いとでんわ

こおり 司

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おばけ団地

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 部屋の中に静けさが広がる。
 コップの中で氷が溶けてカランと音を立てたのが妙に大きく聞こえた。
「頭沸いた?」
 真美が一言そう言った。
 何を突拍子のないことを言っているのか、呆れて言葉が出ない。
 葵が生きている人間か?
 生きているに決まっているし、人間じゃないわけがないだろう。
 隼人の住んでいる団地は魑魅魍魎が住みついているわけではない、ごく普通の古びた団地だ。
 そこに住んでいる女子中学生だろうに。
 どうしてそんな発想がでてくるのだろう。
 本当に頭が沸いてしまったのだろうか。
「ち、違うって! 真面目に言ってんの!」
 隼人と真美の視線に耐えられなくなったのか、翔が慌てて否定する。
「さっきのセリフがすでに真面目じゃないっての。なに、村瀬が女子中学生とお近づきになってるのが羨ましいわけ? キモッ。軽蔑するわー」
「無理無理、真美ちゃんの軽蔑の眼差しとか無理。ある種興奮はするけど傷つく」
「ふざけんな」
 真美のチョップが翔の脳天を直撃する。
 言葉の辛辣さとは裏腹に、力を入れていない戯れだ。
 相変わらず仲がいいなと思う。
 幼いころから親交がある相手とはみんなこんな感じなのだろうか。
 隼人はあまり社交的な方ではないし、決して明るい性格でもない。
 どちらかというと内向的で物静かな性格だ。
 どこかに遊びに行くより家で本を読んでいる方が楽しいし、ひとりで過ごすことは苦ではない。
 周りにテンションを合わせるのも苦手で、大人数でわいわい騒ぐイベントも、どこかひとりで達観して眺めていることがほとんどだ。
 クラスメイトのはしゃぎ声をうっとおしく感じるけれど、あんな風に振舞えるみんなが羨ましくもある。
 自分もあんな風になれたらさぞ楽しいだろう。
 でも、できない。
 それを格好悪いと否定する自分の方が圧倒的に大きかった。
 そんな隼人に、2人は足並みをそろえてくれる。
 無理強いをしない。
 同じペースで寄り添ってくれる。
 真美はこの関係を楽だと言っていたが、それは隼人もそうだった。
 落ち着くと表現した方が正しいか。
 翔もはっきりと口には出さないが、いつだったかほかのクラスメイトと遊びに行った後にとても疲れたと愚痴を言っていたっけ。
「葵さんのこと、どうしてそう思うの?」
 その翔があんなことを言った。
 普段からふざけている奴だが、相手を無暗に否定するような人間ではない。
 きっと、それなりの理由があるのではないだろうか。
 まだ口喧嘩を続けている2人の視線が隼人に向けられる。
 あんたまで何言ってんのと言いたげな真美に対して、翔は申し訳なさそうな表情を返す。
「いや、自分でもなに考えてんだろって思うんだけどよ……」
 頬を掻きながらもぞもぞと座り直す。
「村瀬、真面目に聞くことないって。ただのやきもちかなんかだよ。村瀬を取られたような気分になって難癖つけてるだけだって」
「なにそれ、俺めっちゃ恥ずかしいやつじゃん」
「違うの?」
「だから違うって! そんなこと言ったら真美ちゃんだって――」
「で、どうしてそう思うの?」
 このままではまた2人の言い合いが始まってしまう。
 なにか嬉しいことを言われた気がするが、今は置いておこう。
 自分から話を切り出したにも関わらず、翔は悩むように表情を歪める。
 しばし沈黙が流れた後、ようやく口を開いた。
「隼人から橘葵って名前を聞いたとき、どこかで聞いたことある気がしてよ。その時は思い出せなかったんだけど、最近ようやく思い出した。俺が昔、隼人におばけ団地に住んでんだろって言ったことあったじゃん」
「確かにあったけど……。えっ、だから幽霊?」
「いやいや、流石にそれだけのことでこんなこと言い出さねぇって。確かあれ、母ちゃんが言い出したんだよ。おばけ団地って。今思えば不謹慎極まりねぇんだけど」
 今はもう辞めてしまっているが、当時の翔の母親は市内にある会社でパートの事務員として働いていた。
「そこに橘って人が働いてたんだって。母ちゃん、家でもいろいろと会社のこと話すタイプだから俺も自然とその会社の人の名前だけは覚えちまってさ。営業の鈴木さんがどうのこうのーってな感じ」
 そんなある日、母がこそこそ誰かと電話をしているのを聞いた翔はなんとなく興味を惹かれてその会話に耳を傾けた。
 母がそういう風に話しているときは大抵楽しそうに笑っているので、今度もきっと楽しい話なのだろうと思った。
「そうそう、橘さん家の娘さん、まだ中学生だったんでしょ? 可哀そうよねー。詳しいことは知らないけど、噂だと自殺らしいわよ。まだ若いのに何があったのかしらね。いじめとか? やだわー。うちの子にはいじめられたら学校なんて行かなくていいからねって言ってるのよ。やっぱり男手ひとつで育ててると細かいところまで気が回らなかったのかしらねー。本当にお気の毒だわ――」
 これは聞いちゃだめな話だ。
 直感でそう思った翔はその場を離れたらしいが、最後に聞いた名前は聞き逃さなかった。
「――橘さん家の葵ちゃん。母ちゃん、確かにそう言ってた」
 その後、あの団地はおばけの出るおばけ団地だからしばらくの間は近づくなと言い含められたらしい。
 母親として人が自殺した建物には子供を寄り付かせたくなかったのだろう。
 そんなことを言われていた矢先に隼人が転校してきたものだから、あのような絡み方をしたのだという。
「あの団地に橘葵っていう名前の中学生が2人も住んでるなんてありえねぇって。だから俺、隼人は毎晩幽霊と話してんじゃねぇかって思い始めて……」
 再び静まり返る室内。
 この話を聞いた後では、真美も頭ごなしに否定はしなかった。
 どことなく表情が引きつっている。
 自分では確認のしようもないが、おそらく隼人も同じような表情をしていることだろう。
「なんか、悪ぃな。俺、変なこと言ってるよな。話しといてなんだけど、何言ってんだかって感じしてきたわ」
「いや」
 あははー、と笑う翔の言葉を、意外にも隼人が否定する。
 初めて葵と話をした夜のことを思い出す。
 そう言えばあの時、隼人が最初に声を吹き込んだ時、糸が引っ張られた感覚がしなかった。
 それなのにはっきりと葵の声を聞き取ることができたのだ。
 引っ張られた感覚があったのはその後から。
 ぞわりと、腹の裏側を撫でられたような感覚に襲われる。
「村瀬、まさか尾崎の話を信じてるわけじゃないよね?」
「いや、あり得ない話じゃないかもって思ってる」
「あり得ないでしょ、普通に考えて! 幽霊だよ? そんな非科学的なもんが存在してたまるかっての!」
「じゃあ、確かめようぜ」
 意を決した様子で翔が言う。
「確かめようぜ、俺たちで。俺の勘違いならそれはそれでいいじゃん。このまま隼人を幽霊と会話させ続ける方が問題だぜ、絶対」
「それはそうだけど……」
「幽霊って自分と同じような目に遭わせようとするっていうじゃん。隼人のこと守んねぇと!」
「……」
「幽霊怖い?」
「怖い」
「だよな」
「でも、村瀬に何かあるほうが怖い。だから私も手伝うよ」
 ハイタッチを決めて翔と真美が結託する。
 そんな2人を横目に隼人は黙って考え込んでいた。
 葵が幽霊、そんなこと本当にありえるのか?
 確かに翔の話には信憑性があるし、糸電話のこともある。
 それに、声しか知らない、姿も見たことがない相手だ。
 何を信じたらいいのかわからない。
 でも、隼人は確かに葵と会話をした。
 毎日毎日、何気ない話で笑いあった。
 あの葵との時間が偽りだったとは到底思えない。
 翔の言う通り確かめなければ。
 葵のためにも、真実を確認する。
「2人ともありがとう。協力してくれる?」
「「もちろん!」」
 間髪入れずに返された言葉と笑顔に、隼人は改めてこの2人が友達でよかったと心から思った。
「そうと決まれば、早速計画を立てようぜ」
 筆記用具を広げる翔。
 それは本来、夏休みの宿題の回答が書かれるはずだったもの。
 夏休みの宿題を片付ける。
 この目標は叶いそうもない。



 結論が出てからの3人の行動は早かった。
 早速今夜決行しようということになったのだ。
 理由は隼人の母が夜勤だから。
 自分たちしかいない方が好き勝手に行動できるし、無駄にややこしい説明をしなくて済む。
 実は下の階に住む見ず知らずの少女と夜な夜な糸電話で会話をしているだとか、その子が幽霊かもしれないから確かめたいなどと素直に言えるわけがないし言いたくもない。
 普通に恥ずかしい。
 あの母なら受験勉強のし過ぎだと鼻で笑いそうなものだが、ひとり息子として何か大事なものを失うような気がする。
 翔は素直に隼人の家に泊まること、真美は女友達の家に泊まると親に伝えるとすんなり許可が下りた。
 受験生とは便利な肩書である。
 泊りで受験勉強をしたいと言えば大抵の親は快く送り出すだろう。
 隼人も自宅に翔を泊めて受験勉強をすることを母にラインで伝えれば、すぐに了解と返信がきた。
 真美のことは伏せておいた。
 大雑把な母ではあるが、流石にただの友達とはいえ女の子を家に泊めることに関しては寛容ではないだろうと考えてのことだった。
 神に誓って真美に対してやましい気持ちは一切ない。
 仲のいい友達、それだけだ。
 だが、世間的にはそうはいかないだろう。
 年頃の男女がひとつ屋根の下で夜を過ごすなんて、状況だけ見ればいかがわしいにもほどがある。
 だから真美も親には女友達の家と伝えたのだ。
 ということで、善は急げとばかりにとんとん拍子にことは進み、とりあえずいったん解散する運びとなった。
 今晩はなにが起こるかわからないから1度身支度を整えに家に帰りたいと真美が言ったのだ。
 あんな話が出た後でひとりで家に帰る気になれなかった隼人はこのまま翔の家に留まることにした。
 夕方にまたここに集合し、改めて隼人の家に向かうことにする。
「宿題するか?」
「……いや、そんな気分じゃない」
「だよな」
 真美を見送り翔の部屋に戻った後は勉強を放棄しマンガを読んだりゲームをしたりして遊びながら時間をつぶした。
「おまたせ、じゃあ行こうか」
 戻ってきた真美は学校指定のジャージにリュックだった。
「遠足?」
「戦えるように動きやすい服装にしてきた。塩とか幽霊に効きそうなものもいろいろ持ってきたんだよね」
 どうやらこの中で1番やる気を出しているのは真美のようだった。
「晩御飯どうする? 私が作ろうか?」
「ファミレスでいいんじゃねぇか? なぁ、隼人」
「うん、ほら、他人の家の台所って使いにくいし」
 真美のやる気が別の方向にも発揮され始めたので、何気なく修正する。
 真美は料理はできるのだが、味が伴わないタイプだった。
 最低限食べられればそれでいいという考えのもと、とても男らしい料理を作る。
 本人には決して言えないが、進んで食べたいと思えるものではなかったし、彼女に負担をかけたくないというのも本心だった。
「おっ、いいね!」
 ファミレスには真美の好きなアップルシナモンのパフェがあるので、ファミレスでの晩御飯を提案すればすんなりと同意を得られた。
 ファミレスでゆっくりと過ごし、隼人の自宅へ向かう。
 薄暗がりの中の団地は、いつもよりも不気味に見えた。
 翔と真美が不安そうな表情を浮かべている。
 3階に向かう途中、橘家と思われる部屋の前を通り過ぎる。
 このままチャイムを鳴らそうか。
 話し合いの中でそんな意見もでたが、実際に橘一家が住んでいた場合申し訳が立たないので却下となった。
 やはり、糸電話で話しているタイミングが確実に正体を知ることができる。
 母さんが夜勤でよかった。
 2人はいてくれてよかった。
 母がいても自室で過ごすのには不安を感じただろうし、家にひとりは心細かったと思う。
 何かとタイミングが合ってラッキーだ。
 例の時間までは映画を見て過ごす。
 最速勉強という選択肢はなかった。
 なるべく明るくて笑える映画をチョイスする。
 正直これからのことを考えると集中はできなかったが、少しは気を紛らわせることができた。
「時間だ」
 時計の針が10時を指し示す頃、隼人と真美はいつも葵と話す自室に向かい、翔は外へと出ていく。
 作戦は単純。
 いつも通り隼人は葵と話すために糸電話を下に垂らし、その様子を外から翔が見張るというものだった。
 真美は隼人の部屋で一緒に待機し、翔からの報告を電話で受ける役目を担っていた。
 デコレーションでキラキラ光る紙コップを鉄格子の間から下に落とす。
「もしもし」
 初日に感じたものと同じ恐怖が漏れないように、平常心を保って言葉を発する。
「もしもし、こんばんわ、隼人くん」
 いつもと変わらない優しい声が、そこにはあった。
「こんばんわ、葵さん」
「受験勉強はどう? はかどってる?」
「まずまずですね。今日は友達の家で勉強会をしましたよ」
「いいなー。勉強は嫌いじゃないしそういうの憧れるな」
 葵と会話を続けながら真美に視線を向ける。
「うん、今話してるところ」
 翔と電話を始めたようだ。
 隼人の視線に気が付き、会話をスピーカーに切り替える。
「スピーカーにしたよ」
「じゃあ、俺の声隼人にも聞こえてるな。隼人」
 翔の言葉に耳を傾ける。
「隼人くん?」
 隼人の様子がいつもと違うことに気が付いたのか、葵が不思議そうな声を発する。
「今外からお前の部屋見てるんだけどさ」
「隼人くん、どうかした?」
 葵の問いかけに返事をする余裕がない。
 翔の言葉に集中する。
「紙コップの先――誰もいないわ」
 音が消えた。
 息が止まった。
「きゃっ――」
 真美が思わずスマートフォンを落とし、その音で我に返る。
「……葵さん」
「どうしたの? なんだか様子が変みたい。もしかして体調悪かった? 今日はもうお話やめておこうか?」
「いいえ、大丈夫です。あの、葵さんに聞きたいことがあるんです」
「なに?」
 部屋の奥で怯えていた真美が葵と会話を続ける隼人を見て近づいてきて腕を掴む。
 震えているのに、怖いのに、紙コップから隼人を引き離そうとしているらしい。
 今にも泣きそうな顔で、これ以上はやめた方がいいと首を振って訴えているようだ。
 大丈夫と、真美をなだめるように掴んできた手に触れる。
「葵さんって……幽霊なんですか?」
 自分でも驚くくらい冷静に、そう問いかけた。
 怖い。
 この状況は恐怖以外の何物でもない。
 でも、それでも、葵と共有した時間の思い出が隼人に落ち着きを与える。
「……隼人くんも冗談言うんだね」
「今、俺の友達が外にいるんです。下に垂らしている紙コップの先には誰もいないって連絡がありました」
「……」
「葵さん?」
「あーあ」
 残念そうな葵の声。
「バレちゃった」
 今まで聞いた中で、1番はっきりとした声だった。







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