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act9. 赤子
しおりを挟むどうして、その可能性に思い至らなかったのだろう。
と彼女は思う。
それを目撃したときに。
蒔田は指輪をしていない。未婚のはずだ。だが彼女がいるともいないとも聞いていないし、あの無垢な赤ちゃんが。
あんなに、目を細めて嬉しそうに抱く子が、自分の子じゃないなんて。
母親である女性は親しげに彼の背中に手を添えている。
仲睦まじき、家族三人の一幕。
それを目撃したとき、彼女は自分の足が棒になったように、動けなかった。
* * *
「お先に」
「……お疲れさまです」
蒔田が自分より先に帰るなんて珍しい。彼女はタイピングする手を止め、小さく会釈した。
(なんとなくそわそわしてた……)
仕事大好きな上司にも、早く帰りたい日があるのか。
(まあ当たり前か)
人間だもの。
彼女は、手早く入力を終え、あがることとした。近頃は定時帰りが続いている。残業時間は月に十時間程度。蒔田の十分の一だ。
(帰ったら肉じゃがでも作ろっかな……)
自炊を毎日続けるのはちょっとかったるい。なにごとも続けることがもっとも難しいのだ。外食をひとりでする気にもなれない。メールしてすぐ空いてるって返ってくるようなそんな間柄の友達は……失ったのだった。
いつか蒔田が電話をしているのを見かけた、オフィス街の小道でだった。
またも彼の長身を目撃したのは。
「あ。蒔田さ……」
声をかけようとしたが思いとどまった。
彼は、赤子を両手に抱いている。遠目に見た限り一歳以下。まさに赤ん坊だ。蒔田はいままでに見たことのない、優しい表情をしている。
隣の女性が穏やかに二人を見守っている。……誰だろう。大人しい感じの、榎原と同じか蒔田くらいの年齢の女性だ。顎らへんで切り揃えたボブカットがよく似合っている。
一見すると『家族』そのものだ。――いや。
(家族なのかもしれない……?)
赤ちゃんの顔は見えない、でも肌が白くて……
『だから肌白いんすかね』蒔田は、後輩の道林もああ言うくらいの、美白っぷりだ。
突然、赤ちゃんが泣きだした。おおよしよし、とあやしながら蒔田は赤子を肩に引っ掛けるように抱き、背中をさすり続ける。見たこともない、蒔田の姿。
女性の手が蒔田の手に重なる。と思ったら、同じように赤ちゃんの背をさする。
そして二人は歩き始める。
彼女は、二人が消えていくのを、呆然と見送っていた。
* * *
頭のなかがぐるぐる渦のように渦巻いて、考えがまとまらない。
(いつか蒔田さんの言っていた、『真咲』さん……?)
あの女性が? ……いや。あんな小さい子を抱えて東京に来る理由が普通あるだろうか。地元は石川のはずだ。蒔田と古いつき合いならば。だったら、
(蒔田さんの……?)
思えば、自分は蒔田のなにを知っているのだろう。出身地すら知らなかったのだ。年齢は。出身校は。身長、体重、誕生日……そんな基本的なことですら、知らない。
それでどうして恋に落ちることができるのだろう、ひとは。
実は子どもが居る、なんてこともありえるかもしれない。可能性は否定できない。だって、会社で見せている顔がすべてではないのだから。外での蒔田の顔を、知らない。こんなことを考えていると、蒔田が、知っても。
『おまえは、悪くない』あんな風に言ってくれるだろうか。
「馬鹿馬鹿しい……」
コンロの火を消す。肉じゃがは沸騰して泡立っていた。煮過ぎだ。
考え、なさすぎだ。
(考えもなしに行動するから、こんなことになるんだ……)
二十年以上も生きていれば、自分の悪いところくらい分かってくる。学生の頃よく先生に注意された。『もっと考えてものを言いなさい』と。
目を細めて微笑する蒔田を見たくらいで動揺していては、恋なんかできないじゃないか、いや、資格がないのかもしれない、そもそも。
砂を噛むような思いと共に、彼女は、肉じゃがを入れる器を用意した。
彼女は、気づいていない。
どうして蒔田が赤子を抱いて微笑むくらいで動揺しているのか。理由は。
生後間もなくして捨てられたその生い立ちにも関係している。つまり、赤子は無条件に可愛がるべきものという考え方が彼女には浸透しておらず、ゆえに赤子は未知なる怖い生き物なのだ。
彼女は、未知なる怖い生き物だったゆえに母親に捨てられた。一人親である母を困らせ、育児放棄にいたらしめた。養父である母の兄の人生も狂わせた。
こころのどこかで、自分の存在を否定する気持ちこそが、赤子への抵抗感へと繋がっている。
ともあれ、彼女は、あの赤子が蒔田の隠し子かもしれない、という思考に至り、そしてそれ以上を考えないようにして過ごすことに決めたのだった。
*
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