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序章

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「温泉付きの家を中古で買った?」

 スピーカーモードにしたスマートフォンから聞こえた母の浮かれた声に、私はマウスを動かす手を止め、そう聞き返した。
『そうよ~。早期退職の希望者を募ってたから手をあげたら、思ったよりたくさん退職金もらえたから、一括で買っちゃった』
 弾んだ声。語尾にピンクのハートでもついているんじゃないかという軽さで告げられた内容に、私の手には自然と力が篭る。
「待って、買っちゃったって……もう、契約したの?」
『だって、他の希望者の人も居るから急いで決めて欲しいって言われたんだもの。前の人は別荘として使ってたんですって』
「契約書」
 私は低い声でそれだけ返す。
『契約書?』
「契約書送って! メールで! 確認するから!」
『何怒ってるの? 心配しなくても、お友達の紹介だから大丈夫よ。とにかく、来月には引っ越すから、仕事が落ち着いたら朝陽も遊びにいらっしゃい』
「待って、母さん!」

 静止の声は届かない。
 言いたいことだけを言って、通話は切れてしまった。続いてメッセージが届いたことを知らせる軽やかな電子音。
 開くとそこには、買ったという家の所在地だけが記されていた。

「『雲仙うんぜん』……?』
 見たことのない地名に、私は慌てて目の前のノートパソコンからウェブブラウザを立ち上げ検索画面を開く。
 検索結果の一番上、市の公式サイトには、雄大な山々の写真がどん、と広がっていた。
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