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夜の話し相手
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ファミレスで昼食と摂った後、腹ごなしに自転車を走らせる。
夏特有の鮮やかな世界がキラキラと輝いている。
流れる景色を眺めながら風を切っていると不思議と心が安らいだ。
なんとなくこのまま帰る気分にもならずどうしたものかと考えていると、ある場所が思い浮かんだ。
方向を変え、ペダルを漕ぐ。
辿り着いたのは1軒の写真館だった。
大正レトロを思わせるレンガ造りの小さな写真館。
ブリキでできた看板には立体的な文字で『永田写真館』と縦書きで記されている。
扉横にある出窓は白いペンキで塗られた枠組みで、くすみのあるレンガの壁に明るいアクセントを添えていた。
ガラスの向こうには写真館で撮った写真が飾られていた。
そのほとんどが家族写真や子供の写真で、明るい笑顔からすました顔まで様々だ。
青銅色の扉を開けると、カランカランとベルが鳴り、来訪を知らせた。
扉を潜った瞬間、本屋と類似した匂いが鼻孔に届く。
写真用紙やインクの混ざった、なんだか香ばしい匂いだ。
建物自体の香りもあるのか、どことなく重厚感がある。
ダークブラウンのフローリングに赤い絨毯。
待っている間のスペースにはベロア生地のソファにクッション、ガラステーブルと雑誌や漫画が並べられた小さな本棚。
背の高いランプはスズランのようで、かさの部分は落ち着いた色合いのステンドグラスでできていた。
店の内装は全体的にシックでレトロ。
平成生まれの隼人はその時代を経験していないはずなのに、どこか懐かしさを感じる空間。
セピア色を振りまいたような、鮮やかさとは少し離れた場所だった。
「あら、隼人くん」
ウッド調の光沢のある立派なカウンターの奥からふくよかな小柄の女性が現れ、隼人を見つけると目元に皺を寄せにっこりと笑いながら近づいてきた。
「道子さん、こんにちわ」
「暑いのによく来たわね。今日はお手伝いの日だったかしら? お父さーん、隼人君が来てるわよ」
道子はさっと隼人の様子を確認し、店の奥へと声をかける。
「あの、これよかったらみなさんで」
来る途中で買ったファミリーパックのスティックアイスの箱を差し出せば、道子は嬉しそうに受け取った。
「あら、お気遣いありがとう。うれしいわ。よかったら隼人君も一緒に食べましょう。お茶くらい用意するから」
「いえ、僕は――」
「聡、加奈ちゃん、隼人君がアイスの差し入れくれたわよ。お父さーん。ほら、入って入って」
撮影もあるだろうし、少し顔を出すくらいのつもりだったのだが、すっかり招かれてしまった。
パタパタと奥に向かいながら道子に手招きされ、隼人は遠慮がちに店の奥へと入っていった。
ここは隼人がバイト、というより手伝いをさせてもらっている写真館だった。
父、母、息子、息子の嫁、4人家族で運営している地域に根付いた場所。
隼人が初めて永田写真館に訪れたのは、中学3年生の時。
高校受験で提出する履歴書に使う証明写真を撮りに来た時だった。
その時に出窓に飾られていた写真に心を奪われた。
それは、朝焼けに染まる海の写真。
どこにでもあるありふれた被写体のそれから、不思議と目が離せなかった。
瑞々しい躍動感さへ感じる写真。
写真を触ればあの打ち寄せる波を撫でることができるのではないかと錯覚してしまうような美しさがそこにはあった。
正直、写真にはまったく興味がなかった。
スマホのカメラ機能だってまともに使ったことがない。
それなのに、気が付けば館長の顔を見るなり
『ここで手伝いをさせてください』
どこかで見たアニメーション映画のセリフに似た言葉を放っていた。
そんな隼人に館長は『手伝うのは勝手だが、給料は期待するなよ』とそれだけ言い残し、あっさりと採用してくれたのだ。
手伝い始めて知ったのだが、あの海の写真は今時珍しい手焼き写真とのことだった。
何かの授業だったか、映画だったか思い出せないが、暗い部屋の中で1枚ずつ手作業で焼き付けをする場面が印象的なプリント方法。
優しい色合い、滑らかなグラデーション、絵画のような温かみのある手焼き写真は、プリント印刷された鮮明な写真にはないノスタルジックな雰囲気を醸し出す。
デジタル写真が直線的なイメージなら、手焼き写真は曲線のイメージがぴったりだ。
この写真館では希望すれば手焼き写真で写真を現像してもらえる。
カラーもモノクロも対応しているが、鮮明で綺麗で早いデジタルプリンを選ぶ人がほとんどだ。
手間がかかる分料金設定も高めなので、余計に選択肢から外されてしまう。
写真館に飾っているほとんどの写真もデジタルのもので、手焼き写真はおそらく館長が趣味で撮影したものだろう風景写真の何枚かが額に入れられ壁に掛けられているだけ。
隼人からすれば空間の空気ごと風景を切り取ったような素晴らしい写真なのだが、写真館にくる客のほとんどはそれに気づかず素通りしていく。
こんなに綺麗なのに。
写真館で手伝いを始めてもカメラや撮影技術にさほど興味は湧かなかった。
上手に写真が撮れれば便利かな程度。
それでも隼人が手伝いをやめなかったのは、写真自体に魅了されたから。
あの景色を見てカメラに収め、自らの手で写真に落とし込む館長への憧れだった。
カウンターを過ぎ、事務所の前を通る。
息子夫婦の聡さんと加奈さんが隼人に気がつき手を振ってくれた。
店の奥にはこじんまりとした写真スタジオと撮影に使う衣装がぎっしりと並んだ空間が続いている。
ここにもガラステーブルとソファが置かれており、主に子供の撮影を眺めながら待っている親用に使われていた。
「お父さん、隼人くんが来てるってば」
スタジオで撮影機材の手入れをしていた館長に道子が声をかける。
長身の中年男性が不機嫌そうな顔で振り返る。
オールバックに整えられている白髪交じりの髪。
白いワイシャツに茶色いベストにロープタイ。
細かいストライプのパンツから覗く革靴はピカピカだ。
「……何かあったか」
ぶっきらぼうな言い方で、開口一番に言う。
一見すると表情と声音で怒っているのかと勘違いしてしまうが、これが館長の通常運転だっだ。
接客業なのに大丈夫なのかと思ったこともあったが、撮影の時は別人かと思うような柔らかい表情と優しい声で、そのギャップに笑いを堪えていた時期が確かにあった。
「この時期は不思議なことのひとつやふたつ起こるもんだ。夏はみんなバカになる。暑さのせいにでもして受け入れろ」
「えっ、なんで……」
「心ここにあらずって顔だぞ。グズグズ悩むだけ無駄だ。時には吹っ切る勇気も必要だ」
それだけ言って、館長は再び撮影機材の手入れに戻る。
「隼人くん、はい。麦茶とアイス」
見計らったかのようなタイミングで道子がグラスに注いだ麦茶とアイスをお盆に乗せてやってきた。
「どうかした? お父さんに変なことの言われたりしてないわよね?」
「いえ、大丈夫です。むしろいいアドバイスを貰いました。今日ここに来てよかったです」
お茶のお礼を伝えながら、隼人はすっきりした顔で笑った。
そうか、受け入れればいいのか。
あの出来事は確かに起こっていて、葵が糸電話の片方を手に取った時から彼女と隼人の縁は繋がったのだ。
それでいいじゃないか。
頭のどこかであれはよくないことだと否定し続ける自分もいたが、館長の言葉で吹っ切れた。
今夜も糸電話を垂らそう。
そして、葵と話すのだ。
あの夢のような出来事を現実にするために。
午後10時。
隼人は昨日と同様に窓から糸電話を垂らした。
時間の約束はしていなかったが、葵は気づいてくれるだろうか。
そもそもまた話してくれるのだろうか。
不安と期待でドキドキする。
暫しそのまま待っていれば、下から引かれる感覚があった。
「……もしもし」
「もしもし、隼人くん?」
隼人の問いかけに答えるあの透明感のある声。
葵だ。
約束通り葵は糸電話で話してくれている。
表現の難しい感情が胸の中に広がる。
むずむずするような、そわそわするような、落ち着きがなくなりような感覚をどうにか胸の内に留めた。
「昨日は大丈夫でした? 遅い時間でしたけど」
「大丈夫だよ。あの後ドキドキしてなかなか眠れなかったけど」
恥ずかしそうに葵が笑う。
葵も自分と同じように眠れぬ夜を過ごしていたのかと思うと、なぜだか優越感に似た何かが沸き上がってきた。
僕だけじゃなかった。
仲間を見つけたような、そんな高揚感だ。
「隼人くんは今日何してたの? やっぱり受験勉強?」
「さっきまで勉強はしてました。昼間はご飯食べに行ったりバイト先に顔出したり、自転車で走りながら気分転換しましたよ。おかげで最近身が入らなくなってた勉強にまた少し向き合えるようになれました」
最近、受験勉強に身がはいらなくなっていたのは事実だった。
受ける大学も選び目先の目標は決めていたが、将来の夢を嬉々として話すクラスメイトを見るたびに妙な引け目を感じていた。
何となくやる気が起きない。
夏期講習で強制的に勉強に関われば気持ちに変化もあるかと思ったが、特に変わりはなく。
今日までズルズル過ごしていた。
ありがたいことに勉強はそこそこできるタイプだったので、成績がそこまで左右されないこともなく、担任にも母にも言及されることはなかった。
それに加えて葵との出会いで余計に勉強から心が離れかけたが、館長の言葉でそんな自分を少し受け入れることができた。
考え方やものの見方で現状は変わることを館長は教えてくれようとしたのかもしれないし、本当にただ思ったことを言っただけかもしれない。
それでも隼人はあの言葉をかけてもらえたことで葵へのアクションを起こす勇気を貰えたと同時に、久しぶりに参考書とノートに真剣に向き合えた。
世の中の父親はあんな感じなのだろうか。
言葉少なに背中を押してくれる。
そんなぶっきらぼうで温かみのある存在。
両親が離婚してから5年余り、隼人は1回も実父に会ってはいなかった。
母に対してだけではなく、隼人ともほとんど会話をしなかった父。
ただ仕事に行って生活費を稼いでくるだけの存在。
だから父とどこかに遊びに行った思い出も、一緒に過ごした楽しい記憶もなかった。
記憶の中の父はいつも無表情で、ロボットみたいに家の中に存在していた。
親権についても争った様子はなく、看護師をしている母の収入も安定していたため、隼人はなんの問題もなく母親側に引き取られることとなった。
そこに不満はない。
なんの思い入れもない父と過ごすより、母といる方がまだ『家族』というものを感じられた。
そこまで考えて、館長にあの父親を重ねるのは失礼かと思い至る。
館長は思いやりのある優しい人だ。
優しい人だから、写真館に飾られている写真に写っている人たちは自然な笑顔で笑っているし、出来上がった写真を見て喜んで帰るのだ。
永田家家族の人間味が滲む写真館が、隼人は好きだった。
「隼人くん」
「どうしました?」
「ごめんね」
急に紙コップ口の声が沈んだことに気が付く。
どうかしたのかと尋ねると、唐突に謝罪され困惑する。
「私ね、嘘ついてた。だからごめんね」
「嘘?」
「そう、嘘。私、本当は中学校に通ってないの。中学3年生っていうのは本当なんだけど、通信制の中学なんだ。私、身体が弱くて普通の学校に通えなくなっちゃって……。高校もこのまま通信制のところを受験するつもり。試験内容も作文と個人面談だけでね、相当な失敗がない限りは受かると思うの。だから一生懸命受験勉強してる隼人君に申し訳なくなっちゃって。私のこと心配してくれたでしょう? だから、正直に伝えなきゃなって」
「……体調、大丈夫ですか?」
「え?」
「だから、身体が弱いって、どこか具合悪かったりしませんか? それこそこんな時間まで起こしちゃってて、無理してませんか?」
「大丈夫だよ。最近は調子がいいの。今日のことも楽しみにしてたんだ。それより、嘘ついたこと怒ってない?」
「そんなことで怒りませんよ。正直に話してくれたこと、嬉しいです。それに、僕も葵さんと話すの楽しみにしてました」
「本当?」
「はい」
「嬉しい」
素直に喜ぶ葵に隼人も嬉しくなる。
「私、友達とこんな風におしゃべりするの夢だったの」
「それはよかったです。あの、これからも話してくれますか?」
「もちろん!」
葵の返答にひとつ思いついたことを提案する。
「それじゃあ、ルールを決めませんか?」
「ルール?」
「はい。会話は1時間までにしましょう。あまり無理はしないように」
「……うん、そうだね。気にかけてくれてありがとう」
それから2人はルール通り1時間、何気ない話を続けた。
葵は幼い頃に母親を病気で亡くし、今は父親と暮らす父子家庭。
父親は葵の病院代を稼ぐために夜遅くまで働き、帰りが12時を過ぎることもしばしばあるらしい。
お互い片親ということがわかり、親近感が湧く。
「今日は体調がよかったから、肉じゃがを作っておいたの」
「僕は料理は全然できなくて……。覚えなきゃとは思ってるんですけど」
「肉じゃが作れると便利だよ。カレーとかシチューとか豚汁とか色々応用できるし」
そんな会話を続けていれば、あっという間に時間が過ぎ、約束の時間になってしまった。
「もう時間ですね」
「なんか時間の流れが早くなったみたい」
「それじゃあ、また」
「うん、またね」
名残惜しいが自分から提案したルールを早々に破るわけにはいかない。
葵の身体も心配だし、ここで惰性を出してはいけないと潔く糸電話を回収した。
不思議と昨日の現実味のない感覚はなく、葵を近くに感じる。
それは葵の現状を聞いたからか、はたまた共通点があったからか、そのどちらもか。
ポジション的には夜の話し相手くらいだろうか。
でも、葵は友達と言ってくれたし……。
顔がにやける。
ベットに転がり天井を見た。
この下には確かに葵がいる。
ベットに横になって眠る少女の姿。
「ふしだらだ」
そこまで想像してはって我に返る。
これは夏のせい。
夏の暑さのせい。
流石の館長もそんなつもりで言ったんじゃないと否定してきそうだが、隼人の耳には決して届くことはない。
でも、なんだかすっきりした感覚もある。
葵は隼人を受け入れてくれたし、自分も彼女を受け入れた。
夜の話し相手でも友達でもいい。
今日、確かに葵との関係に名前がついた。
次の日の朝。
朝食の準備をしている母の背中に話しかける。
「料理、教えてほしいんだけど」
「えっ!?」
ものすごい勢いで振り向かれ、おばけでも見たような表情でこちらに視線をよこす。
隼人からすればフェイスパックをしたままの母の方がよっぽとおばけに近いような気がした。
「なに、どうしたの急に。勉強で頭おかしくなった?」
「違うよ、そんなんじゃない。大学に行ったらひとり暮らしするつもりだから、料理はできるようにならないとってずっと考えてたんだよ。今日は夜勤終わった後の休みだし丁度いいかなって。母さんがよければだけど」
「まぁ、どんな理由でも料理くらい教えてあげるけど」
「……ありがとう」
「……」
妙な間に耐えられなくなり、トースターに食パンを入れて焼く。
村瀬家の朝食はベーコンエッグと茹で野菜にトーストがお決まりなのだ。
「それで、何か作りたいものあるの?」
「え?」
「リクエスト、あるのか訊いてんの」
「あー……」
そこまで考えていなかったが、昨日の葵との会話を思い出しすんなりと口から出てくる料理名。
「肉じゃが」
夏特有の鮮やかな世界がキラキラと輝いている。
流れる景色を眺めながら風を切っていると不思議と心が安らいだ。
なんとなくこのまま帰る気分にもならずどうしたものかと考えていると、ある場所が思い浮かんだ。
方向を変え、ペダルを漕ぐ。
辿り着いたのは1軒の写真館だった。
大正レトロを思わせるレンガ造りの小さな写真館。
ブリキでできた看板には立体的な文字で『永田写真館』と縦書きで記されている。
扉横にある出窓は白いペンキで塗られた枠組みで、くすみのあるレンガの壁に明るいアクセントを添えていた。
ガラスの向こうには写真館で撮った写真が飾られていた。
そのほとんどが家族写真や子供の写真で、明るい笑顔からすました顔まで様々だ。
青銅色の扉を開けると、カランカランとベルが鳴り、来訪を知らせた。
扉を潜った瞬間、本屋と類似した匂いが鼻孔に届く。
写真用紙やインクの混ざった、なんだか香ばしい匂いだ。
建物自体の香りもあるのか、どことなく重厚感がある。
ダークブラウンのフローリングに赤い絨毯。
待っている間のスペースにはベロア生地のソファにクッション、ガラステーブルと雑誌や漫画が並べられた小さな本棚。
背の高いランプはスズランのようで、かさの部分は落ち着いた色合いのステンドグラスでできていた。
店の内装は全体的にシックでレトロ。
平成生まれの隼人はその時代を経験していないはずなのに、どこか懐かしさを感じる空間。
セピア色を振りまいたような、鮮やかさとは少し離れた場所だった。
「あら、隼人くん」
ウッド調の光沢のある立派なカウンターの奥からふくよかな小柄の女性が現れ、隼人を見つけると目元に皺を寄せにっこりと笑いながら近づいてきた。
「道子さん、こんにちわ」
「暑いのによく来たわね。今日はお手伝いの日だったかしら? お父さーん、隼人君が来てるわよ」
道子はさっと隼人の様子を確認し、店の奥へと声をかける。
「あの、これよかったらみなさんで」
来る途中で買ったファミリーパックのスティックアイスの箱を差し出せば、道子は嬉しそうに受け取った。
「あら、お気遣いありがとう。うれしいわ。よかったら隼人君も一緒に食べましょう。お茶くらい用意するから」
「いえ、僕は――」
「聡、加奈ちゃん、隼人君がアイスの差し入れくれたわよ。お父さーん。ほら、入って入って」
撮影もあるだろうし、少し顔を出すくらいのつもりだったのだが、すっかり招かれてしまった。
パタパタと奥に向かいながら道子に手招きされ、隼人は遠慮がちに店の奥へと入っていった。
ここは隼人がバイト、というより手伝いをさせてもらっている写真館だった。
父、母、息子、息子の嫁、4人家族で運営している地域に根付いた場所。
隼人が初めて永田写真館に訪れたのは、中学3年生の時。
高校受験で提出する履歴書に使う証明写真を撮りに来た時だった。
その時に出窓に飾られていた写真に心を奪われた。
それは、朝焼けに染まる海の写真。
どこにでもあるありふれた被写体のそれから、不思議と目が離せなかった。
瑞々しい躍動感さへ感じる写真。
写真を触ればあの打ち寄せる波を撫でることができるのではないかと錯覚してしまうような美しさがそこにはあった。
正直、写真にはまったく興味がなかった。
スマホのカメラ機能だってまともに使ったことがない。
それなのに、気が付けば館長の顔を見るなり
『ここで手伝いをさせてください』
どこかで見たアニメーション映画のセリフに似た言葉を放っていた。
そんな隼人に館長は『手伝うのは勝手だが、給料は期待するなよ』とそれだけ言い残し、あっさりと採用してくれたのだ。
手伝い始めて知ったのだが、あの海の写真は今時珍しい手焼き写真とのことだった。
何かの授業だったか、映画だったか思い出せないが、暗い部屋の中で1枚ずつ手作業で焼き付けをする場面が印象的なプリント方法。
優しい色合い、滑らかなグラデーション、絵画のような温かみのある手焼き写真は、プリント印刷された鮮明な写真にはないノスタルジックな雰囲気を醸し出す。
デジタル写真が直線的なイメージなら、手焼き写真は曲線のイメージがぴったりだ。
この写真館では希望すれば手焼き写真で写真を現像してもらえる。
カラーもモノクロも対応しているが、鮮明で綺麗で早いデジタルプリンを選ぶ人がほとんどだ。
手間がかかる分料金設定も高めなので、余計に選択肢から外されてしまう。
写真館に飾っているほとんどの写真もデジタルのもので、手焼き写真はおそらく館長が趣味で撮影したものだろう風景写真の何枚かが額に入れられ壁に掛けられているだけ。
隼人からすれば空間の空気ごと風景を切り取ったような素晴らしい写真なのだが、写真館にくる客のほとんどはそれに気づかず素通りしていく。
こんなに綺麗なのに。
写真館で手伝いを始めてもカメラや撮影技術にさほど興味は湧かなかった。
上手に写真が撮れれば便利かな程度。
それでも隼人が手伝いをやめなかったのは、写真自体に魅了されたから。
あの景色を見てカメラに収め、自らの手で写真に落とし込む館長への憧れだった。
カウンターを過ぎ、事務所の前を通る。
息子夫婦の聡さんと加奈さんが隼人に気がつき手を振ってくれた。
店の奥にはこじんまりとした写真スタジオと撮影に使う衣装がぎっしりと並んだ空間が続いている。
ここにもガラステーブルとソファが置かれており、主に子供の撮影を眺めながら待っている親用に使われていた。
「お父さん、隼人くんが来てるってば」
スタジオで撮影機材の手入れをしていた館長に道子が声をかける。
長身の中年男性が不機嫌そうな顔で振り返る。
オールバックに整えられている白髪交じりの髪。
白いワイシャツに茶色いベストにロープタイ。
細かいストライプのパンツから覗く革靴はピカピカだ。
「……何かあったか」
ぶっきらぼうな言い方で、開口一番に言う。
一見すると表情と声音で怒っているのかと勘違いしてしまうが、これが館長の通常運転だっだ。
接客業なのに大丈夫なのかと思ったこともあったが、撮影の時は別人かと思うような柔らかい表情と優しい声で、そのギャップに笑いを堪えていた時期が確かにあった。
「この時期は不思議なことのひとつやふたつ起こるもんだ。夏はみんなバカになる。暑さのせいにでもして受け入れろ」
「えっ、なんで……」
「心ここにあらずって顔だぞ。グズグズ悩むだけ無駄だ。時には吹っ切る勇気も必要だ」
それだけ言って、館長は再び撮影機材の手入れに戻る。
「隼人くん、はい。麦茶とアイス」
見計らったかのようなタイミングで道子がグラスに注いだ麦茶とアイスをお盆に乗せてやってきた。
「どうかした? お父さんに変なことの言われたりしてないわよね?」
「いえ、大丈夫です。むしろいいアドバイスを貰いました。今日ここに来てよかったです」
お茶のお礼を伝えながら、隼人はすっきりした顔で笑った。
そうか、受け入れればいいのか。
あの出来事は確かに起こっていて、葵が糸電話の片方を手に取った時から彼女と隼人の縁は繋がったのだ。
それでいいじゃないか。
頭のどこかであれはよくないことだと否定し続ける自分もいたが、館長の言葉で吹っ切れた。
今夜も糸電話を垂らそう。
そして、葵と話すのだ。
あの夢のような出来事を現実にするために。
午後10時。
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時間の約束はしていなかったが、葵は気づいてくれるだろうか。
そもそもまた話してくれるのだろうか。
不安と期待でドキドキする。
暫しそのまま待っていれば、下から引かれる感覚があった。
「……もしもし」
「もしもし、隼人くん?」
隼人の問いかけに答えるあの透明感のある声。
葵だ。
約束通り葵は糸電話で話してくれている。
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むずむずするような、そわそわするような、落ち着きがなくなりような感覚をどうにか胸の内に留めた。
「昨日は大丈夫でした? 遅い時間でしたけど」
「大丈夫だよ。あの後ドキドキしてなかなか眠れなかったけど」
恥ずかしそうに葵が笑う。
葵も自分と同じように眠れぬ夜を過ごしていたのかと思うと、なぜだか優越感に似た何かが沸き上がってきた。
僕だけじゃなかった。
仲間を見つけたような、そんな高揚感だ。
「隼人くんは今日何してたの? やっぱり受験勉強?」
「さっきまで勉強はしてました。昼間はご飯食べに行ったりバイト先に顔出したり、自転車で走りながら気分転換しましたよ。おかげで最近身が入らなくなってた勉強にまた少し向き合えるようになれました」
最近、受験勉強に身がはいらなくなっていたのは事実だった。
受ける大学も選び目先の目標は決めていたが、将来の夢を嬉々として話すクラスメイトを見るたびに妙な引け目を感じていた。
何となくやる気が起きない。
夏期講習で強制的に勉強に関われば気持ちに変化もあるかと思ったが、特に変わりはなく。
今日までズルズル過ごしていた。
ありがたいことに勉強はそこそこできるタイプだったので、成績がそこまで左右されないこともなく、担任にも母にも言及されることはなかった。
それに加えて葵との出会いで余計に勉強から心が離れかけたが、館長の言葉でそんな自分を少し受け入れることができた。
考え方やものの見方で現状は変わることを館長は教えてくれようとしたのかもしれないし、本当にただ思ったことを言っただけかもしれない。
それでも隼人はあの言葉をかけてもらえたことで葵へのアクションを起こす勇気を貰えたと同時に、久しぶりに参考書とノートに真剣に向き合えた。
世の中の父親はあんな感じなのだろうか。
言葉少なに背中を押してくれる。
そんなぶっきらぼうで温かみのある存在。
両親が離婚してから5年余り、隼人は1回も実父に会ってはいなかった。
母に対してだけではなく、隼人ともほとんど会話をしなかった父。
ただ仕事に行って生活費を稼いでくるだけの存在。
だから父とどこかに遊びに行った思い出も、一緒に過ごした楽しい記憶もなかった。
記憶の中の父はいつも無表情で、ロボットみたいに家の中に存在していた。
親権についても争った様子はなく、看護師をしている母の収入も安定していたため、隼人はなんの問題もなく母親側に引き取られることとなった。
そこに不満はない。
なんの思い入れもない父と過ごすより、母といる方がまだ『家族』というものを感じられた。
そこまで考えて、館長にあの父親を重ねるのは失礼かと思い至る。
館長は思いやりのある優しい人だ。
優しい人だから、写真館に飾られている写真に写っている人たちは自然な笑顔で笑っているし、出来上がった写真を見て喜んで帰るのだ。
永田家家族の人間味が滲む写真館が、隼人は好きだった。
「隼人くん」
「どうしました?」
「ごめんね」
急に紙コップ口の声が沈んだことに気が付く。
どうかしたのかと尋ねると、唐突に謝罪され困惑する。
「私ね、嘘ついてた。だからごめんね」
「嘘?」
「そう、嘘。私、本当は中学校に通ってないの。中学3年生っていうのは本当なんだけど、通信制の中学なんだ。私、身体が弱くて普通の学校に通えなくなっちゃって……。高校もこのまま通信制のところを受験するつもり。試験内容も作文と個人面談だけでね、相当な失敗がない限りは受かると思うの。だから一生懸命受験勉強してる隼人君に申し訳なくなっちゃって。私のこと心配してくれたでしょう? だから、正直に伝えなきゃなって」
「……体調、大丈夫ですか?」
「え?」
「だから、身体が弱いって、どこか具合悪かったりしませんか? それこそこんな時間まで起こしちゃってて、無理してませんか?」
「大丈夫だよ。最近は調子がいいの。今日のことも楽しみにしてたんだ。それより、嘘ついたこと怒ってない?」
「そんなことで怒りませんよ。正直に話してくれたこと、嬉しいです。それに、僕も葵さんと話すの楽しみにしてました」
「本当?」
「はい」
「嬉しい」
素直に喜ぶ葵に隼人も嬉しくなる。
「私、友達とこんな風におしゃべりするの夢だったの」
「それはよかったです。あの、これからも話してくれますか?」
「もちろん!」
葵の返答にひとつ思いついたことを提案する。
「それじゃあ、ルールを決めませんか?」
「ルール?」
「はい。会話は1時間までにしましょう。あまり無理はしないように」
「……うん、そうだね。気にかけてくれてありがとう」
それから2人はルール通り1時間、何気ない話を続けた。
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父親は葵の病院代を稼ぐために夜遅くまで働き、帰りが12時を過ぎることもしばしばあるらしい。
お互い片親ということがわかり、親近感が湧く。
「今日は体調がよかったから、肉じゃがを作っておいたの」
「僕は料理は全然できなくて……。覚えなきゃとは思ってるんですけど」
「肉じゃが作れると便利だよ。カレーとかシチューとか豚汁とか色々応用できるし」
そんな会話を続けていれば、あっという間に時間が過ぎ、約束の時間になってしまった。
「もう時間ですね」
「なんか時間の流れが早くなったみたい」
「それじゃあ、また」
「うん、またね」
名残惜しいが自分から提案したルールを早々に破るわけにはいかない。
葵の身体も心配だし、ここで惰性を出してはいけないと潔く糸電話を回収した。
不思議と昨日の現実味のない感覚はなく、葵を近くに感じる。
それは葵の現状を聞いたからか、はたまた共通点があったからか、そのどちらもか。
ポジション的には夜の話し相手くらいだろうか。
でも、葵は友達と言ってくれたし……。
顔がにやける。
ベットに転がり天井を見た。
この下には確かに葵がいる。
ベットに横になって眠る少女の姿。
「ふしだらだ」
そこまで想像してはって我に返る。
これは夏のせい。
夏の暑さのせい。
流石の館長もそんなつもりで言ったんじゃないと否定してきそうだが、隼人の耳には決して届くことはない。
でも、なんだかすっきりした感覚もある。
葵は隼人を受け入れてくれたし、自分も彼女を受け入れた。
夜の話し相手でも友達でもいい。
今日、確かに葵との関係に名前がついた。
次の日の朝。
朝食の準備をしている母の背中に話しかける。
「料理、教えてほしいんだけど」
「えっ!?」
ものすごい勢いで振り向かれ、おばけでも見たような表情でこちらに視線をよこす。
隼人からすればフェイスパックをしたままの母の方がよっぽとおばけに近いような気がした。
「なに、どうしたの急に。勉強で頭おかしくなった?」
「違うよ、そんなんじゃない。大学に行ったらひとり暮らしするつもりだから、料理はできるようにならないとってずっと考えてたんだよ。今日は夜勤終わった後の休みだし丁度いいかなって。母さんがよければだけど」
「まぁ、どんな理由でも料理くらい教えてあげるけど」
「……ありがとう」
「……」
妙な間に耐えられなくなり、トースターに食パンを入れて焼く。
村瀬家の朝食はベーコンエッグと茹で野菜にトーストがお決まりなのだ。
「それで、何か作りたいものあるの?」
「え?」
「リクエスト、あるのか訊いてんの」
「あー……」
そこまで考えていなかったが、昨日の葵との会話を思い出しすんなりと口から出てくる料理名。
「肉じゃが」
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