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第二部――『おれの彼女のおっぱいは世界一!』

◆4

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 役所を出ると、強張っていた表情がやっとすこし和らいだ。

 はーっ、と一張羅を着た彼女が、胸を押さえ、息を吐く。「なんか、……紙切れ一枚出す程度のことなのに、すっごく、緊張した……」

「そうか?」実は、彼女に同感なのだが、丈一郎は余裕の表情を作ってみる。「おれは、別に、ぜんぜんだったぞ」

「けいちゃんていつもそうだよね……」丈一郎の手を握り返し、彼女は彼を見あげる。「いつも、なんに対しても余裕しゃくしゃくって感じ」

 ――それは。

 おまえの前ではかっこつけたいから、ポーズを構えてるだけだぞ……。

 愛おしい彼女に本心を隠し、んなこたねえぞ、と丈一郎は笑ってみる。すると、「本当に、小池綾乃になったんだね、わたし……」感慨深げな彼女の声が彼の耳に届く。

「そうだよ」と言って、歩を止める。「なあ、小池綾乃ちゃん。飯まで時間、あるだろ。なにがしたい?」

「けいちゃんがしたいことでいいよ」

「おまえ今日は、なんの日だと思っている」思ったよりも、怒ったような声が出てしまった。丈一郎は、咳払いをし、「なんでもいいぞ。どこにでも行く。映画。水族館。……ラブホ」

 最後の単語は、どうやら新妻の耳には届かなかったらしい。いつもなら冗談か軽口で返す彼女が反応せず、「……あ」と、拳を口に当てていた彼女が、その手を唇から離した。

 丈一郎の大好きな目が、彼を捉え、

「今日は、……二人の思い出の日、なんだよね」

「うん」と丈一郎は頷く。視線を下方にスライドする。いつ見ても潤っていてキスしたくなる唇が目前にある。

 丈一郎の邪な視線には気づかず、彼女は真顔を保ったまま、口を開いた。


「だったら、……その歴史を、逆から辿ってみたい」


 * * *


 東京都にある割りには、やたら校舎が大きく、その数が多い。

 大学の隣には、かつて丈一郎の通った高等部や中等部、小学校に幼稚舎まで隣接されており、尋ねるのが約十年ぶりであろうが、変わらず、その瀟洒な姿を披露していた。

 講義中の時間帯なのだろう。キャンパス内を闊歩する学生の姿はそれほど多くはない。ちなみに、今日は平日ではあるが、丈一郎と彼女は『この日』のために有休を取得した。時間外でも婚姻届の提出は可能だが、彼女とつきあい始めてちょうど一年が経つ本日。

 彼女を、絶対に幸せにしてやると決めたからには。

 丸一日を、めいっぱい、彼女とともに過ごしたかった。

 結婚を決めたのが七月。夏休みに一緒に彼女の実家に帰り、挨拶をし、自分の両親にも会わせ慌ただしく日々は過ぎていった。

 入籍まえに新居も決めたかったのだが、残念ながらそれはお預けとなった。丈一郎が土日に動けるのが九月以降で、とても間に合いやしなかったのだ。

 彼女は結婚後も仕事を継続するゆえ、手入れの大変な一戸建てよりは管理人のいるマンションのほうがいいのでは、という話でまとまっている。また年末にかけて、不動産屋やモデルルームを見て回るつもりだ。

 結婚式は、事前に二人で写真を撮り、友達や会社関係向けに1.5次会を開く予定だ。綾乃には、ウエディングドレスを着る以外は、別段、結婚式をしたいという願望はないらしく、また、彼女の親戚や友人も遠方であるゆえ、そう決めた。ご祝儀三万円を頂くのも悪いし、会費制で行おうと思っている。

 丈一郎は、どんなに忙しくとも、二日に一回は彼女を抱いた。そうでなければとてもやっていけなかった。

 本音を言うと、彼女のからだが、こころの支えだ。

 朝起きればトイレに行き顔を洗うように、彼は彼女を欲する。といっても。義務的にそれを行わないよう意識はしている。

 むしろ、顕在化するのは彼の本能のほうではあるが。

 つき合って八ヶ月が経過した頃にようやく、彼女は自身の悩みを吐露した。丈一郎にとっては、長い時間だった。あれ以来別段、彼女の行動に変化が現れたわけではないが。感じやすいのも声を出すのも変わらず。

 満たされた表情を、するようになった。

 愛されていることへの自信が、彼女のなかに満ち満ちていくのが分かる――そのことが、丈一郎には嬉しかった。

 よって現在。丈一郎が黙っていようとも、彼女は不安げな顔をしたりなどしない。ぼうっとキャンパスを見やり、「懐かしいね」と口にする。

 あ。あそこ。けいちゃんとお昼よく食べた学食。変わんないね……。

 図書館。すっごく綺麗になったね。なか、覗くことできるのかなあ。見たいなあ……。

 丈一郎にとっても、彼女と過ごした四年間は、大切で思い入れの強い期間であった。

 青春の痛みと喜びを伴う、二度と訪れない輝き。

 それにしても、建物とか、ぜんぜん、変わんないね。綺麗だなあ……。

 彼女がなにか喋るたび、同じ思いを共有している感覚に、ここちよく満たされていく。

「ねえ。せっかくだから、学食でお昼食べてこっか」彼女の笑みが、丈一郎の目に眩しく映る。と、その彼女が思いついたように両手を合わせ、「あ。あと、滝沢(たきざわ)先生にも、会えないかなあ……」

「部屋、覗いてみようぜ。講義中じゃなけりゃあ、話せるかもしれない」

 笑って丈一郎は彼女の手を取った。足取り軽く気持ちも、軽い。

 思いが、行動を定義づける。

 彼女の、さきほどの笑みが、大学時代の彼女の笑みと重なった。あんな思いをすることは二度とない。ほかの男を見て狂いそうにある感情を抑えこむことなど。

 これから――

 ずっと、二人で幸せに生きていく。

 道中、彼女もずっと笑顔だった。丈一郎は、彼女の笑顔に守られながら、思い出の道を進んだ。緑が街路樹が、やけに彼の目にまばゆく映った。


 * * *


 丈一郎と彼女がゼミと卒論でお世話になった教授は、変わらず元気そうだった。

 結婚の報告をすると、すごく喜んでくれた。積年の片想いが実ってよかったねえ、と丈一郎に笑いかけてくれた。どうやら、教授にもまるわかりだったらしい。

 学食で、AランチとBランチを頼んで、彼女と分けあった。おれの頼んだ生姜焼きが、やけに美味しくて、だから彼女に多めにあげた。

 そのあと、普段は行かない高級レストランで食事をした。肩が凝った気がするけれど、夜景が綺麗で、ダイヤモンドの夜景を綾乃に見せられて、こころからよかったと思っている。

 そして、二人は自分たちのマンションの最寄り駅にたどり着く。結局。あれから引っ越しはしていない。丈一郎は、意味をなさない自分のもともと住んでいた部屋を既に引き払ってはいるが。よって、荷物が綾乃の部屋に満載。ベランダにまであふれていて正直狭い。正式な新居を見つけるまでどこか違うところに住もうか、と丈一郎は提案したのだが、彼女が譲らなかった。

 お金がもったいないよ。そのお金は、これからの新しい生活に回すべきじゃない?

 とりあえずと、家財の一切を処分した丈一郎は唯一スーツハンガーを購入した。ベッドに寝るたび、彼女と情交に及ぶたび、足が自分のスーツについてしまうのには苦笑いしてしまう。それでも、この時間は――

 二度とない。大切で愛おしいひとときなのだ。

 丈一郎は、これまでの想いと、未来への希望を胸に抱きしめながら道を歩いた。

 駅を出たところで、例のスーパーのある角に差し掛かる。

 丈一郎は、どこで渡すのかは、決めていた。

『あの場所』を除いて、ほかにない。

 絶対に、己の手で綾乃を幸せにすると決意したあの場所で。

 全面窓ガラスのスーパーの前。帰宅が遅めの主婦や会社帰りのサラリーマンが懸命に袋詰をしている目前で、丈一郎は、足を止めた。

 彼女が、丈一郎の様子に気づき、彼を見あげる。

 ここで、彼は、不安に駆られる。

 両想いにも関わらず。最良の日にも関わらず。

 どれだけ彼女のことを、愛しているのか、伝わっているのだろうか。

 丈一郎は、彼女と結ばれて以来、毎日、毎日、彼女を求めた。それでも彼は、彼女を不安にしていたわけで。

 与えるだけが、すべてではない。

 自己満足なんかじゃない。真摯な想いで、これからも彼女と向き合っていきたい。

 切なく突きあげる感情に耐え、丈一郎は、バッグから小箱を取り出した。

「綾乃――おれたち。

 今日から、ずっと一緒だ。

 ずっとずっと一緒にいよう。

 どんなことがあっても、二人で乗り越えていこう。

 だから、これからも――

 よろしく、お願いします」

「けいちゃん」彼女が、手の甲を上にし、左手を差し出す。

 その細い指に、真新しい指輪を通す。

 手が、……がたがた震えてしまったが。丈一郎は、笑って誤魔化したりなどしなかった。

 真剣な場面で、笑うのは失礼にあたる。

「幸せになろうね、けいちゃん」見れば、彼女も自分のバッグからお揃いの小箱を取り出していた。

 どうやら、彼女も同じ意図を持って、持ち歩いていたらしい。

 以心伝心、というやつか。

 丈一郎が頬をかくと、その手を、そっと掴まれる。

 彼女の手が、丈一郎がこれから一生身につける指輪を、彼の指に通していく。

 それが終わると、二人は見つめ合い、どちらからともなく、抱きしめ合った。

 幸せすぎる瞬間だった。

 腕のなかのこのひとを生涯守りぬくことを、丈一郎は誓ったのだった。

 丈一郎は、バッグを持つほうの手を彼女の背中に回したまま、新しい輝きの加わった左手で彼女の頬に触れてみる。

 かがやく瞳が、丈一郎を、捉えている。

 どんな宝石よりも美しい、彼女の瞳が。

 思考よりも口が先に動いた。

「やべえ、……キスしてえ」

「だめだよ、けいちゃん」その魅惑的な唇が開く。彼女は、自分の言動が、どれだけ丈一郎を誘惑しているかを知らない。たぶん、一生知らないままだろう。

 どうやら、スーパーの客が皆見ている。通りざま、露骨に見てくる男もいた。

 それらは、丈一郎の突きあげる思いを妨げるなんの障壁ともならない。

 鼓動が速まり、息が苦しくなるのを感じたまま、彼女の頭の後ろを撫でた。上向く彼女の顔が、どこまでも愛おしい。

 彼女も、同じ思いを共有しているのだろう。切なげにかたちのよい眉が歪む。「けいちゃんお願い……、おうちまで、待って」

「帰ったら、おれのして欲しいこと、フルコースでしてくれる?」

 立ちバックにパイズリにフェラとか全部全部。

 敢えて要望を多めに伝えてみると、彼女は、欲望でからからの丈一郎を正面から見つめ返し、丈一郎のいつもの台詞で返したのだった。


 ――望むところよ。


 *
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