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act1. 七月七日、別れ
しおりを挟むまさかこの場所を指定されるとは思わなかった。
と、のちに彼女はこの日を振り返る。
七夕が来るたびに思い出すかもしれない、とも。
そこは、初めて彼氏とデートした素敵なカフェだった。壁も床も白木のインテリア、ついでに茶器も白で統一されている外国風の雰囲気の部屋に憧れていた。こういうカフェの近所に住んで、子犬の散歩なんかしたりジョギングしたりするんだって。
そのカフェに入るなり親友の姿を見つけたので、彼女は駆け寄った。
「知奈(ちな)! すっごい偶然だね。……一人?」
「うん、まあ、いまんとこ……」
友人はひとりでカフェに行くタイプではないはずだが。
気まずそうに目を逸らす親友の態度に疑問が浮かびかけたときに、第三の登場人物が現れた。
「紘花(ひろか)。お待たせ」
「ううん。ね、知奈も来てるの」
「ああ、おれが呼んだんだ」
「え? どうして?」
「その、……」
上着を脱いだ彼は、
「ごめんっ!」
カフェじゅうに響く大声とともに、深々と頭を下げた。
最初に謝るなんて、卑怯だよ。
と彼女はのちにこの出来事を、振り返る。
「え? えぇーとそのね、」反射的に彼女は笑った。「……あたしなんだか、……啓太に謝られる意味がよく分から――」
「ごめんなさい、紘花」
座っている友人も頭を下げた。
嫌な予感がする。
彼女は周りを見回す。……知らないひとばかり、だが着実に注目を集めている。そこの女の子二人なんて好奇心むき出しで露骨に見てひそひそ話なんかしている。目が合いそうになったのを彼女は自主的に逸らした。
男と女が真正面に一人ずつ。
謝られる理由として、
思い当たる可能性は、ただ一つ。
だが彼女はその予感を認めたくなかった。「とにかく、……顔上げて? 啓太、座って……?」
「うん……」
啓太は、知奈の顔色を伺うようにして、座る。
彼氏が、自分ではなく知奈の胸中を思いやっているという事実が、彼女の胸を苦しくさせた。
紘花の目には、二人とも、思いつめたような、悲しげななんとも言えない表情をしている。
せっかくの休日。
どうやらハッピーな話題を提供してくれるわけでは、無さそうだ。
「いつから?」と彼女は尋ねた。
「今年の始めから、……」
「そんなに!?」彼女の声は裏返った。「半年も前から、……?」
喉の奥がからからに乾く。
「本当に、すまないと思っている」彼氏は、営業に出ているサラリーマンのように頭を下げた。「おれが悪いんだ」
「……きっかけは?」彼女の声は震えていた。
半年間も。
自分の信じていた二人に、裏切り続けられていたという、事実こそが、震えさせる。
鼓動が確実に速まるも、彼氏元彼氏と呼ぶほうがふさわしいかもしれないが、彼の話は続く。
「本当に、偶然だったんだ。ちょうど同じ店に飲みに来ていて、……おれは友達と。知奈は合コンで、……それで、変なやつに知奈が絡まれていたのをおれが、彼氏の振りして追い払ってさ……」
『知奈』。
彼が『彼女』を呼び捨てにする事実になんだか頭がくらっとした。親密さのほどを、表している。
呼び名とは、すなわち愛情の現れだ。
「……彼女。上京してから変なやつに尾行されたりすることが多くてさ、……すごく怖がってたんだ。だからおれが」
榎原(えのはら)紘花も一人暮らしをしている。
夜道が暗くて心許ないことだって、ある。
変な男に声をかけられたり、追いかけられてコンビニに逃げ込んだこともあった。
そんな心細いことがあるたび、彼女は一人で耐えていた。
打ち明けると、多忙な彼に余計な心配をかけるだけだと、思ったから。
父親などもってのほか。
シングルファーザーで血の繋がりのない父には、そんなこと話せやしない。
「……知奈は、なんか、ついててやんないと、危なっかしいっていうか。知奈のことは、これからもおれが守っていきたいとそう、思っている……」
「……ごめんね。紘花」ずっと黙っていた親友が口を開く。「……駄目だって頭では分かってるんだけど、でも止められなくって、……相談しようにも、……そのね、勿論、身を引こうと思ったこともあるんだけど、でも、そうすればするほどドツボにはまるっていうか……」
「それで二人はこれからどうしたいの?」
彼女は切り出す。と同時に、
(うんざりする)
と内心、毒づいた。
一見自分が会話の主導権を握っているようで、裏切られた自分が二人の結論を懇切丁寧に聞き出しているだけなのだ。
胸のなかに嵐が吹き荒れる、それを悟られまいとして、孤軍奮闘しているのも、誰も、知らないのだ。
「本当に、すまないと思っている……」
同じ台詞を聞かされ彼女は言い方を変えた。「だから結論だけ教えて」
「おれは、知奈を、選ぶ」
目眩がする。
テーブルのうえのメニュー表が目に入るけれどなにも頼めるはずがない。店員が遠巻きにお冷やを出すタイミングを伺っている。
どうやら彼女がそれに手をつけることは、無さそうだ。
「分かった」
「え!?」と知奈が言った。驚きも露わな表情だ。
彼氏のほうは、少しの疑念を持っている様子。
「分かった、って紘花……」
「離れていく男を引き留める主義にはないの。いいよ。好きにすれば? ただし」
彼女は、たっぷりと二人の顔を見回してから、言った。
「謝らなくていいから、暫く、あたしに連絡なんか取らないで?」
知奈の大きな目に、みるみるうちに涙が溜まる。
泣きたいのは、こっちのほうだ。
彼女は小さく首を振る。長い髪が揺れた。「あのね。……あなたたち二人が選ぶって言うのは、そういうことなの。お互いがお互いを選ぶっていうことがどういう意味だか、分かるよね?」
「紘花ぁ……」とうとう涙がこぼれ落ちた。
裏切った人間に同情されているという現実に、情けなくなった。
彼女は、その思いを振り切るようにして席を立つ。
「それじゃあ、末永くお幸せに」
「紘花。 待ってよ紘花!」
彼女は親友の言葉を無視した。
待って欲しいのは、こっちだ……。
入り口でドアを開く際、彼らのほうを見た。彼が、俯き号泣する彼女の肩を抱く構図。
あれぞ、一般的な彼氏彼女というもの。
冷ややかな気持ちを伴い、彼女はそのカフェを去った。
家に帰ってからも気持ちの整理がつかなかった。
南雲(なぐも)知奈とは、大学に入学した頃からの友達だ。
彼女は、大学に入りたての頃、どうやって友達を作ったらいいか、分からなかった。
初めての授業で誰にも声もかけられず、戸惑っていた彼女の隣の席に座ったのが、南雲知奈だ。
『ここ、空いてる?』
明るい声。愛くるしい黒い瞳が印象的で、同性の目から見ても、知奈は、可愛かった。
以来。大学の授業を一緒に取るようになり、他の誰よりも、南雲知奈は彼女にとって親しい友人となった。
ランチタイム。ゼミ。初めての就活。ささやかな失恋。合コン。いろんな場面で彼女は親友に相談ごとをした。
そのたび、知奈は、「だいじょーぶ、なんとかなるよぉ」と言って紘花を励ますのだ。
もちろん、悲しいときは一緒に泣くし、彼女にとっての、父親を除けば最大の理解者であったのだ。
だからこそ、痛手だった。
もっとも、最近は、彼女は誰にも相談をせず、ひとりで決断する場面が多かった。
『彼』とうまく行っていなかったことも、相談しなかったくらいだ。そう考えると。
どんなことだってひとりで乗り越えられる。
ひとしきり泣いたあと、彼女は決断を下した。
一人きりで生きていこう、と。
*
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