惚れたの」

 初耳だ。「出会った日って、……けいちゃんが辞書を置いていった、あのとき……?」

「そ」と丈一郎は頷く。「誰かの忘れ物なんか見っけても、事務室かどっかに届けてそれで終わりじゃんよ普通。……いまどき、一時間以上も、見たこともない相手のために待ってられるなんて子、そうはいないよ」

「だって、……年季の入ってる辞書だったし、持ち主が大切にしてるものだって分かったから、もし、あそこから離れてる事務室に届けて行き違いになったら悪いなあって思って……」

「こんないい子、ほかにいないなって思ったんだよ」優しく丈一郎が綾乃の頬を包む。彼は、恋に落ちたあの日を思い返しているに違いない。「だから、……その子になんか困ったことがあったときには、必ず力になりたいって思ったんだ」

 勿論それだけじゃない、と丈一郎は補足を加える。「なんてか、……出会った瞬間に、綾乃の純粋な部分に触れた気がしてさ。

 おれもさ。人生それなりにいろいろ経験してきて、まあ、なんつーか、それなりに間違いも犯した。

 知らぬ間に誰かを傷つけるなんてことも、あった。

 でもな。綾乃に触れることで、自分のこころのなかの、綺麗な部分を取り戻せる気が、するんだ」

「けいちゃん……」彼女は、自分の頬に添える彼の手に自分のそれを重ねた。「わたし、……わたしね。

 助けられてるのは、わたしのほうなんだよ、けいちゃん。

 けいちゃんにいっぱい愛されることで、自分の存在価値を信じられるようになったの。

 ただの、そこら辺に転がってる小石と一緒で、どこにでもいるちっぽけな存在でも、誰かの役に立てるんだって、自信が、持てたの……」

 なにか言いたいことがあるのだろうが。ただ、綾乃の言葉を待つ。丈一郎のその姿勢に、綾乃は好感を持った。

 ああ――けいちゃんは、いつもこうだったと思った。

 自分が一条との関係に悩み、それを打ち明けたときもこんなだった。

 己の感情を必死に押さえ込み、最愛の人間が苦しみから解き放たれるのをただ待つ――

 そんな思いを、二度と、丈一郎にはさせたくない。

「だから、……わたしね。

 けいちゃんが、もういいって言うまで、わたし、絶対にけいちゃんから離れない」

 いままで告げたことのない、決意を綾乃は口にした。すると、丈一郎が、顔色を変え、「あるかよ、そんなこと」と怒ったように言う。

 いや、彼は間違いなく怒っている。

 綾乃には、彼の反応が、理解できない。「……うん?」

「おまえ、おれが、自分から綾乃に別れを告げることが、本当に、あると思ってるのかよ」

「けいちゃん……」彼の勢いに、綾乃は気圧される。滅多にない姿だった。静かに、彼が怒りを表出させるのは。

「……んとに。おまえは」くしゃ、と彼の手が綾乃の頭のてっぺんを撫でる。その彼は綾乃を抱き寄せ、「おまえ、……おれが、どれだけおまえを好きなのか、分かってないわけ……?」

 はあ、と綾乃の髪の匂いを嗅ぎ、彼はため息をつく。

 彼の顔が見えないと、ちょっと綾乃は不安になる。震えている彼は、どうやら、喜びとか憤りとかさまざまな感情を押さえ込んでいるようだった。

 すこし時間をかけたのち。綾乃を抱きしめていた腕をほどくと、彼は、綾乃の頬を両手で挟み込み、「あのなあ、綾乃……、いつ言おうかずっと迷っていたんだけど」

「うん」綾乃には、彼以外のなにものも見えてない。

 真っ黒な、情愛をたたえた男の瞳に囚われ、


「おれは、綾乃とずっと一緒にいたい。

 どちらかが先に死ぬときまで、永遠に」


 短く、熱いくちづけが落とされる。

 瞬間的に閉じた目を綾乃は開いた。「けい、ちゃん……」

「おれと、結婚するの、いや?」

 綾乃の意志を確認するときの彼の訊き方。いつも自信たっぷりな彼が、余裕を失ったのが感じられる。

 胸のなかに落ちてくる感情を、ゆっくりと確かめたうえで、綾乃は口を開いた。


「小池丈一郎さん。これからも、末永く、よろしくお願いします……」


 やった、と短い丈一郎の叫びを聞いた。直後、彼の腕のなかだった。

 彼の、ぬくもりと感動が伝わる。

 恋人たちは、暗黙の了解を共有してはいた。

 だが、ときにはそれを、言葉にせねば、伝わらない。他人同士の難しいところではある。

 よって、互いの愛を、言葉を媒介にして伝え合った恋人同士特有の安堵が、部屋中に満ちていく。

 自然、丈一郎も笑みをこぼす。「おれ、……すごく、幸せ。

 ちゃんと伝わってるかなあ? おれ、……綾乃が思ってるよりもずっと、綾乃のことが好きなんだぜ」

「チャゲアスですか」綾乃は、彼の頬に自分のそれをこすりつけて笑う。「わたしも、すごく、幸せだよ、けいちゃん。

 幸せなの、わたし。

 けいちゃんに出会えて、愛されて、わたしの人生、これ以上ないほどに、変わったの……。

 けいちゃん以上に、献身的なひとを、わたしは知らない」

 ちゅ、と音を立てて彼の鼻の頭にくちづけてみる。「それに、……おっぱい好きなひとも……」

「たまんねえな……」誘発されてか。彼の手が綾乃の乳房をわしづかみにする。「そういうこと言われっと、また、可愛がりたくなっちゃうよ」

「いいよ、けいちゃん」綾乃は、手を伸ばして彼の短い前髪に触れた。より、彼の表情が見えるようにし、「できたら、そのあと、……

 そのまま、挿れて」

 開いていた彼の口が、閉じた。

 横を向き、手で顔を押さえ、はーっ、と息を吐く。……どうしたのだろう。

 愛し合っているのだから、そうするのは当然ではないか。

 綾乃は、丈一郎が言葉を発するのを待った。

「……順序ってものが、あるんじゃないのか」

 だがその言葉は。

 綾乃の予想を裏切るものであった。

「おれ的には綾乃の気持ちはすごく嬉しい。そうしたいのは山々だ。けどな。

 ……おれの大切な綾乃を大切に育ててくれたご両親もじーさんばーさんもお兄さんの顔もおれは知らない。

 綾乃の生まれ育った故郷も、おれは知らない。

 おれの家族にも会って貰いたい。面倒くさいかもしれないけど一緒に鍋とか食べて欲しい。……あいつら、おれにずっと彼女がいないからうるせーんだ。あと、おれの友達とかにも。まああいつらはあと回しでもいいけど。だから……、

 ちゃんとそれを済ませてからにしないか」

 真面目なひとだと、綾乃は思った。

 対照的に、流れに任せた自分の発言の恥ずかしいこと……。

 たまらず綾乃は顔を逸らした。だが、丈一郎の手が、それを許さない。「綾乃、おれ……、

 好きだから、大切にしたいんだ。

 おれ、すごく、欲しいよ。綾乃との子ども……」

 切なげに彼の瞳が細まる。この顔を、綾乃は一生忘れたくないと思った。

「何人くらい?」と綾乃は訊く。

「うーん。綾乃はどうよ。仕事、続けんの?」

「辞めるって選択肢は頭になかったなあ……」

「じゃあ、続ければいいんじゃない、仕事。そしたら、……多くても三人までだろうな」

 喋りながらも彼の指は着実に正確に動いている。感じながらも、綾乃は、「わたし、……ひとりか二人かなあ」と自分の意志を口にした。

「じゃあ、そうしよう」丈一郎が、綾乃のまぶたにくちづけた。「嬉しいなあ。綾乃が、おれとの子どもが欲しいって思ってくれてたなんて……」

「わたし、いるのは兄貴だけで、女きょうだいがいるのに憧れてたから、女の子がいいなあ」秘所を探り当てられ、綾乃は眉間に皺を寄せる。「……まあ、こういうのは、事前に考えても、どうにもならないけど……」

「おれは、どっちでもいいよ。綾乃との子どもだったら」

「けい、ちゃん……」綾乃は、自分の声が上ずってしまうのが分かった。「けいちゃん。欲しいよ。けいちゃんが、すごく……」

 すると動かしていた指を止め、いつものように丈一郎は笑ったのだった。


「望むところよ」


 *
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