気がつけば彼に抱かれていました

美凪ましろ

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第四部――『なによりも大切なこと』

◆2

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 ――ひとつ聞くが。


「おまえは、喧嘩をするために結婚をしたのか」


 目の前の美男子は滑らかに発音する。滑舌がいい。「惚れた女を幸せにするためではなく。日々の苦しみや悲しみを彼女ひとりに押し付けるために結婚したのか?」

「違います」と丈一郎は言い切る。「おれにとっていちばん大切なのは綾乃です。そりゃあ……、生まれてきた赤ちゃんも可愛いですけど。

 綾乃は、別格です」

 意思確認をしたのちにふぅとその男は目を眇める。「では聞くが。

 そんなに大切な女を過酷な状況に追いやった挙句放置しているのはいったい何故だ」

 ――過酷。いまいち、男の言う意味が分からない。解せない、といった丈一郎の表情を見てあのなあ、とその男は補足を加える。

「――育児とは。

 生涯無二の経験だ。あんなに可愛い赤ちゃんのお世話をするなんてのは言葉で言い表せないくらいに幸福な体験だ。――だが」

 ここで男は言葉を切り、思いのほか暗い目をする。「……世の中に。虐待をする親がいるのはいったい何故だと思う」

「そりゃあ。親が間違っているからでしょうよ」丈一郎は深く考えずに答える。「つか。そんな親自体が異常なんですよ。てか意味分かんないじゃないですか。自分が欲しくて子ども作っといてそんで虐待って――」

「しかしながら」男は丈一郎を遮る。漆黒の瞳を向け、「おまえんちの状況をこのまま放置しておくと、とんでもねえことになりかねねえぞ。――話聞く限り。

 かなり、深刻な状況だ……」

「えええ?」丈一郎は笑ってジョッキに口をつけ、「なに言ってんすか。言っていいことと悪いことがありますよ。つかあの――」

「脳天気なやつだな」男も一口ウーロン茶を飲むと、「虐待が対岸の火事だと思っていたらとんでもない間違いだぞ。おれはなにも。世の中の虐待をする親を肯定する気なんざさらさらない。だがしかし。

 彼らが恵まれた環境にあれば――話は違ったのではないか。

 と、思うことがあるんだ」

 もしも――

 どんなときでも彼らの話をうんうんと聞いてくれる親切なひとがすぐ近くに居たら。

 国民全員に、子どもを預けて働ける環境が整っていたら。

 衣食住の心配のない状況があれば。

 母親がトイレに行くあいだ。化粧をするあいだ。家事をするあいだ、無料で安心して面倒を見てくれるひとが近くに居たら。

 どんなことがあっても、叩くことはいけないんだよ、とやさしく強く教えてくれるひとがそばに居たら。また彼ら自身がそう教え込まれて育っていたなら。

 子どもをいじめればすぐ分かるオープンな環境で子育てをできていたら。

 行き詰ったときに、安心して子どもを任せられるばあばや身内がいたら。そして親はその間、リフレッシュなんかできていたら。

「……児童相談所の人間が無力だなんておれは思わない」首を振り、祈るように指を組み合わせる男。「話を聞いてやるのも大切な仕事だ。そこから糸口が見つかるなんてこともある。おれがいま試みているのは、そのたぐいのことだ。――聞くが。

 嫁さん。出産して三ヶ月が経つんだよな。向こうで二ヶ月。こっちに戻ってきて一ヶ月。おまえその間。

 嫁さんの喜怒哀楽。……見たことがあるか?」

 あ、と丈一郎は声を出す。産後の綾乃ときたら――

 常に切羽詰った様子で。怒ったり虚ろな顔でぼうっとしていたりと。頭の働きも鈍くなっている感じだ。休日はご飯のことで丈一郎が急かすことも多い。……友達恋人時代はあんなに表情豊かだったのに。主に、二通りの顔しか見ていない。

 勿論。授乳しているときに見つめる眼差しは優しい。また笑みを見せる赤子を見て微笑むことはあれど。なにか……疲れ切っているのが伝わる。

 丈一郎がそのことを打ち明けると「やっぱりな」と男は肩をすくめる。

「嫁さん。相当、……追い込まれているんだな。

 産後一ヶ月は確かに大変だ。鬱になる女性も珍しかない。だが三ヶ月が経過しているのにその状態だと……ちょっと心配だな。おまえ。

 嫁さんに。『母親』と『妻』の仕事から開放する時間を作ってやれ。でないと。

 育児に孤軍奮闘する嫁さんが、気の毒だ」

「孤軍奮闘って」丈一郎は男の言葉に引っかかりを覚える。「――おれ。外でちゃんと仕事もしてんすよ。それなりに節約もしてます。ローン以外に借金もないし、浮気なんか興味ゼロです。――なのに。

 父親は、それ以上のことを要求されるんですか」

 おれだって疲れてるのに。と丈一郎が言い足すと、「違う」と男は首を振る。――いちいち言動の引っかかる男だ。「なにがですか」と丈一郎は気色ばむ。

「先ずな。

 出産は。全治一ヶ月の大怪我だと思え。それから。

 妊娠して十ヶ月間で作り上げたからだが、出産してすぐにそう元に戻ると思うか? ……うちのカミさん。

 おれよりも若いんだが。産後一年のあいだは、風邪なんか引くと二週間くらいげほげほ言ってたな。あれは本当に辛そうだった。個人差はあれど。産後の女性のからだが完全に元に戻るまでは一年かかると思っといたほうがいい。そーゆー認識でいろ。おれの知人で、出産を振り返って、ダンプカーに引かれたほうがマシ、って言い切ったやつがいたぞ。そんくらい壮絶なんだ。……おまえのことだから。

 出産お疲れ様。

 ……とか言ってやれてないんだろ? どーせ」

 どーせとか言われると言い返したくなる。……のだが。

 事実。

 無念。

 よりによって、彼女の誕生日のその日に彼女を最も傷つける言動を取った。取り返しのつかない過ちだ。

 丈一郎の顔色から読み取り、男は、ちらり、白い歯を覗かせる。「なんだ。『能力』駆使するまでも無いな。つまらん」

「つまらないんならおれとの会話、早々に打ち切ったらどうですか」

「そうはいかん」と男。「二人の命がかかっている」

 丈一郎は絶句する。「……そんなに。事態は深刻なんですか……?」

「虐待がどうの、という話はおまえの嫁さんに相応しい話ではなかったかもしれないが。このまま放置すると。

 嫁さんのこころが壊れて、赤子に影響を及ぼす恐れがある。……いまはまだ。

 子育て、できているんだよな。おまえの見た限りでは……」

 影響、という言葉がずんと丈一郎の胃に響く。重たい。「大丈夫、そうに、見えます……」かろうじて声を発す。そうか、と男は頷くと、

「三ヶ月経っても頻繁に泣いている、という状況だと……。

 寝れてないんだろうな。たぶん。おまえ。

 嫁さん、寝かせてやれよ? 休日くらい……」

 えええ、とまた高い声を出す丈一郎。「なに言ってんすか。綾乃、子どもの世話してるだけっしょ? 育児休暇も取って。

 会社で働いているおれが休日も赤子の世話をして。

 休んでる綾乃がおれの手を借りる……?

 意味分かんないっす。まじで意味分かんないっす」

「逆の立場だとどう思うよ」男は丈一郎の感情の流れに引きずられず冷静に切り返す。「……自分が。十ヶ月間妊娠の辛さに耐えました。目の前で旦那さんがビール飲んでるの見ても我慢しました。尋常じゃない陣痛及び出産の痛みに耐えました。

 妊娠中は蝶よ花よと丁重におもてなしをされたのに。
 産んだ途端、お姫様の台座から引きずり落とされ。

 産後のままならないからだで、一日中泣きっぱの赤ちゃんのお世話をし続ける、新たなお役目が待っていました。沐浴。抱っこ。頻繁過ぎるおむつの交換。……腰が痛くて痛くてたまらないのに。赤ちゃんは抱っこじゃないとますます泣く。泣きたいのは、わたし。

 夫が寂しがっているだろうからと、産後二ヶ月で里帰りを切り上げて元のマンションに戻ってきました。

 夫は育児に非協力的。独身時代と変わらぬ日常を送ってます。テレビなんか見てる姿に殺意を覚えます。こっちは……

 赤ちゃんの世話世話世話。自分の時間なんかまったく、一分たりとも取れないというのに。髪の毛をドライヤーで乾かす時間も取れません。テレビ一時間連続で見れればいいほう。育児休暇が『休暇』だなんてとんでもない。産後のダメージはひどいし赤ちゃんは手ぇかかるわで、泣きそうです。

 近所に気軽にこういう悩みを相談できるひともいません。会社員をしているのでママ友ネットワークもありません。――毎日。

 一人っきりで。泣いてばっかりの赤ちゃんの世話でこころが折れそうです」

 ここまで男が一息に語ったところでようやく丈一郎の顔色が動いた。「……そんなに。大変、なんですか、育児って……?」

「おれは残業時間百時間超えの仕事をしたこともある。

 前提その2。

 一人目のときにな。おれたちは、おれの母親と義父の助けを順番に借りた。二人が帰ったあと、おれは育児休暇を取得し。自分の子どもの世話をしたが。

 ……あれに比べると残業のが断然マシだったな。

 寝る時間が確保されているぶん」

「……意味分かんないんすけど」と丈一郎は正直な感想を漏らす。「よくさあ。授乳一日十二回、とか聞きますけど。でもあれって三時間連続とか眠れるんでしょ? だったら全然――」

「大きな間違いだ」と男は手を振る。「一回の授乳は確かに長くて二十分程度。だが授乳する乳房を変えるために赤ちゃんを動かしたりと――大仕事だ。授乳間隔を育児日記につけるのもまた大変だ。そして。

 授乳後はげっぷをさせる。これがまた苦行だ。とっとと自分は横になりたいってのに、上体を起こして赤ちゃんの背中を擦り続けるんだぞ。で。

 それが終わったら眠るのを待つ――。授乳中に寝てしまうパターンも多いが。それだけで40分かかるとかザラだ。で。

 赤ちゃんを置いてさあ別のことしよう――なんてなったときに。

 世のお母様がたを震えさせる恐ろしい現象がある。――モロー反射。

 赤ちゃんを布団に寝かせると、ふわあ、と手があがっておぎゃあああーーーー! と泣くあの恐ろしい現象。……うちのカミさんも嘆いてたな。あーせっかく寝たのにー! ……とな。

 そうすると結局スタート地点からやり直し。赤ちゃんを抱っこ抱っこ抱っこし、また眠たくなるのを待つ――わけだが。

 これが、なかなか、寝ない。

 母親は極度の寝不足ゆえ頭が朦朧としたまま抱っこしているうちに、気がつけば授乳から二時間経過し、また授乳……。

 授乳から三十分と経たないうちに泣く現象もザラだ。細切れ睡眠及び不眠の連続。まともに、寝れん。二時間連続で寝れるのなんか、一日一回あればいいほうだぞ。それが一ヶ月も続くと人間、……どうなると思うよ。想像しろ。

 産後のお母さんは、とにかく、休めない。

 ……世の中には、眠りに落ちる瞬間を叩き起こす拷問があると聞く。産後にあれだけ頑張るお母さんがたに比べれば、四時間連続で何の邪魔も入らずに眠れるなんてこたぁ、ハンドドリップコーヒー飲むばりに贅沢に思えるさ」

 ここまで聞いて。丈一郎は、『産後の育児よりも残業のがまし』という、男の主張を飲み込むことができた。しかし、「でも」と反論を試みる。

「育児と仕事はまるで別物ですよ。――育児は。

 自分たちが欲しくて作った愛の結晶を育てる役目ですし――それに比べたら。

 仕事のほうが理不尽なことも多いし体力も使います。どっちが大変かって言ったら――

 決まってるじゃないですか」

「おまえこの十五分間なに聞いてたの」と苦笑いを漏らす男。「産後の馬鹿力出して疲れ切ったお母さんがたは、昼も夜も関係なしに、泣きまくる赤子の世話をしてんだぜ? 発狂したっておかしかない。なのにお母さんがたは。自分を奮い立たせ。笑顔を作って頑張っているんだ。崖っぷちのところにいるってのに。逃げたくて泣きたいときもあるだろうに。だいたいな。

 赤ちゃんは、お客さんとは、違う。――言うことがまるで、通じない。

 そりゃあ、新生児微笑っつう、神聖な現象も目にするさ。だがな。

 ……とりあえずおまえは。この土日に泣きまくる赤ちゃんを全力で世話しろ。

 話はそれからだ。――因みに。

 育児が仮に企業だったらんなブラック企業ありえねえよ。

 火災報知器常に耳の裏にくっついてる状態だぜ? そいで。

 ぐわーーーーーっ、と火災報知器が作動したらすぐかけつけて献血。献血のしすぎてお母さんふらふらさ。……て母乳の原料なにか知ってるよなあおまえ。知らないんなら帰りの電車でググれ。ggrks、という言葉を、今回、久々に使いたくなったな……」

 あーそうだ。とここまで言った男はなにか思いついたことがあるらしく。「おまえの嫁さん。母乳育児? それとも粉ミルクやってる?」

 丈一郎は即答できない。……たぶん。「母乳、だと、思われ、ます……」

「思われますだとお?」眉を歪めても男の端正な顔立ちは崩れない。「おまえ。育児不参加にもほどがあるぞ。ふたりで作った子どもなんだろ?

 嫁さんひとりに押しつけず。ちゃんと、てめえが、育てろ。

 ――会社で仕事するってだけが、男のすることじゃねえんだぞ」

 凄みを利かせた声で言い放ったと思えば一転。「母乳育児もミルク育児も。一長一短。なんだよな……」と分からないであろう丈一郎に説明をしてやる。

「母乳だと。水筒哺乳瓶ミルサー。あーゆー持ち物を持ち歩かんで済むし、最近授乳室置いてる施設多いだろ? その意味で助かるが。男性が育児参加をしづらい。母親に負荷がかかりすぎるのがデメリットだ。食事に制限かかっからな……」

 丈一郎は思い起こす。母乳育児中の綾乃にピザを勧めたことを。確かにあれは……、無理解であった。

 内省する丈一郎にはどうやら気づかず。きつく宙を見据え、男は、

「かといって。産後すぐにミルク育児。ってのも大変だ……。

 赤ちゃんは一回で飲める量が少ないからなあ。一日に十何回も湯ぅ沸かして粉ミルクスプーンで計って哺乳瓶冷まして……、てのも気ぃ狂うぞ普通。個人的には、一日五回レベルんときに切り替えるのが楽だと思うがな。うちは一人目はほぼほぼ完母で二人目んときは母乳寄りの混合だったな。

 熊本地震の支援で……、フィンランドだったか? 液体ミルクの支援を受けて政府が導入する方向らしいな。あれが何故もっと早く普及してくれなかったのか、理解に苦しむが……、とにかく一歩前進したことは喜ばしい」

 脱線したな。と美男子は目を向けると、

「おれの知人でな。最初は母乳育児だったんだが。不眠症に陥り、服薬のために母乳育児を断念せざるをえない状況になったやつがいるんだが。赤子が一ヶ月二ヶ月の頃は、哺乳瓶を嫌がったそうだが――搾乳でも駄目だったとな。が。

『分かった』んだろうな。

 六ヶ月目に改めて別の人間がミルクやってみると――ぐいぐい飲んだ、って話だぞ。

 子どもは一ヶ月もすれば様子が変わる。――もし。おまえの嫁さんが一人で出かけたいってなったら、粉ミルクの用意だけはしておいたほうがいいぞ。搾乳してもらうのも手だが」

「……搾乳って。つまり、母乳を絞ったのを、哺乳瓶かなんかに入れておくってことですか」

「搾乳機ってのがあってそれでできる。電動じゃあ無けりゃあ五千円以下で買える。持ってるかもな、嫁さん。搾乳した母乳は哺乳瓶に入れておいてもいいし、専用のパックに入れておけば冷凍もできる。いずれも、赤ホンにでも行けば全部揃う。ドラッグストアでは流石に搾乳機は売っていないが、以外の哺乳瓶粉ミルク全般売っている」

「したら……、」丈一郎は顎先を摘まむ。「そうしてみます、かね……。帰ったら早速」

「だな」と男は腰を浮かす。話が終わりと言いたげに、「とりあえず今日はこんくらいにして帰るぞ。論より実践。続きは電車んなかで話しても構わない」

 男は、五歳の男の子と三歳の女の子を持つ父親だ。子どもたちは、まだまだ手がかかる年頃ゆえ、延々会社の男と話し込める状況に無いのだろう。

「あざっす」丈一郎も手早くコートを着、会計伝票を持つ男に続く。丈一郎がお礼も兼ねて支払おうとしたところ「馬鹿やろ」と一喝された。

 ――んな金があんなら嫁さんが喜ぶもんを買ってやれ。香りのいいハンドクリームでも。

 颯爽と店を出る。男の足は速い。場所は確かに――男の言うとおり、新宿にしておいて正解だった。新橋だと会社関係に聞かれる可能性も否定できない。

 帰りは、同じ小田急線沿線に住んでいるゆえ、続きの話もできた。といっても、男は十五分程度で電車を降りたが。去り際。

「――毎日、ちゃーんと相手の目ぇ見て話すんだぞ。

 そーゆーのが大事」

 鉄面皮。無愛想。仏頂面。――で有名なこの男にしては、思いのほかエモーショナルなことを言うものだ。エモコアというやつか? 丈一郎の内面での動きを知らず、男は、

「……顔見れば。

 なにに困ってるのか。なにに苦しんでるのか。――だいたい。

 数秒で分かるようになるから。

 そーゆー感情のやり取りってのが、結婚の醍醐味だと、おれは思うね……。

 子どもも含めて」

「ラブラブじゃないっすか蒔田(まきた)さん」

「でもないぞ」と男。「育休おれも取ったときなあ。歯医者だの病院だの美容院だの子どもほったらかしで行ってたらあるときカミさんに怒られた。

 蒔田さんあなた、自分の用事を済ませるために育休取得したんですか、……てな。

 なのでおれもひとのことは言えん。すべて――教訓だ。

 教訓は、活かすためにある。おまえもそれを活かせ」

 ここで到着。じゃーな、と素早い足取りで降りていく。その背中に向かって丈一郎は、

「あざっす蒔田さん!」

 周りの人間が注目するくらいの大声を出してしまった。振り返ると男は薄く笑い。手を振り――人混みのなかへと消えていった。

 出入り口付近の、座椅子の壁に寄りかかり彼は思う。――大切なのは。

 綾乃の、気持ち……。

 綾乃がなにに苦しみ。なにに悲しんでいるのかを、分かってやること……。

(それができるのは、おれしか、いないんだ……)

 因みに今回。丈一郎は自分から蒔田を飲みに誘ったわけではなく。来年から丈一郎は、第三事業部という蒔田の所属する部署の担当になるゆえ引き継ぎを受けている。頻繁に行われる第三事業部の面々での飲み会に丈一郎が顔を出したかたちだ。顔を売るため。だが。

 蒔田は別の人間と飲んでいた。近くで丈一郎の話を聞いていたらしい蒔田が突然、「行くぞ」と声をかけた。腕を引っ張られて丈一郎は驚いた。まだあまり――話したことのない相手だった。でも、蒔田の存在は有名だった。

 180cm超えの長身。涼やかな声。誰もが見惚れる美貌。

 決して愛想がいいほうではないゆえ、冷淡冷酷仮面男という評も多いのだが――

 元・システムアイ勤務の奥方が退職されてから様子が変わったんだとか。システムアイで初めて、男性で育児休暇を取得し、ゆえにその手の相談を受けることも多いと、事業部長の宗方(むなかた)が言っていた。あいつあんな強面のくせして面倒見がいいんだよねー、と。

 結果。

 丈一郎は認識と行動を変えた。振り返ってみると――

 すべて、蒔田(まきた)一臣(かずおみ)のおかげであった。――綾乃にプロポーズしたあの日。絶対に幸せにしてやると胸に誓った。あの情熱を体内に蘇らせる。蒔田の下りた駅が懐かしかった。マンションが高額ゆえあの地での購入を諦め、それでもお高めの急行の停まる駅近辺に丈一郎たちは居を構えた。ローンの返済は楽ではない。だが。綾乃とならやっていける――丈一郎は強く信じていた。

 帰りの電車は、金曜日ということもあり、学生やサラリーマンの姿が目立つ。聞きたくなくても周りの会話は耳に入ってしまうというもの。丈一郎はあるときはJK同士のお悩みを聞き流し。あるときは深刻そうに仕事の話をするリーマンの事情に耳を傾け。

 情熱を燃やし続けながらときを過ごす。

 結論は、決まっていた。


 ――綾乃の、笑顔を、取り戻す。


 ここのところ晴れやかな彼女の笑顔を見ていない。ならば。おれのするべきことは。

 暗い車窓を見上げる丈一郎の胸のうちは、すべて、綾乃のことで満たされていた。これからもっと――満たされたい。綾乃のことを、満たしてやりたい。

 噴き上げる情熱は留まることを知らない。危うく、電車を乗り過ごすところだった。

 改札を出ると丈一郎は駆け出した。

(――待ってろ、綾乃……!)

 なにを、自分は、考えていたのだろう。二人で望んで作った子なのに。彼女に丸投げして。追い込んで。でも。

 幸せにしてやれるのも、自分しかいないのだ――。

 マンションの自分の部屋の前に着くと、丈一郎は息を整えた。苦しい状態では、商談はまとまらない。建設的な話などできない。先ずは呼吸を心拍を落ち着かせるのが先決。

 覚悟を固め。

 丈一郎はドアを開いた。明るい世界に繋がるに違いないそのドアを。


 ――ただいまー。


 *
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