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act8. 空白
しおりを挟む恋とは、ある意味で暇つぶしだ。
相手のことを考えているあいだ、他のことを忘れていられる。
その日あった嫌なできごとや、過去の辛い恋など。
榎原紘花にとって、蒔田に恋するということは、決して暇つぶしのためではなかったが、しかし失恋の痛手から目を背けるという一面を有してはいた。
失恋を癒やすという役割は、仕事だけではこと足りない。
日々の仕事のあとや休日などの空白の時間に、考えてしまうのだ。終わったことをいつまでもうじうじと。
ああすれば良かった、こうすれば良かった。そんな不毛な時間の穴埋めにも新しい恋は、うってつけだった。
例えそれが一方的な片想いであろうとも。
『職場の人間とつき合うなど考えられない』という蒔田の言い分は、ある種の希望を彼女の胸に残した。つまり、人間性を否定されたわけでもなく、可能性を否定されたわけでもない。蒔田が失恋したのは知っている。すぐに切り替えられるものでもないと分かっている。例えば自分が彼氏を忘れられないように。
だがいずれ、気持ちに一定の整理がついた段階で、自分のことを一人の女性として見てもらえるのはないかと、彼女はこころのどこかで期待していた。
いまはまだ待つとき。彼の気持ちはおそらく、そして自分の気持ちの整理も済んでいない。
アフターファイブは毎日簡単でもいいから料理をしてみたり(彼女は料理が苦手だと自覚している)。週末は、連絡を取っていなかった友人と積極的に連絡を取ってみたり、出かけてみたり。
そんな風に過ごすうちに、夏だった季節は、秋を越え、冬を迎えた。
* * *
「え。蒔田さん出身石川なんですか?」
「ああ」
「だから肌白いんすかね」
「気候と肌のいろは、関係ない」
「あたし小学生の頃に行ったことありますよ、石川県。研修旅行で、地元の子たちと交流もしたんです。珠洲の海の近くでした。蒔田さん、石川県はどちらの出身ですか」
「緑川だ」
「ああ、焼き物で有名な……」空気を読んでか、道林が立ち上がったのを見つつ、彼女は、手元にグラスを引き寄せた。「こないだ出席された結婚式も緑川で行われたんですか」
「よく覚えてるな」
「月曜に有休取ったじゃないですか。蒔田さん、あんまり休まないから覚えてます」
「まあ、やることがいろいろあってな。式は、地元だ。……結婚式とは、案外いいもんだな。感動した」
小泉かよ。
と内心だけで彼女は突っ込んだ。「意外ですね、蒔田さんがそんなこと言うなんて。結婚式なんて形骸的で無意味な行事だ、なんて言ってのけそうじゃないですか」
「古い友人同士の式だからこそ感動したというのはあるな」
(……友人同士)
つまり、新郎新婦ともに長いつき合いの友人だということだ。
榎原は、自分の置かれた状況に彼のそれを重ねた。
(……知奈と啓太が結婚するって言ったら、あたし平常心でいられるかな……)
知奈とは一度、電話で話した。元気? 変わりない? あうん、なんとなく電話してみただけ、……って会話が全然続かなかった。思い切って電話したのがよくなかったのかもしれない。穏便にメールにしておくとか。でも声の調子とか雰囲気とかどうしても話してみないと分からないことって、あるし。うまく言ってる? と訊くと、うん、と答えた。
うまく行っているのなら、なによりだと思った。
友情を犠牲にしてまで手に入れた恋だ。
「すいませーん、誰かウーロンハイ飲む方ほかにいます?」彼女は、蒔田に非常に薄いもはや烏龍茶に等しいウーロンハイを手渡しつつ、ほかの面々に尋ねた。はーい、と手をあげたのが二名。ちゃっかり、道林もそのなかにいる。
(先輩にウーロンハイ作らせるってどういう後輩よ)
グラスに氷を入れる手つきが乱雑になる。――視線。蒔田と目がかち合った。
「そう思うくらいなら本人にやらせろよ」
(そう言えない、性分なんです)
榎原はかぶりを振った。蒔田は、ちょっと笑ってグラスに口をつけた。
そういう、蒔田のちょっとした動作や言葉が、榎原は大好きだった。
道林は別の席で誰かと笑っている。蒔田が席を立つ。煙草を吸いに行くのだろう。今日び、居酒屋は喫煙可能なのが当たり前だが、蒔田が吸うときは決まって席を外す。外の空気を吸いたい性分なのだろう。
自分が飲み会の場で手を動かしてしまうのと同じで。
「ミカちゃーん。ウーロンハイできたよ。二つ持ってって」
「はぁーい」道林が手を振る。蒔田と入れ替わるようにしてやってくる。
そのときに彼女は、思った。
離れて誰かと連絡を取っている可能性もあるのだ、と。
(あたしの知らない、誰かと)
*
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