気がつけば彼に抱かれていました

美凪ましろ

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第五部――『おれの、たからもの』

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 ――なんて、可愛いんやろう……。


 もみじみたいにちっちゃな手。恐る恐る指を差し出せば思いのほか強い力でぎゅう、と握り返され、「――わ。あーちゃん力つよいなあ」自然、笑みがこぼれ出る。

 松岡家にとって、念願の第二子であった。既に長男の康平(こうへい)が生まれているゆえ、跡継ぎは安泰。が――松岡の両親の、女の子を育ててみたいという気持ちは強かった。康平が暴れん坊で手がかかる息子だっただけに子どもはもう懲り懲りだと思ったが――康平が小学校に入った頃から、赤ちゃんが恋しく感じられるようになり、いざ実践。四十代で出産をするのは辛かったが、その辛さと引き換えにしても手に入れたい幸せがあった。

 弟や妹のいる友達は珍しくはなかったが、いずれもせいぜい三歳違いだ。まだ十歳の康平にとって、赤ちゃんは未知なる存在だった。とても――ちっちゃくて。肌が赤くってうすくって――。

「かわええなあ、んとに」握られた指をあげ、康平はにぱっと笑う。「こんなに可愛い生きもんおるげな、ほんとに」

 何度も何度も指を握らせ、その都度白い歯をこぼす。母の腕に抱かれている妹は、天使そのものだった。目が大きくて――愛くるしい。

「康平。お兄ちゃんになってんよ……」

「せやな」母に語りかけられ、彼は、笑って応じた。

 康平は、母親を取られて寂しいと思う時分を卒業していた。やきもちなど、やかなかった。彼には――

 もっとほかに、考えるべきことがあったのだ。

 部活は小学校までと決めていた。親がサッカーをしろ野球をしろ宿題をやれとうるさかった。卒業までは言うことを聞く。だが以降は。

 ――好きにさせてもらうで。

 勉強は苦手だ。だが部活はそこそこ。これらの努力は、これからやりたいことを貫くうえでの伏線に過ぎない。

 あの台詞を思い起こすたび、おれは強くなれる――康平は固くそう信じていた。

『総長の座に就くまで、おれは死んでも死にきれん。――強くなる。

 頂きをただ、目指すだけだ』

 一介の小学生が見せられる微笑などではなかった。彼は――黒い野獣だ。荒ぶる狼を隠した野生の塊。それが、長谷川(はせがわ)正(ただす)に対する松岡康平の印象であった。

 回想を打ち止めにし、意識して明るい声を出す。

「ほなおれ。部活行ってくるわ」

 息子が出ていくのを目で見送り微笑する松岡夫妻。彼らは――

 この三年後に待ち受ける運命など、知る由もない。

 * * *

 妹が生まれて三年近くもの間。

 康平は、学校から帰るとランドセルを放り投げて妹の元に駆けつける――そんな日々が続いた。

「あーたん! あーたん!」

 ……当初両親は愛娘を『ちゃん』付けしていたが、『あーたん』のほうが娘自身が言いやすいらしく、皆がその名で呼ぶようになった。

 康平は、これ以上できないほどに妹を可愛かった。頬ずりしてやるときゃっきゃ笑ってほっぺにキスなんかしてくる。やめいやんなもん好きなやつに取っときい、と言うのに繰り返す。可愛くて愛おしくて、どうしようもなかった。

 にぃーにぃ。

 乳児特有の舌っ足らずな声も胸が詰まるほどに愛おしかった。

 綾乃がはいはいする姿も。おすわりする姿も。つかまり立ち。よちよち歩き――すべて、康平が写真及び動画に収めた。なお、そんな康平の姿もちゃんと両親は記録に残している。

 小さい頃から、やんちゃで親の言うことに逆らってばかりいて。保育園でも問題児扱いされていたのに。息子の変わりように両親は驚きを隠さなかった。

「んとに……変わるもんなんやねえ」

「やねえ……。綾乃が生まれてほんまによかったなあ」

 茶をすすりながら両親は子どもたちのあり方を眺める。

 まだ世界のことをよく分からぬ綾乃に、康平が学校で起こった出来事を語る。テストで0点を取ったとか、同級生と派手に喧嘩をしたとか――内容は、親が眉をひそめるものも多かったが。どうやら綾乃も刺激を受けたらしく、「あー」とか「うー」とかよく喋った。

 兄や姉がいる世間の子ども同様に、綾乃も、比較的早く言語を取得した。喋るのは周りと比べても早かったほうだと思われる。二歳程度で大人とでも大概の会話は通じるようになった。兄の言う意味を理解するようになり。傷だらけで帰ってきた兄に、「にぃに。だいじょうぶー?」と心配してキャラクターの絆創膏を貼る、なんてこともあった。少女趣味な絆創膏で、またそれが彼と仲の悪い同級生のからかいの種になるのだが……綾乃はそのことを知らない。

 康平は、勉強が苦手なほうだった。何故かというと――問題を作成した人間の意図が掴めない。そのことに尽きる。

『この作者はどんな意味を込めてこの文章を書いたのか。次のア~ウから選べ。』――作者に聞け。

『AちゃんとBちゃんのお家は500m離れています。AちゃんはBちゃんの家に向かうために家を出ました。Aちゃんの歩くスピードは時速3kmです。Aちゃんが午後の4時ちょうどに自分の家を出たとすると、Bちゃんのお家に着くのは何時何分になるでしょう?』――歩くスピードが一定なやつなんかおるわけないやろ。てか時間ぴったりに動く小学生がまじありえねえ。この問題考えたやつ、だらか。

 単純そうに見える、特に文章問題にいちいち突っ込みを入れてしまい、話にならないのである。テストの答案はいつもペケをつけられた。次は頑張りましょうね。――出題者の意図を汲み取る。このことが致命的なほどに康平は苦手であった。

 彼がそれを克服するのは、のちの話であり、まだここで話す段ではない。

 * * *

 不良。

 に対する憧れはあった。盗んだバイクを乗り回して街を飛び回る構図。尾崎豊の語る十五歳でなくとも夢見る世界だ。少女はするのはキス程度のイケメンに翻弄され、少年はスーパーヒーローに憧れ漫画を読みふける。なお。康平がその世界に興味を持ったのは。

 長谷川正。のちに、若干高校一年生で、永迂光愚蓮会の総長を務めあげたその男との出会いが関係している。――あとで正本人に確かめたところ、『知らん。覚えとらん』のたった二言で返されたが。たった五分間の邂逅が人生を変える、なんていうのは、よくある話だ。

 それは、綾乃が生まれる前の月のことであった。

 子どものすることはときに、残酷だ。手加減をしないだけに。

 自分と違う立場の者の痛みが分からないだけに。

 察する能力が欠如しているだけに。

 康平の同級生の男子三名が、学校の校庭で小さな野良猫を見かけ。バケツに汲んだ汚れた水をぶっかけ、挙句外の空きロッカーに閉じ込めた。ひどーい。と女子が遠巻きに見ていたが。その男子は不良寄りの、敵に回すと厄介なタイプの男子グループで。周りのみんな誰もが口を出せず、ただ、見ていた。

「――おい」そこへ声がかかる。思わぬ登場人物に、ひっ、とロッカーを殴りつけていた男子が喉を絞らせる。

 長谷川正の存在を知らない人間は、この小学校にはいない。――万引き。窃盗。カツアゲのたぐいは流石にしなかったが、ありとあらゆる悪いことをした。小学生なのに。ああいうのに目覚めるのは小学生高学年辺りから中学だが、彼はひとの三年先を行く人間だった。

 喧嘩をすれば上級生相手でもけちょんけちょんにしてやる。ましてや正は自分たちよりも一学年上と来た。勝てる要素などどこにも残っていない。彼は決して。

 ガタイがいい、というわけではない。柔道家のイメージとは程遠い。だが鍛えられた絞られたからだをしていた。着ているのは常に、薄いグレーの、ところどころ血の付着したジャージ。血は、洗濯をしてもなかなか落ちない。落としても落としてもきりがないという噂だ。

 細身だが迫力のほうといえばそれはもう――小学生が発せられる領域をとっくに超えていて。

 小さな声でも全世界を震わす。それほどの、威圧感を与えられる男であった。

 その男に話しかけられた男子グループは、「……な。なんですか……」と声を震わせるのがやっと。正は鋭い冷たい目でぼこぼこのロッカーを一瞥すると、

「おまえらが。なにをやっているのかを、おれは、聞いている」

 すると主要人物が泣きそうな顔で、「……で。ですから、猫を……」

「猫だぁああ!?」

 そこらじゅうに響く咆哮。がん、とその辺に転がっていたごみ箱を蹴り倒す。泣き出す女子もいた。周囲の反応など目に入らぬ様子で、正はずんずんロッカーへと突き進み、手で男子たちを押しのけ、迷わずロッカーを開き。

 自分の服が濡れてしまうのも構わず。――親と引き離されたに違いない、汚れた孤独で小さな黒猫を抱きしめた……。

「……かわいそうに。震えてやがる。辛い……、思いを、したんだな」

 遠巻きに見ていた連中のひとりであった松岡康平は見逃さなかった。その姿に、『きゅん』と胸をときめかせる女子がいたことに……。

 一方。そのことにはまったく気づかない正は、――どんな危害を加えられるのか。怯えた様子で見守る男子連中に対し、「てめえら」と険しい目を向ける。

「どんなことがあっても。動物に手を出すのは駄目だ。……やるんなら」

 ――自分よりも強いやつ相手に挑め。

 それが、……男ってもんだろ。

(ひゃーーー!)康平が女なら迷わず倒れていた。こんな王子様がいたなんて……。惚れる。惚れるわあ……。

 呆然と見送る一同を尻目に、素早く康平は追いかけた。「あの!」

 あとで分かったが正は記憶力が悪い。対人関係において。「……なんだ?」と、さきほどの取り巻きにはまったく気が行かなかった様子。それを分かりつつも、康平は気丈に声を発した。

「その猫。……どうするつもりっすか」

「学校の近所に猫屋敷、あっだろ? ……あそこんちならよろこんで引き取ってくれるさ。こないだ一匹死んじまってたの、ばーさん悲しんでたからさ。年寄りには癒やしが必要さ。この子にも――」

 愛が、必要だよなあ、……ミルク。

 慣れた手つきで子猫の頭を撫で、自分の指を舐めさせる。……黒猫なのに『ミルク』の名を授けることを不可思議に思い、康平が問いかけると、

「見かけは黒でもこの子んなかはピュアピュアだぜ。……ったく。見知らぬやつ相手にんなに懐いちまって大丈夫かよこいつ。今後が心配だぜ。……猫屋敷も階級社会てのによお」

「階級社会なのは」――気がつけば康平の喉元から言葉が滑り落ちていた。「人間社会も、同じです」

「だよなあ」皮肉げに口許を歪める。顔に残る傷はこの男の勲章――そんなふうに、康平は思った。「おめーもせいぜい、頑張れよ。じゃな」

 手を振り、片手で猫を抱っこしたまま背を向けるその背中に――

「あのお!」知らず、康平は叫んでいた。目を開き振り返る、野性味の溢れた年上の男に、

「どうしたらあなたのようになれるんやろか!」

「知らねーよ」あっさり男は切り捨てる。「てめーの人生だろ。てめーで考えろ」

 すると康平は質問を重ねる。「なら! あなたの目指す道は、いったいなんなんですか!」

「……いまんところは、この町一帯を牛耳る、永迂光愚蓮会の総長。

 それが、おれの、小さな将来の、目標」

「怖く、……ないんすか」康平は正直な感想を口にする。「さっき、正さんが来たとき、みんな表情、こわばらせとったやないですか。そーゆーの。

 気にならないんすか……」

「ある意味どうでもいい」男の答えは早かった。「周りの目ぇ気にしててめえのやりたいことやれねえならそのほうが人生心残りだろ。――おまえは。

 自分の人生を、自分のために生きてんのか? ――それとも。

 誰かの目ぇ気にしてやりたいこと我慢して生きていくのが、おまえの道なのか?」

 康平は質問を無視した。聞きたいことがほかにもあったのだ。「でもそれは。

 自分の身を危険に曝す――ことにも、繋がりますよね。

 あなたは、敵が多い。なのに。そうまでして。それは――

 目指さんとならんもん、なんですか……?」

 そのあとの正の台詞は、生涯、康平の胸のなかに残ることとなった。

 滅多に見せぬ正のやわらかな笑みとともに。

 ――総長の座に就くまで、おれは死んでも死にきれん。――強くなる。

 それ以外のなにもをおれには見えていない。登山家と同じだな。
 
 頂きをただ、目指すだけだ。

 ――

「ありがとうございましたあああ!」――何故か。

 男に礼を言いたくなった。大切ななにかを授かった。霧がかってなにも見えなかった自分の道が――

 見えた気がする。自分のするべきことは。

(あのひとに、ついていくことや……)

 小さくなっていく灰色の影。あの影が、再び手を振ることはなかった。だが康平は誓った。絶対――ついていく。

 隣で、一緒に歩いていける人間になる――。

 それが、自分の使命だと感じた。そのために彼は動いた。先ずは。

 からだを鍛えることから始めた。野球もサッカーの習い事に空手と柔道が追加された。体育の授業も熱心に行い、以外の時間も筋トレをし、徹底的に自分を追い込んだ。その変化に両親は驚いたようであった。

 問題は勉強のほうであった。出題者の意図が汲み取れない――これは、成績を伸ばす上で致命的だ。これを克服するストーリーを紡ぐうえでは。

 ある男の再登場が必要となる。

 * * *

「だーかーら。

 余計なことぐちぐち考えちまうんだからいけねえんだ。先ずは。

 言葉を言葉通り受け止めろ。出題者はそれを要求している。

 買い物に行くなら買い物に行く――途中で寄り道するとか考えんな。Aちゃんはおれらとは違う。言うなればロボットだ。出題者の思うとおりに正確に精密に動く機械(ロボット)だと思え。機械工場のオートメーションシステムとなんら変わらねえ。機械に人間性を求めるな。出題者にもな。それとな。

 国語の、作者の意図を探る問題は、消去法で攻めろ。答えが四つならうち二つがぜってえありえねえ答えだ。そいつ省いたら二つで迷うはずだ。

 じゃ。残り二つをどう絞るか。簡単だ。

 優等生的な答えを選べ」

 康平が十年来ずっと悩んでいた答えを、いともたやすく言語化して見せた――この男は、現・永迂光愚蓮会総長である長谷川正。悩める康平につきっきりで勉強を教えてくれている。場所は――

 松岡家の倉庫。元々部屋を余らせており、康平が使えるようにと、あてがわれた一角だ。そのうちひとつはのちに、坂田(さかた)春彦(はるひこ)がライブハウスとして使用することになる。

 康平は、小学六年生で永迂光愚蓮会のスカウトを受けて入会した正を追いかけ、自分は中学一年で永迂光愚蓮会に入会した。さすがに――小学生のうちに入会するのは無理だった。出直せ、とコンタクトをとった幹部にハネられた。それでも。

 高校生が中心で構成されている永迂光愚蓮会に康平が中学早々に入学できたのは――

 ある男の助言が関係している。

 小学生時代、正に出会って以降、家で可愛い妹をいじり倒し、部活に鍛錬する日々を過ごしていた康平だが。――正の『追っかけ』になった。正の情報に詳しい人物を探し出し、彼の動向を探るようになった。彼の行く先々を追いかけた。いずれも徒歩か自転車ゆえに行動範囲は限られたが。

 ――なんだ。また、おまえか……。

 呆れたように眉をひそめるその表情を見ると、なにか――こころがぽかぽかと温まった。それは、妹に対する感情とはまた別のものだった。

 正には弟がいる、という情報も、既に康平は入手していた。自分よりも二つ下。牛乳瓶の底みたいな分厚い、黒縁眼鏡をかけた、太っちょの冴えない男。遠目に見る限りでも、兄貴とは大違いだった。勉強はできるほうらしく。教師に褒められることはあれど兄貴が兄貴なもので――先生生徒ともども、長谷川弟の扱いに頭を悩ませ。露骨に差別するわけにもいかないので――つかず離れず。そういった関係を維持し続けていた空気を感じた。

 康平が、長谷川正の周りをうろちょろし始めて数ヶ月が経過した頃だろうか。ある日。四限目の体育を終え、体育館の裏から教室に戻ろうとしていたところを、後ろから声をかけられた。

「――松岡康平さん。ですよね……」

 柔和な声音。穏やかな口調。だが――

 ぞわっ、……と康平の全身に鳥肌が立つ。こいつ――

 只者じゃねえ。

 殺気めいたものを発せられる小学生がいるなどとは。想像だにしていなかった。康平は声を震わせぬよう意識し、

「そやけど。それがどしたんや?」前を向いたままのリプライ。そっちに飲まれねえよ、という康平の意思表示である。すると相手は立ち位置を変えぬままに、

「――兄の周囲をうろつく目的は? 兄を慕うがゆえ。あるいは――」ここで慎重深く言葉を切り、

「――兄を痛めつけるため。

 あなたの目的は、どちらでしょう――?」

 話し方が小学生のものとは思えない。だいたい、この緑川で標準語を話す意味が分からない。そんなやつ他に誰もいないってのに。――いいや。

 正は標準語に近い喋りをしていたな。――さすがは弟君、といったところか。

 様々な情報を言葉のみで収集しつつ、康平は素直に答えた。「好きだから。単に。長谷川正が」

 弟は頭の回転が速い人間らしく。「具体的にはどこが?」と畳み掛ける。

「んー」康平は顎先に指を添え。会うたび怒ったような顔を向ける正を思い浮かべる。「なんか、……媚びないところ。

 世の中をいい方向に変えようとしているところ、やろか……」

 ここで、ふっ、と長谷川(はせがわ)祐(たすく)が息をこぼした。「いい方向って……。兄が目指しているのは不良集団の総長ですよ? 彼がどんな行為をしでかしてきたか、あなたもご存知でしょうに。……あなたも一緒に。

 闇の道に、進みたいんですか……?」

「んな将来のこたー考えてねえ」康平は、逆光ゆえ真っ黒に見える体育館を睨みつけていた。「おれの将来は、跡継ぎ、って決まっとんのや。せやけどそれまでのあいだ――」

 好きなように人生生きてみてえじゃん? それを教えてくれたんは――

「ほかの誰でもない。あんたの兄貴……。

 長谷川正、なんやさけ」

 振り返って見つめたその顔には――

 驚愕。共感。羨望。

 様々なものが浮かんでいて――何故か、康平の胸を苦しくさせた。

「あーなんか兄弟ってええもんやなあ。おれも正さんみたいな兄貴、欲しかったわあ……」

 康平が顔をほころばせ。素直に感情を吐露すると。

 正の弟・長谷川祐の目から透明な涙がこぼれ落ちた。

 潔い性格なのか。それとも金八先生の歌が好きなのか。祐は、拭うこともせず、ただ、黙って涙を流し続けている。それを見て、分かった。

 ――祐は。

 兄のことを誇りに思っているのに。周囲の無理解に苦しんでいて。

 差別される状況。それにも苦しんでいる……。

 苦しみを一人抱え。かつ。敵を作りやすい兄の状況にも頭を悩ませ。

 兄のために、自分が盾となって、いる……。

「あっちゃあ。ガキんちょ泣かせてもーた」と康平は祐の様子を見て苦笑いをする。「泣かすんなら女だけって決めておるんに……」

 言って祐の頭の後ろに手をやり、彼の顔を自分の胸に押し付ける。おそらく、殺気を発せられる祐であれば避けることも可能であったはず。ただ彼は――泣きたいのだ。ならば。

 好きなようにさせてやろう。

 笑って康平は祐の頭の後ろに手をやり、わしゃっ、と髪の毛を掴んでやる。「……ったく。おまえにーちゃん大好きやねんなあ。正さん、幸せやなあ。んなに兄貴思いの弟がいてくれてなあ……」

「ぼ、くは……」ひっぐ。と泣きじゃくりをあげるのがさきほどまでとはまるで別人だ。「ひとのことは言えません。ぼく自身も、兄を、ひととは違うと、差別してきたほうの、人種、です……」

「いまはそうやない。――そのことが、一番大事なん違うか?」

 腕のなかで祐が目をあげる。――改めて近くで見るときれいな目をしている。オリーブがかった、海の底のような瞳。

 視線を外さず、康平は自分の思いを伝える。「おれは事実しか見とらん。おれは――

 正さんが。おれの同級生がいじめておった子猫を救い……、しかも、みんなが忌み嫌う黒猫やのに、ミルクなんつぅピュアピュアな名前つけて猫屋敷に持ってったのも知っておるし……。

 素行が悪いてみんなが煙たがる長谷川正という男の真の姿を見て、守ろうとする弟がおる……清廉潔白や。これ以上にきれいな関係など、どこに、あるか」

 最後の言葉に力を込めると、祐は、自分から康平の腕のなかから出ていった。

 涙を拭い、校舎へと向かおうとするその背中――。きっと。

 様々なものを背負っているに違いない。

 兄への、周囲の無理解。長谷川の親は裕福だと聞いている。優等生の重圧。親からのプレッシャー。……

「おい!」とその背中に康平は叫んだ。「おまえ。悩んどることあったら気軽におれなんかに相談してみい! 力になっぞ!」

 小さくなったシルエットが、肩を震わせる。振り返った祐は、こらえきれないといった感じで笑っており、

「――いいえ。利用させて頂くのはぼくのほうです。

 ……松岡家の、御曹司さん」

 まだ残っていた涙を拭うと、二本、指を立て、……二つのことを約束してくださいね、と肩をすくめる。まずひとつ。

「兄の周りをうろつくのは結構ですが。身辺には注意してくださいね。不意打ちを食らうこともありますので。引き続きからだを鍛えておくことです。まあ――」

 殺気の類には敏感であることは読み取れましたが。

 年相応に無邪気な笑みを浮かべ、眼鏡の縁に触れ、恐ろしいことを言う。「もうひとつは」と康平は続きを促す。

「ふたつ。……場所の確保が悩みの種なんですよ。誰かの家だと厳しい。兄のいずれ住むであろうアパートも狭すぎる。かといって毎回スーパーの前をたまり場にするのも問題有り。周りの大人に悪印象を与えかねない意味でもね。というわけで」

 お宅の余っている倉庫なんかあれば提供して頂けると、ぼくたちは非常に、助かるんですが……。

「勿論いますぐというわけではなく」かるく首を振る祐。「あなたが中学に入った頃に入会許可が出てから、……の話ですね。いえ逆です。

 場所を提供することを条件に、入会する権利を、ゲットするんです……」

 乗るでしょう間違いなく彼らなら。と優美に笑む男は誰だろう、と康平は思う。さきほどまでビービー泣いていたケツの青いガキとはまるで別人だ。こいつはなにか違う。なにかが……、決定的に違う。

 打算。勝算。人間関係における掛け算引き算を容易にやってのける男。康平よりも三歳年下のはずだが、……末恐ろしいものがある。

「いまのうちは、勉強にそんなに力を入れないほうがいいですよ。むしろいっぱい遊んでおいてください」引き続きビジネスライクに笑う祐。「そのほうが効果的です。……中学に入って。なんやら友達同士とつるむようになった。部活も入らんで。――が。

 なんかよう分からんうちにめきめき成績あがっとるやないか。よし小遣いでもやろう。

 ……となれば、しめたものです」

 お金がないとバイク買えませんからねえ。と眼鏡に触れる祐。――そうか。暴走族に入るにはバイクが不可欠。何故かそのことに思い至らなかった康平であった。――が。

「バイクといっても。騒音で町に迷惑をかける種のものはアウトにする予定です。――兄は」

 ……予想外のことを祐は言ってのける。――は? と康平。

「兄が総長になる頃には、しずかーなバイクでピュウウンと走る暴走族が誕生していますよ。シュールなものです……」ふふ、と笑みをこぼす祐。「ベトナムの道路のほうがよっぽど騒がしいかもしれませんね」

 まあいずれも。

「兄とぼくが入会してからの話、ですがね……。まあ来年か再来年。事態は動きます。……あなたも『準備』のほうは進めておいてくださいね」

 最後はにっこりと笑う。じゃあまた、と手を振るとその姿は校舎へと吸い込まれていった。――なんという。

「おっそろしい小学生がおったもんや……」

 初めての長谷川祐との対面は、強烈なものであった。もっとも、弟である祐のほうは、対人関係における記憶力が抜群で、しっかり記憶していた様子だが。そもそも関わる人間が極端に少ないのである。兄のせい。本人の意向で。

 以上が康平と祐の邂逅。話を戻すと、中学一年の松岡康平は、一歳年上の長谷川正に勉強を教わっている最中。倉庫は、縦に長い部屋で三つに区切られており。奥が幹部のみが入室を許されるアジト。真ん中が漫画を置く憩いの部屋。猥本やテレビなんかも置いてある。その目的で使うことはあるはずである。康平は使ったことがないが。――そしていま康平たちが勉強しているのがもっとも手前の部屋。

 みんなで勉強を頑張る。――という名目で借りた倉庫である。どうせ余らせていた倉庫だ。資金に余裕があり、息子にすこしでも成績をあげてもらいたいという両親の思惑と、康平の理想が、合致した。すべて祐の思い通りというわけである。

 ちらと顔をあげて見れば、祐は。他の会員にも勉強を教えている。小学生のくせして何故中学生に勉強を教えられるのか。思うに――祐は、兄にも勉強を教えているはず。具体的にそう聞いたわけではないが、なんとなく、そんな匂いを感じるのである。――裏で糸を引くのは必ずこの男。敵に回すと最も厄介なのはこういうタイプだ。

 なお。松岡の両親は、男同士の集まりを容認しており――流石に、永迂光愚蓮会絡みであることには薄々感づいているようではあるが。息子の成績が飛躍的に上昇したのを見て黙認している――といった状況である。

 康平は、忙しかった。学校から返ってくるとすぐアジトへ。そして勉強。勉強に勉強。真ん中の部屋から荷物をどかして、鍛錬に明け暮れるなんてこともあった。近いうちに親にもう一部屋借りれないものか頼んでみようと思う。みんなで鍛え上げる作業も必要だ。喧嘩の訓練も。

 いずれにせよ。暴走族に所属しているはずの面々がみんな自転車で通い詰める構図はなかなかシュールであった。さすがに高校二年生以上ともなるとバイク通いの者もいたが。見つからぬようわざわざ別の場所に止めてから来る、という念の入れようである。

「――ほれ。分かったらとっとと解いてみい」

 何度聞いたか分からぬ正の言葉を受け、真剣な面持ちで問題に向かい合う。――康平の脳には、いつの間にか出題者への反発心が抜け落ちていた。

 選別をするためにやつらは仕掛けている。

 仕掛けられた罠をかいくぐり、新しい道に向かうんだ……!

 かつて。

 理解不能。と思えた作業が楽しく――思えてきた。すべて。

 長谷川正。そして祐のおかげであった。

 アジトでの勉強を終えてからも康平は忙しい。五歳の妹の相手をし、風呂上がりに服を着せてやり(さすがに一緒には入らない。が頭を洗うのは手伝ってやったりなんかする)、絵本やアニメを見せたり……。松岡の両親は多岐に渡る仕事を行っているゆえ、夜もなかなか忙しい。妹の世話を焼くのは康平であった。

 もうこれ以上無理。……と思えるほど、妹と遊んでやり。寝かしつけは二十二時。保育園で昼寝をしている割りには寝る時間が遅めで、親がちょっと心配している。発育には問題がないようだが。そして。

 そこまでしてやっと康平の時間到来。といっても、テレビを見られるのは30分の番組程度。あとは風呂や歯磨きだのであっというまに就寝時間到来。やれやれ。今日も勉強と妹の相手だけで終わっちまったぜ。ため息をこぼしつつ掛け布団を被る。

 年の離れた妹は、いつまで経っても可愛い。

 その後、彼女が反抗期を迎えることがあっても。少々兄貴に冷たい態度を取ることがあっても。基本的には綾乃はやさしい人格を維持し続けた。ルックスはいいほうなのに、何故、沙粧妙子ばりの重たいワンレンを維持するのか、それだけが謎だったが。ステージで演奏をするときに縛れないと邪魔、というのが彼女の言い分である。同じワンレンにしても平野ノラみたいなのじゃなくもっといろいろ――と言いかけた言葉を飲み込んだ。

 綾乃の人生は、綾乃のものなのである。

 それからときは流れ。2017年3月。もうすぐ――六ヶ月の娘を連れて妹の綾乃が帰ってくる。4月に職場復帰する綾乃は忙しいようだ。康平も仕事に忙殺され、綾乃や姪っ子の優香に全然かまってやれなかった。その後悔が残っているだけに――

 やさしくしてあげよう。それと。

 ――あいつには一言、言ってやらなな。

 決意を固め、缶ビールを直飲みする。田舎特有の、強い星のまたたきを見据え、康平はあることを決意するのであった。

 *
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