恋は、やさしく

美凪ましろ

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act2. コーヒー一杯の充実

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「榎原くん。ちょっといいか」
「はい」
「これとこれのコピーを10部ずつ取ってくれるか。ツーインワンの両面(りゃんめん)で。それと、会議室の予約を頼む。今日の13時で六名。なるだけ広い部屋がいい」

 あれ。珍しいな。

 とは思ったが口には出さず、職務を推敲するべく頷いてIEを開き、直ちに会議室の予約状況を確認する。

 上司の命令に従うのがアシスタントとしての大事な役目だから。

 手早く予約手続きをしながら彼女は尋ねた。「ほかになにかしておくことありますか」
「次いでに明日の状況も見てくれるか。十名程度が入れる部屋で、十四時から……ああ、それ、取っといて。他には、第二事業部に貸し出していたPCが本日二十五台返却される。全て、初期化してくれるか」
「はい。OSって2000ですか」
「おそらく。急ぎではないが、プロジェクトで使うだろうからXPにアップグレードして欲しい。OSのCDの場所は、……分かるよな」
「大丈夫です。分からなければ寺西(てらにし)さんに聞きます」

 OSのバージョンアップは地味に、時間を食う。

 サービスパックを当てるのに一時間はかかる。ノートPCも含まれるとは聞いていなかった。しかもWindows98と来た。OSを削除したあとフロッピーディスクを用いて95を再インストールし、それから2000、XPとバージョンアップをするのもこれまた時間がかかる。
 デバイスを入れたりネットワーク接続をする設定をしたりサービスパックを当ててセキュリティソフトを入れたりとと。

「お。まだ残っていたのか」
 会議を終えた蒔田だ。彼女は彼を一瞥し、ディスプレイに視線を戻す。「あはい。これだけやっちゃおうと思って……」
「急かすつもりはなかったんだが、……助かる。早速明日、二台使う。例のプロジェクト、二名BPさんが入るんでな」
「デスクトップですよね? ちょうど二台当ててるんで、間に合うと思います。……終わったらどこに置いておけばいいですか」
「いいよそのままで。おれがやっておく」
「でも、……せっかくですし。最後までさせてください」
「じゃあ、……若森(わかもり)さんの横の席二つ、空いてるだろ。あそこに頼む」
「分かりました」
「うん」

 言って蒔田は離れた。給茶機のほうへ向かった様子。時刻は十八時。

 お腹が空いた。

 コーヒーが飲みたい。

 そう思ったとき、彼女の右手の近くに、コーヒーの入ったカップが置かれていた。

「はい。ご苦労様」

 びっくりして彼女は顔をあげた。
 彼女の表情を見て蒔田はすこし笑った。「そんなに驚くことか?」
「どういう風の吹き回しかと思って……、すごい、寒気がします」
 飲み物は全てセルフだ。来客のときを除けば全員が自分で自分のぶんの用意をする。
 それに、GL(グループリーダ)たる彼が部下のぶんを用意する必要など本来は、ない。彼女が新人の頃からときどき蒔田はしてくれるけど。
 彼女の率直な言葉に、彼は笑って首を振る。「酷い言い草だ。二度と優しくなんかするもんか」
「え、ええと……」

 優しくされたのか。

 ――いまのが。

 いまのが?

 彼女は、カップに手を伸ばす。……持つ手が、震えていた。

 気持ちの整理をつける時間。

 失恋してずたずたになったと思っていた気持ちが、あたたかいコーヒーを飲めば、ほっこり癒される。

 そんな単純でいいのか、という抵抗感も虚しく。

 給茶機の作る、いつも飲んでいる、なんてことないコーヒーなのに。

 彼女は右側に立つ蒔田を見た。ディスプレイには、バージョンアップの進行速度がインジゲータとなって表示されている。あまりの遅さを、睨みつけているようにも思える。
 彼女は、蒔田の唇が動くのを待った。

「おっせえなあ」

 やっぱり、言った。

 言う言うと思った。彼女は俯いて笑いを噛み殺す。

「スペックがあんまり良かねえPCだからな。榎原くん。時間をかけさせてすまないな」
「いいえ。……どうせ、家に帰ってもすることないですから、いいんです」
「どうせなんて言うな自分のことを」

 軽い口調。

 だがすこし怒っているようにも聞こえた。蒔田の表情はいつもと変わらずポーカーフェイスだが。

 蒔田は彼女の後ろを回って、椅子を引き、左側の自席に座る。

「帰って、飯作って食って風呂入って寝る人間は、誰だって、忙しい。おれなんかこの一ヶ月自炊してない」
 その言葉にかえって彼女は驚いた。「いつも、してるんですか? 自炊」
「簡単なものだがな。チャーハンとか牛丼とか三十分もかからず出来上がる程度のもんだ」
「ひとりぶんをわざわざ作るんですか」蒔田がお弁当を持ってくるのを見たことがないのだが。
 意外な、一面だった。
「まあな。あまり、遅くならないようにな」
 会話はこれで終わりと言いたげに、蒔田はキーボードに触れ、タイピングを開始する。

 彼女は、ディスプレイに目を戻すものの、意識を蒔田のほうに残したままだった。

 蒔田が帰るのは、彼女が帰ったあとだろう。

 GLとして管理するプロジェクトが幾つか佳境だから。資料の作成、プロジェクトの進捗管理、などなど、彼にはすることが山積みだ。
 彼女は目だけで周囲を見回す。他に残っている社員は、少ない。本社にて行うプロジェクトを『持ち帰り案件』と呼ぶが、持ち帰り案件が概ね落ち着いた、いわばプロジェクトの谷間の時期だ。
 彼女は、SE(システムエンジニア)を志望して会社に入社した。が、入社二年目を迎えた四月のある日、自分の所属する第三事業部の『アシスタント』の仕事をするよう言い渡されたのだ。

 彼女は、いまでも、そのときの様子を思い出しては、笑いそうになる。

 * * *

「アシスタント、ですか? 要りませんよそんなの」
「まあ蒔田くんそう言わずに。……だから前もって言わなかったんですよ」
「SE志望でうちに入ったんだろう。事務職やらされるたぁ榎原くんだって望んじゃないだろう」
「いえ、あたしは別にどちらでも……」
「……い!? ……いい、のか」
「なんとなく。蒔田さん、オーバーフロー気味ですし、あたしはいま待機状態ですから、なにもせずにいるよりは、ちょうどいいかなあって」
「蒔田くん。良かったじゃあないか、うん。理解のあるアシスタントが得られて」
「ぼくよりも柏谷(かしわたに)さんのほうがサポートが必要なんじゃないですか」
「メインは蒔田くんのヘルプ。サブは寺西さんの引き継ぎ。きみのところで使い物になればプラスぼくのサポートして貰うっていう選択肢もあるよ」
「とにかく、……頑張ります。なんでも言いつけてくださいね、蒔田さん」
「お、おう……」

 鉄仮面。鉄壁。1ミリも笑わない男。
 くすぐっても笑わない男。
 人間サイボーグ。

 無駄に細マッチョ。

 ありがたくもない呼び名を数々与えられた蒔田(まきた)一臣(かずおみ)という男は、確かに、第一印象からして、不遜な態度を取る、俺様な男だった。

 俺様な男だ。

 だが、あのときの、「お、おう……」としどろもどろで頬を人差し指で掻く姿はどう考えてもユーモラスそのもの。

 人間らしい姿だった。

 どうせ頬なんかかゆくもないに決まっている。

 榎原紘花は、蒔田のアシスタントの仕事を始めて、三ヶ月が経つ。

(あれ、そういえば……)

 なんでも言いつけてくださいね、とは言った。
 言ったものの、会議室予約などの雑務は、結局、ほとんど蒔田が従前どおり自分で行っていた。が。

 今日は、やけに頼まれたではないか。

 会議室予約ごとき雑務二つまでも。なんでも自力でやりたがる蒔田にしては珍しいことだ。(だからこそ周りに割り振るよう強制的にアシスタントをつけられたというわけだが)

 どういう風の吹き回しだろう。

 やや疑問を感じつつも、彼女は、コーヒーを飲み、残りの作業に専念し、一時間弱で終わらせた。

「お先に失礼します」
「お疲れ」

 フロアに残っているのは、蒔田一人。

「……蒔田さん。手伝えることあったら、ほんとに、なんでも、言ってくださいね」
「分かってる。気をつけて帰れよ」
「……子どもじゃないんですから」
「女の子なんだから、心配だろ」

 唐突に、一昨日のやり取りが思い出された。

 選ばれなかった、事実。

 捨てられた、現実。

 かよわくって、愛くるしいあの子を選んだ、彼。

(啓太の馬鹿……)

 胸が締めつけられる。
 涙が出そうになるのを、彼女は、奥歯を噛んで、堪えた。

 職場では、男女を意識することはない。といっても。

 徹夜の仕事はあんまり女性には割り当てられないし、最悪終電までには帰れるよう配慮はされている。以前、榎原がついたプロジェクトではそうだった。

 男と並んで肩肘張って臨むはずだった仕事で、案外、『女』扱いされていて。

 肝心の彼氏には『女』扱いされず、捨てられた。

 捨てられちゃった……。

(あやばい、まじで泣きそ……)

 彼女は下唇を噛んだ。涙声になるのだけは阻止したい。「お、さきに、失礼します」
「榎原くん。

 おまえは、悪くない」

「ふえ?」いきなり言われ、変な声が出る。手で目元を擦ってから、振り返った。

 蒔田が、真っ直ぐ、彼女のことを見ていた。

「なにがあったか知らんが、おまえは、悪くない。……おまえのような人間には、誰も言ってやらんだろうと思った」

「……」

「以上だ。早く帰れ」

 なにごともなかったかのように仕事に戻る蒔田。

 ……なんだったんだいまのは……。

 でも蒔田の目はすごく真剣だった。

 鼓動が、速かった。

 彼女は、部屋を出た。セキュリティーロックがかかり、ピッと音が鳴る。蒔田さん。

「帰ってチャーハンなんか作らないだろうなあ……」

 会社を出ると、夜空の星がやけに眩しい。


 おまえは、悪くない。


「そういうことに、しちゃお」

 そう呟いてもみても、夜空の星たちは滲んで見えてしまうのだった。

 *
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