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橘葵
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心臓がドクリと跳ねた。
「――うっわ!?」
『聞こえていますよ。君の声』
鼓膜にねっとりと張り付く声を振り払うように全身に鳥肌が立つ。
慌てて窓から離れようと立ち上がれば、勢い余って椅子に足を取られ後ろ向きに倒れた。
急なことに受け身も取れず、盛大に後頭部と背中を床に打ち付け呻く。
特に後頭部へのダメージが大きく、視界が白くなり星が飛ぶ。
反射的に身体をくの字に曲げ、後頭部を押さえながらひたすら痛みが引いていくまで身をよじることしかできない。
数分間、ダンゴムシのように丸まっていたが、ようやく身動きがとれるぐらいまで痛みが引いてきたので、まだ少しクラクラする頭をさすりながらゆっくりと起き上がった。
静まり返った室内。
いつもと変わらない光景の中に、月明かりに照らされうっすらと闇夜に浮き上がる紙コップが机の上に転がっている。
『おばけ団地』
ふと、そんな言葉が蘇る。
「お前、おばけ団地に住んでんだろ」
小学校の転校初日、初対面だった尾崎翔が放った言葉に、新しい環境に緊張していた隼人はさらに固まることになった。
「母ちゃんが言ってたぞ。あそこはおばけ団地だって」
よく知らない男の子。
薄暗い団地。
父のいない部屋。
集中する無数の視線。
全ての不安が一気に襲ってきて、翔の言葉も理解できていないうちに涙が溢れた。
それを見て慌てた翔が懸命に謝ったのをきっかけによく喋るようになり、今日まで友人関係を続けている。
「……」
悩んだ末、意を決してゆっくりと近づく。
まるで目の前に猛獣がいるような緊張感が走る。
夏の蒸し暑さと相まって、じんわりと汗が浮かぶ。
おばけなんていない。
そんな非科学的なものが存在するわけがない。
生唾を飲み込み、紙コップを持ち上げた。
何の変哲もない紙コップに指が当たってカサリと音を立てた。
ドクドクと心臓が脈打っている。
「も、もしもし」
情けない声音だが何とか声を絞り出し紙コップの中に音を落とす。
荒くなる息を整え、紙コップを耳に当てた。
「……もしもし?」
くぐもった、それでも美しい声が鼓膜に届く。
思わず紙コップを握りつぶしそうになるのをどうにか耐え、耳を澄ます。
「だ、大丈夫? 上からすごい音がしたけど……」
この先どうするのかをまったく考えておらずただ硬直していた隼人の耳に、糸電話の相手は心配そうに言葉を続けた。
「ごめんね、急に話しかけてびっくりさせちゃったよね。怪我してない?」
冬の夜の空気のような透明感のある声の中に心配の色が滲む。
「だ、大丈夫、です。……ちょっと驚いて転んだだけで、全然、怪我とかはしてない……です」
本当に隼人のことを心配していると感じる声音と言葉に、今まで感じていた恐怖も吹き飛びどもりながらも必死に返答する。
「でも痛かったでしょ。本当に大きな音がしたんだから」
「痛、いは痛かったですけど、でも、大丈夫です。今はもう、本当に平気なんで」
「そう、よかった」
糸電話の相手は安心したように息を吐く。
もしかしたら安堵でほほ笑んだかもしれない。
「僕の方こそすみません。急に糸電話なんか降ってきたら驚きますよね。下の階のこととか全く考えてなくって」
「ううん。確かに最初はびっくりしたけど、好奇心の方が勝っちゃった。昔遊んだなーって懐かしくなってね、気が付いたら手に取ってたの。糸電話の向こうはどんな人なんだろうなーって、小さい子なのかなーって思ったんだけど、違ったみたいだね」
「すいません、どこにでもいる男子高校生です」
「どこにでもいる男子高校生は糸電話なんて作らないよ。面白いね」
コロコロと控えめな笑い声。
つられて隼人の頬も緩む。
いつの間にか緊張感も和らぎ、自然と会話が繋がっている。
「僕、村瀬隼人って言います。……あなたは?」
「私は橘葵。敬語じゃなくても大丈夫だよ。私の方が年下みたいだし。中学3年生なんだ。来年から憧れの高校生なの。隼人……くんが先輩なんだし、本当は私が敬語じゃないとおかしいんだよね」
「いや、そこは気にしなくて大丈夫です。橘……」
「葵でいいよ」
「葵さん」
糸電話の相手は下の階に住む橘葵という少女らしい。
年下で中学生の少女相手に敬語もおかしな話だが、なぜだがこの方が正しい気がした。
「さんだって。なんかくすぐったい」
「葵さんは敬語じゃなくても大丈夫ですよ。学校じゃないし、僕は何となくこの方がしっくりくるんで」
「そうなの? 隼人くんがいいならいいけど。じゃあ、お言葉に甘えて私はこのままの話し方にするね。えへへ、なんだか後輩ができたみたいで嬉しい」
年相応の可愛らしい笑い方。
初めて話しかけられた時どうしてあんなに恐怖心を煽られたのか、今となっては不思議に感じた。
ふと壁掛け時計を見ると、もう少しで日付を跨ぐところだった。
夏休み中とはいえ、中学生が起きているには遅すぎる気がする。
自分の時がどうだったか考えてみたが、よく思い出せない。
まぁでも、流石に真夜中まで起きてはいなかっただろう。
高校受験の時でさえ、絶対に徹夜はするなと母に言い含められていた。
夜勤をしているくせに偉そうにするなと反発したら、こっちは仕事でやっているんだとプロレス技で反撃を食らった記憶が蘇る。
葵は中学3年生だと言っていたし、もしかしたら隼人と同様に受験勉強に励んでいたのかもしれない。
だとしたら余計なことをしてしまったと反省する。
「もしかして、受験勉強中でしたか? だとしたらすみませんでした。迷惑でしたよね」
隼人の言葉に、慌てた様子で葵が返す。
「そんなことないよ! 全然迷惑だなんて思ってない。むしろ……んー、そうだな、そう、いい気分転換になった。ずっとひとりでいるといろいろ考えちゃうから」
「そうですか。それならよかったです。でも、流石にお互いそろそろ寝た方がいいですよね。勉強も夜遅くまでやると効率悪いですし」
「そ、そうだね。そうだよね」
隼人の言葉に、葵も納得したようだ。
しきりに頷いている姿が想像できる。
「それじゃあ……あの――」
「また、お話ししてくれる?」
食い気味に葵が言葉を引き継ぐ。
自分が言おうとした言葉が相手から発せられたことに少々面喰いながらも、隼人は微笑み頷く。
「もちろんです。僕もそう言おうと思ってました」
「嬉しい。じゃあ、約束ね」
「はい。それじゃあ、また」
「うん」
それきり糸電話の向こうから声が返ってくることはなく、紙コップの中を静寂が満たす。
それを確認し、赤い糸を手繰り寄せ糸電話の片側を回収し、窓を閉めた。
ふぅ、と息を吐く。
まるで夢から覚めた後のような開放感と倦怠感が一気に押し寄せてきて、たまらず机に突っ伏した。
僕は一体何をやっていたんだ。
見ず知らずの下層の住人と何の前触れもなく糸電話で会話をした。
しかも年下の女子中学生。
これは犯罪になるのだろうかと、不安と罪悪感が駆け巡る。
いや、同意の上だし大丈夫だろう。
葵だって隼人との会話を楽しんでいたようだし、次の約束をとりつけ喜んでもいた。
うん、大丈夫。
問題ない。
そう自分に言い聞かせ、ようやく顔を上げると机に転がる糸電話が目にはいった。
片方は自分が使っていたもの。
もう片方は葵が使っていたもの。
この紙コップに葵が触れ、口を寄せて話しかけていた。
「……っ」
顔も知らない少女の姿や行動を想像し、一気に顔に熱が集まる。
たまらずベッドに潜り込み、タオルケットで身体を包み込んだ。
いけないことだと感じつつも、隼人の思う橘葵の姿が脳の中で形成されていくのを止めることはできなかった。
長く艶やかな黒髪。白く透き通った肌に、丸い大きな目。唇は小さく、頬は桜色に染まっている。
小柄な美少女があの透明感のある声で、糸電話に言葉を吹き込む。
トクトクと心臓が全身に血液を送る。
熱い。
いや、これは夏のせいだ。
今日は特に暑かったから。
残暑。
そう、残暑だ。
残暑ってなんだ。
よくわからない言い訳に自分でツッコむ。
今頃葵はどうしているだろう。
我に返って自分の軽率な行動を反省しているかもしれない。
気が変わって、もう糸電話に手をのばしてくれなかったら……。
いや、これ以上考えるのは止めよう。
強制的に思考を中断し、寝る体勢にはいる。
少し話しただけの相手のことを考えるだけ無駄だ。
だって、何も知らないのだから。
この先にチャンスがあるのなら、その時に知っていけばいい。
それでいい。
そう結論付け、目を閉じる。
未だ鼓動は速く、忙しなく脈打っている。
これはなかなか寝付けないぞ。
隼人の予想通り、この日は長い夜になった。
「おそよう」
「……おかえり」
「ただいま」
寝起きで目を細めながらのろのろとリビングに入ると、ダイニングテーブルで昨日買った昼食用の弁当を我が物顔で咀嚼する母と居合わせた。
時刻は午前10時過ぎ。
昨晩なかなか寝付けなかったせいで随分と寝坊をしてしまったらしい。
スマホのアラームは7時に設定していたはずなのだが、無意識のうちに止めてしまったようだ。
幸いなことに夏休みなので寝坊しても困ることはないのだが、普段こんな時間まで寝ていることが滅多にないため、なんだか少し恥ずかしい。
母にその事実がバレてしまったことも、その感情を助長させた。
ピンクのポロシャツにベージュのパンツ姿を見るに、夜勤明けで帰ってきたばかりなのだろう。
元々薄化粧だがその化粧もすっかり落ちており、顔には疲労が滲んでいる。
ひたすらに弁当を食べ続ける目には光はなく、ただひたすらに業務で消費したカロリーを取り戻そうとする本能だけが感じられた。
「風呂いれる?」
「いや、シャワー浴びて寝る。ありがとう」
菓子パンと牛乳を用意して母の向いに座る。
貴重なカロリー源の弁当がなくなってしまったのは悲しいが、母が働いて稼いだお金で買った弁当だしそんなことで腹を立てるほど隼人も子供ではなかった。
「遅くまで起きてたの?」
びくりと肩が揺れる。
一気に昨日の出来事がフラッシュバックする。
薄暗い部屋、妙に明るい月明り、糸電話、葵の声。
動揺したせいで気管に牛乳が入って咽返る。
「なに、どうしたの。大丈夫?」
不可解なものを見るように顔を顰める母に首を振ってなんでもないと伝える。
「受験勉強は大事だと思うけど、睡眠時間を削ってまで頑張らなくてもいいんじゃない。体調崩したら元も子もないからね」
「え? あぁ……うん」
予想外の言葉に返事が曖昧になってしまった。
いや、よく考えれば予想外でもなんでもない。
大学受験を控えている息子が寝坊をしたら、夜遅くまで勉強をして寝不足になっていると考えるのは至極真っ当な思考だろう。
まさか、年甲斐もなく糸電話を作って見ず知らずの相手と会話をしていたなんて、名探偵だって思いつかない。
「夏期講習にだって行ってるんだし、頭だってそんなに悪くないんだから今から根詰めることないって。もう少し気楽にやりな」
「……そうだね。そうする」
「うん」
それだけ言い、再び目の前の食事に集中する母。
そんな母を横目に、菓子パンを齧る。
朝食でも昼食でもない変な時間の食事になってしまった。
弁当もないし、後でどこかに食べにでも行こうか。
ベランダに目を向けると昨日と同じ晴天が広がっており、今日も暑くなることを予感させた。
食事、シャワーを終え、寝間着に着替えた母はさっさと自室に姿を消した。
いつも通りのパターンなら、このまま夕飯の支度の時間まで起きてこないだろう。
隼人も身支度を整えて昨日集中できなかった分を取り戻そうと自室に戻り勉強と向き合おうとしたが、頻繁に手が止まってしまってなかなか進まない。
教科を変えてみても結果は同じで、無意味にテキストのページを捲るだけ。
どうしたものかと髪をくしゃりと握ったところで、机の隅に置いた糸電話が目に入った。
まるで夢のような出来事。
もう2度と繋がることがなくても納得できてしまうような、あの現実味のない時間を思い出す。
『私は橘葵』
『全然迷惑だなんて思ってない』
『じゃあ、約束ね』
まるでイヤホンを付けているように、鼓膜の奥で何度もあの声と言葉がリピートされる。
ふと、ネガフィルムという単語が思い浮かぶ。
何個も連なる小さなコマの中に焼き付く景色はぼんやりとしていても確かにそれを写し込んでいて、それが存在していることを証明してくれる。
現実味はないのに鮮明に、衝撃的に、隼人の脳と心に強烈に焼き付いた昨夜の出来事は、あの小さな世界に似ているような気がした。
「……」
暫し思案した後、隼人は勉強を打ち切ることにした。
こんな状態で無理やり勉強をしても身にならないと判断した結果だった。
何か食べに行こう。
母の睡眠の妨げになるようなことはどうせできないのだし、気を遣わなくていい分外出した方が楽に違いない。
黒のチェストバッグに財布とスマホを入れ、家を出る。
玄関に立て掛けてある折り畳み自転車も忘れない。
公共交通機関を使う程でもない外出時の強い味方。
お気に入りの相棒だ。
目指すは安くてメニューも豊富なファミレス。
ひとり飯に何の抵抗もない隼人がよく利用する行きつけの店だ。
夏の熱気が絹のように肌を撫でる。
蝉の声が雨のように降りしきる中、隼人はペダルを漕ぎだした。
「――うっわ!?」
『聞こえていますよ。君の声』
鼓膜にねっとりと張り付く声を振り払うように全身に鳥肌が立つ。
慌てて窓から離れようと立ち上がれば、勢い余って椅子に足を取られ後ろ向きに倒れた。
急なことに受け身も取れず、盛大に後頭部と背中を床に打ち付け呻く。
特に後頭部へのダメージが大きく、視界が白くなり星が飛ぶ。
反射的に身体をくの字に曲げ、後頭部を押さえながらひたすら痛みが引いていくまで身をよじることしかできない。
数分間、ダンゴムシのように丸まっていたが、ようやく身動きがとれるぐらいまで痛みが引いてきたので、まだ少しクラクラする頭をさすりながらゆっくりと起き上がった。
静まり返った室内。
いつもと変わらない光景の中に、月明かりに照らされうっすらと闇夜に浮き上がる紙コップが机の上に転がっている。
『おばけ団地』
ふと、そんな言葉が蘇る。
「お前、おばけ団地に住んでんだろ」
小学校の転校初日、初対面だった尾崎翔が放った言葉に、新しい環境に緊張していた隼人はさらに固まることになった。
「母ちゃんが言ってたぞ。あそこはおばけ団地だって」
よく知らない男の子。
薄暗い団地。
父のいない部屋。
集中する無数の視線。
全ての不安が一気に襲ってきて、翔の言葉も理解できていないうちに涙が溢れた。
それを見て慌てた翔が懸命に謝ったのをきっかけによく喋るようになり、今日まで友人関係を続けている。
「……」
悩んだ末、意を決してゆっくりと近づく。
まるで目の前に猛獣がいるような緊張感が走る。
夏の蒸し暑さと相まって、じんわりと汗が浮かぶ。
おばけなんていない。
そんな非科学的なものが存在するわけがない。
生唾を飲み込み、紙コップを持ち上げた。
何の変哲もない紙コップに指が当たってカサリと音を立てた。
ドクドクと心臓が脈打っている。
「も、もしもし」
情けない声音だが何とか声を絞り出し紙コップの中に音を落とす。
荒くなる息を整え、紙コップを耳に当てた。
「……もしもし?」
くぐもった、それでも美しい声が鼓膜に届く。
思わず紙コップを握りつぶしそうになるのをどうにか耐え、耳を澄ます。
「だ、大丈夫? 上からすごい音がしたけど……」
この先どうするのかをまったく考えておらずただ硬直していた隼人の耳に、糸電話の相手は心配そうに言葉を続けた。
「ごめんね、急に話しかけてびっくりさせちゃったよね。怪我してない?」
冬の夜の空気のような透明感のある声の中に心配の色が滲む。
「だ、大丈夫、です。……ちょっと驚いて転んだだけで、全然、怪我とかはしてない……です」
本当に隼人のことを心配していると感じる声音と言葉に、今まで感じていた恐怖も吹き飛びどもりながらも必死に返答する。
「でも痛かったでしょ。本当に大きな音がしたんだから」
「痛、いは痛かったですけど、でも、大丈夫です。今はもう、本当に平気なんで」
「そう、よかった」
糸電話の相手は安心したように息を吐く。
もしかしたら安堵でほほ笑んだかもしれない。
「僕の方こそすみません。急に糸電話なんか降ってきたら驚きますよね。下の階のこととか全く考えてなくって」
「ううん。確かに最初はびっくりしたけど、好奇心の方が勝っちゃった。昔遊んだなーって懐かしくなってね、気が付いたら手に取ってたの。糸電話の向こうはどんな人なんだろうなーって、小さい子なのかなーって思ったんだけど、違ったみたいだね」
「すいません、どこにでもいる男子高校生です」
「どこにでもいる男子高校生は糸電話なんて作らないよ。面白いね」
コロコロと控えめな笑い声。
つられて隼人の頬も緩む。
いつの間にか緊張感も和らぎ、自然と会話が繋がっている。
「僕、村瀬隼人って言います。……あなたは?」
「私は橘葵。敬語じゃなくても大丈夫だよ。私の方が年下みたいだし。中学3年生なんだ。来年から憧れの高校生なの。隼人……くんが先輩なんだし、本当は私が敬語じゃないとおかしいんだよね」
「いや、そこは気にしなくて大丈夫です。橘……」
「葵でいいよ」
「葵さん」
糸電話の相手は下の階に住む橘葵という少女らしい。
年下で中学生の少女相手に敬語もおかしな話だが、なぜだがこの方が正しい気がした。
「さんだって。なんかくすぐったい」
「葵さんは敬語じゃなくても大丈夫ですよ。学校じゃないし、僕は何となくこの方がしっくりくるんで」
「そうなの? 隼人くんがいいならいいけど。じゃあ、お言葉に甘えて私はこのままの話し方にするね。えへへ、なんだか後輩ができたみたいで嬉しい」
年相応の可愛らしい笑い方。
初めて話しかけられた時どうしてあんなに恐怖心を煽られたのか、今となっては不思議に感じた。
ふと壁掛け時計を見ると、もう少しで日付を跨ぐところだった。
夏休み中とはいえ、中学生が起きているには遅すぎる気がする。
自分の時がどうだったか考えてみたが、よく思い出せない。
まぁでも、流石に真夜中まで起きてはいなかっただろう。
高校受験の時でさえ、絶対に徹夜はするなと母に言い含められていた。
夜勤をしているくせに偉そうにするなと反発したら、こっちは仕事でやっているんだとプロレス技で反撃を食らった記憶が蘇る。
葵は中学3年生だと言っていたし、もしかしたら隼人と同様に受験勉強に励んでいたのかもしれない。
だとしたら余計なことをしてしまったと反省する。
「もしかして、受験勉強中でしたか? だとしたらすみませんでした。迷惑でしたよね」
隼人の言葉に、慌てた様子で葵が返す。
「そんなことないよ! 全然迷惑だなんて思ってない。むしろ……んー、そうだな、そう、いい気分転換になった。ずっとひとりでいるといろいろ考えちゃうから」
「そうですか。それならよかったです。でも、流石にお互いそろそろ寝た方がいいですよね。勉強も夜遅くまでやると効率悪いですし」
「そ、そうだね。そうだよね」
隼人の言葉に、葵も納得したようだ。
しきりに頷いている姿が想像できる。
「それじゃあ……あの――」
「また、お話ししてくれる?」
食い気味に葵が言葉を引き継ぐ。
自分が言おうとした言葉が相手から発せられたことに少々面喰いながらも、隼人は微笑み頷く。
「もちろんです。僕もそう言おうと思ってました」
「嬉しい。じゃあ、約束ね」
「はい。それじゃあ、また」
「うん」
それきり糸電話の向こうから声が返ってくることはなく、紙コップの中を静寂が満たす。
それを確認し、赤い糸を手繰り寄せ糸電話の片側を回収し、窓を閉めた。
ふぅ、と息を吐く。
まるで夢から覚めた後のような開放感と倦怠感が一気に押し寄せてきて、たまらず机に突っ伏した。
僕は一体何をやっていたんだ。
見ず知らずの下層の住人と何の前触れもなく糸電話で会話をした。
しかも年下の女子中学生。
これは犯罪になるのだろうかと、不安と罪悪感が駆け巡る。
いや、同意の上だし大丈夫だろう。
葵だって隼人との会話を楽しんでいたようだし、次の約束をとりつけ喜んでもいた。
うん、大丈夫。
問題ない。
そう自分に言い聞かせ、ようやく顔を上げると机に転がる糸電話が目にはいった。
片方は自分が使っていたもの。
もう片方は葵が使っていたもの。
この紙コップに葵が触れ、口を寄せて話しかけていた。
「……っ」
顔も知らない少女の姿や行動を想像し、一気に顔に熱が集まる。
たまらずベッドに潜り込み、タオルケットで身体を包み込んだ。
いけないことだと感じつつも、隼人の思う橘葵の姿が脳の中で形成されていくのを止めることはできなかった。
長く艶やかな黒髪。白く透き通った肌に、丸い大きな目。唇は小さく、頬は桜色に染まっている。
小柄な美少女があの透明感のある声で、糸電話に言葉を吹き込む。
トクトクと心臓が全身に血液を送る。
熱い。
いや、これは夏のせいだ。
今日は特に暑かったから。
残暑。
そう、残暑だ。
残暑ってなんだ。
よくわからない言い訳に自分でツッコむ。
今頃葵はどうしているだろう。
我に返って自分の軽率な行動を反省しているかもしれない。
気が変わって、もう糸電話に手をのばしてくれなかったら……。
いや、これ以上考えるのは止めよう。
強制的に思考を中断し、寝る体勢にはいる。
少し話しただけの相手のことを考えるだけ無駄だ。
だって、何も知らないのだから。
この先にチャンスがあるのなら、その時に知っていけばいい。
それでいい。
そう結論付け、目を閉じる。
未だ鼓動は速く、忙しなく脈打っている。
これはなかなか寝付けないぞ。
隼人の予想通り、この日は長い夜になった。
「おそよう」
「……おかえり」
「ただいま」
寝起きで目を細めながらのろのろとリビングに入ると、ダイニングテーブルで昨日買った昼食用の弁当を我が物顔で咀嚼する母と居合わせた。
時刻は午前10時過ぎ。
昨晩なかなか寝付けなかったせいで随分と寝坊をしてしまったらしい。
スマホのアラームは7時に設定していたはずなのだが、無意識のうちに止めてしまったようだ。
幸いなことに夏休みなので寝坊しても困ることはないのだが、普段こんな時間まで寝ていることが滅多にないため、なんだか少し恥ずかしい。
母にその事実がバレてしまったことも、その感情を助長させた。
ピンクのポロシャツにベージュのパンツ姿を見るに、夜勤明けで帰ってきたばかりなのだろう。
元々薄化粧だがその化粧もすっかり落ちており、顔には疲労が滲んでいる。
ひたすらに弁当を食べ続ける目には光はなく、ただひたすらに業務で消費したカロリーを取り戻そうとする本能だけが感じられた。
「風呂いれる?」
「いや、シャワー浴びて寝る。ありがとう」
菓子パンと牛乳を用意して母の向いに座る。
貴重なカロリー源の弁当がなくなってしまったのは悲しいが、母が働いて稼いだお金で買った弁当だしそんなことで腹を立てるほど隼人も子供ではなかった。
「遅くまで起きてたの?」
びくりと肩が揺れる。
一気に昨日の出来事がフラッシュバックする。
薄暗い部屋、妙に明るい月明り、糸電話、葵の声。
動揺したせいで気管に牛乳が入って咽返る。
「なに、どうしたの。大丈夫?」
不可解なものを見るように顔を顰める母に首を振ってなんでもないと伝える。
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「え? あぁ……うん」
予想外の言葉に返事が曖昧になってしまった。
いや、よく考えれば予想外でもなんでもない。
大学受験を控えている息子が寝坊をしたら、夜遅くまで勉強をして寝不足になっていると考えるのは至極真っ当な思考だろう。
まさか、年甲斐もなく糸電話を作って見ず知らずの相手と会話をしていたなんて、名探偵だって思いつかない。
「夏期講習にだって行ってるんだし、頭だってそんなに悪くないんだから今から根詰めることないって。もう少し気楽にやりな」
「……そうだね。そうする」
「うん」
それだけ言い、再び目の前の食事に集中する母。
そんな母を横目に、菓子パンを齧る。
朝食でも昼食でもない変な時間の食事になってしまった。
弁当もないし、後でどこかに食べにでも行こうか。
ベランダに目を向けると昨日と同じ晴天が広がっており、今日も暑くなることを予感させた。
食事、シャワーを終え、寝間着に着替えた母はさっさと自室に姿を消した。
いつも通りのパターンなら、このまま夕飯の支度の時間まで起きてこないだろう。
隼人も身支度を整えて昨日集中できなかった分を取り戻そうと自室に戻り勉強と向き合おうとしたが、頻繁に手が止まってしまってなかなか進まない。
教科を変えてみても結果は同じで、無意味にテキストのページを捲るだけ。
どうしたものかと髪をくしゃりと握ったところで、机の隅に置いた糸電話が目に入った。
まるで夢のような出来事。
もう2度と繋がることがなくても納得できてしまうような、あの現実味のない時間を思い出す。
『私は橘葵』
『全然迷惑だなんて思ってない』
『じゃあ、約束ね』
まるでイヤホンを付けているように、鼓膜の奥で何度もあの声と言葉がリピートされる。
ふと、ネガフィルムという単語が思い浮かぶ。
何個も連なる小さなコマの中に焼き付く景色はぼんやりとしていても確かにそれを写し込んでいて、それが存在していることを証明してくれる。
現実味はないのに鮮明に、衝撃的に、隼人の脳と心に強烈に焼き付いた昨夜の出来事は、あの小さな世界に似ているような気がした。
「……」
暫し思案した後、隼人は勉強を打ち切ることにした。
こんな状態で無理やり勉強をしても身にならないと判断した結果だった。
何か食べに行こう。
母の睡眠の妨げになるようなことはどうせできないのだし、気を遣わなくていい分外出した方が楽に違いない。
黒のチェストバッグに財布とスマホを入れ、家を出る。
玄関に立て掛けてある折り畳み自転車も忘れない。
公共交通機関を使う程でもない外出時の強い味方。
お気に入りの相棒だ。
目指すは安くてメニューも豊富なファミレス。
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篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
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