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鉄格子の向こう
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気が付くと、父が泣いていた。
リビングの隅に作られた小さな祭壇の前に座り込んで、背中を丸めてすすり泣いている。
いつも姿勢がいい父にしては珍しく、とても弱弱しい。
泣いているところも初めて見た。
どんなに忙しくても笑顔を絶やさず優しい父は、葵の前では決して弱い姿を見せなかった。
どうしたのかと声をかけても反応しない。
今日はいつも通り仕事に出かける姿を見送ったはずなのに、まるでスキップ機能のように時間が飛んでいる。
そういえば、見送ったあとどうしたっけ。
ベットに横になったところまでは思い出せるがそこから先が何も覚えていない。
そんなに深い眠りについていたのだろうか。
そのせいかはわからないが、身体がとって軽くて気分がいい。
これならずっと行きたいと思っていたカフェにも行けるかもしれない。
友達はいないしひとりで外出する勇気もないので、久しぶりの父とのデートになるだろう。
SNSでみたパンケーキがとてもおいしそうだった。
ふわふわで厚みのあるパンケーキは2枚重ねで、周りはカットされた様々なフルーツが宝石のようにちりばめられている。
真っ白なとろとろのクリームはガラスの入れ物に入っており、自分でパンケーキの上に好きな量をかけるスタイルだ。
その様子を動画で上げている人もいて、ずっと食べたいと思っていた。
一緒に行こうよ。
少ない楽しみの晩酌を楽しんでいた父を誘ってみたが、ほろ酔いで頬をほんのりと染めた父はいい歳したおじさんが行くには恥ずかしいと突っぱねられた。
でも葵は知っている。
父は押しに弱い。
葵のお願いならなおさらだ。
どうしたの、お父さん。
再度声をかけるけれどやっぱり反応はない。
仕事の時に着るものとは違うスーツ姿はどこかくたびれていて、光沢のない黒い生地が空間を切り取ったようにはっきりしていて気味が悪い。
こんな服も持ってたんだ。
葵の病院代を稼ぐために毎日忙しく働いている父は昼は営業職をしているのでスーツは何着か持っているが、真っ黒なスーツは見たことがない。
夜は警備の仕事もしているがそちらは会社から支給されている作業着だし、普段着で黒は縁起が悪いからと着たがらなかった。
母の葬儀を思い出すから。
そういえば、、そんなことを聞いた気がする。。
ずっと昔に亡くなった母も、病弱な人だったらしい。
葵を生んでそのまま亡くなってしまったので1度も会ったことはないけれど、リビングに飾ってある遺影写真の中の母は父と同じく毎日優しく微笑んでいた。
男手ひとつで葵を育ててくれる父は弱音なんか吐かなくて、家事も葵の負担にならないように決して手を抜かずにやっていた。
葵も体調がいい時は進んで家事をしていたが、掃除も料理も父には遠く及ばない。
仕事を掛け持ちしているだけあって、父は基本的に器用な人間のようだった。
でも、寂しい。
口が裂けても言えないが、これが葵の本心だった。
元気にならなくてもいい、いい病院に行かなくてもいい。
もう少しでも一緒にいたい。
たった2人の家族なんだから。
毎日自室の外から聞こえてくる子供の声。
この団地は家賃が安いので、橘家のような片親の家庭や幼い子供を持つ若い夫婦世帯が多く住んでいるので、子供同士で敷地内を元気に駆け回る声が絶えなかった。
近所には小さいが公園もあるし、子育て世代にはいい環境なのかもしれなかった。
元気にならなくてもいいとは思っているが、それでも健康になれるのなら健康になりたい。
あんな風に駆け回って、好きなところに行ってみたい。
いろいろな景色を見てみたい。
鉄格子の向こうに広がる世界は眩しくて、まるで牢獄の囚人になったような気分になって惨めだった。
誰でもいいからここから連れ出してほしい。
何度も何度も想像したけれど、鉄格子の間から手を差し伸べてくれる人物は現れなかった。
私って、ここにいるんだよね?
鏡を見ながら問うたことがある。
母に似た顔立ちの中に父に似た一重の自分はつまらなさそうに見返してきただけだった。
あまりにも父が反応してくれないので、近づいて顔を覗き込む。
記憶よりもこけた頬に涙の跡が次々にできていく。
「葵……」
ようやく自分の名前を言った父は、しかしこちら見ることはなかった。
祭壇の上には骨箱が乗っていた。
花や果物、お菓子もある。
果物やお菓子は葵の好きなものばかりで、その中にはSNSで見たようなおしゃれな皿ではなく宅配ピザが入っているような箱に乗せられた例のパンケーキの姿もあった。
骨箱の奥に飾られた写真は知っている。
母の写真で見慣れている。
死んだ人が写っている遺影写真だ。
そこには自分の写真が入っていた。
恥ずかしそうに微笑んでいる。
この写真には見覚えがあった。
中学校の入学式の帰りに寄った写真館で撮ったものだ。
結局通えなくなって通信制の中学になってしまったけれど、これも思い出のひとつ。
写真は父と2人で写っているはずだが、葵の顔の部分だけを切り取って拡大したらしい。
何度見てもよく撮れている。
葵もお気に入りの1枚だった。
あ、私死んだんだ。
その事実を驚くぐらいあっさりと受け入れられた。
「私ね、死んじゃってからずっとこの部屋にいるの。お父さんが引っ越しても、なぜかここから離れられないの」
長い長い沈黙の間、隼人は決して紙コップを離さなかった。
どこか遠くに思いを馳せていたかのような沈黙。
葵が何を思っていたのか、そもそも幽霊にそんな思考があるのかわからないが、隼人は再び彼女が話し出すのをじっと待っていた。
数歩離れたところには外から戻ってきた翔と真美が寄り添ってこちらを見つめている。
最初こそ2人がかりで紙コップを奪おうと奮闘していた翔と真美だったが、隼人が頑なに応じないため諦めたらしい。
ただ、何が起こっても対応できるように傍からは決して離れない。
怖いだろうに、一緒にいてくれる。
大丈夫だと伝えるために微笑んで見せる。
最初は隼人も本当に怖かった。
翔から紙コップの先には誰もいないと告げられた瞬間には叫びそうになるのを何とか飲み込んだ。
でも、今は違う。
「あーあ、バレちゃった」
あの言葉。
嘘がバレてしまった小さな子供のような反応。
残念そうで、でもほっとしたようなそれでいて泣き出しそうな声音は隼人の中の恐怖心をかき消すのに十分だった。
今糸電話で繋がっているのは橘葵というただの女の子。
夜の話し相手。
そう思った瞬間、葵の正体が幽霊だとか幽霊じゃないだとかはとても些細な問題に思えたのだ。
「毎日毎日ひとりでいたの。なんにもなくなった部屋の中で、ずっとひとりで過ごしてた。ひとりでいるのは慣れてたけど、本当の本当にひとりってね、なんにも感じなくなるんだよ。生きているかも死んでいるかも曖昧になるの。私ってなんだろーって考えて、幽霊だったって思い出して、もうお父さんに会えないのかな、団地の子供たちも大きくなったなって時間の経過をたまに感じるの。私って本当は生きてたら成人してるんだよね。隼人くんよりずっとお姉さんなんだよ。びっくりだよね」
乾いた声で葵が笑う。
「また変わらない毎日が続くんだ。永遠に、いつ終わるかわからない時間の中を存在し続けなくちゃいけないんだって思ってた。そんな時にね、この糸電話が落ちてきたの。不思議と声がはっきり聞こえてね、思わず返事をしちゃった。手を伸ばしたら紙コップだけには触れられた。顔もなにも知らないけど、隼人くんとお話できた。私ね、話し終わった後嬉しくて泣いたんだよ。ようやく私にも手を差し伸べてくれる人が現れたんだって、久しぶりに『橘葵』として接してもらえて、とってもとっても幸せだった。ありがとう、隼人くん」
「えっ、どうしてお別れみたいな雰囲気になってるんですか?」
「えっ……?」
「僕、葵さんとこのままお別れするつもりないですから」
「だ、だって私死んでるんだよ? 幽霊だよ? 気味悪いでしょ?」
「死んでても幽霊でも関係ないし、気味悪くもないです。葵さんは僕の夜の話し相手。それ以上も以下もありません。それに年上だってこともわかりましたし、これからはなんの問題もなく敬語で話せますね」
何言ってんだよ!
やめなって!
横から聞こえる声は無視。
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことはなにも。これからも話し相手になってくれればうれしいです」
「もちろんだよ」
「それじゃあ、今日はこれで」
「うん、また明日。あっ、それと、隼人くんのお友達にもよろしくね」
プツリと会話が切れ、糸電話を回収する。
鉄格子の隙間から覗く月を見ながら一息つくと、後頭部に衝撃が走った。
「いった!」
後頭部を抑えながら振り向くと、片手を振り切った翔と真美の顔が目に入った。
「何がこのままお別れするつもりないですからだよ!」
「幽霊だったじゃん! 本物の幽霊だったじゃん!」
「俺がどんな気持ちで紙コップ確認したと思ってんだ! めちゃめちゃ怖かったんだぞ!」
「近所迷惑だよ」
「知るか!」
騒ぐ2人を宥める。
こんな団地でこんな風に大声をだしていたら本当にクレームになる。
隼人の落ち着き具合に感化されたのか、徐々に大人しくなる2人だが、その表情に納得の2文字はない。
状況が状況なら未だに問いただしてきただろう。
「僕は大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
「「……」」
「うわっ」
しばし沈黙していた翔と真美が無言で抱き着いてきた。
「普通に話しだすからめちゃめちゃ焦った」
「村瀬が無事でよかったよ」
「……うん。あれ?」
急に身体から力が抜けて床に座り込む。
ひとりじゃないと友人の存在を感じたからか、思いやりの言葉を聞いたからか緊張の糸が一気に切れてしまったらしい。
思えば経験したことのないような出来事に不安や恐怖、緊張にパニックも重なって相当なストレスがかかっていたのかもしれない。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
心配そうな視線に笑って答える。
足が震えているからすぐには立ち上がれそうにはないけれど、気分はとてもすっきりしていた。
部屋の中が真っ暗なことにようやく気が付いた翔が電気をつけ、真美が台所から3人分の麦茶を持ってくる。
「ごめん、勝手に冷蔵庫開けちゃった」
「いいよ。ありがとう」
直に床に座りながら麦茶で喉を潤す。
結構な汗をかいていたらしく服がじっとりと湿っている。
「なんか疲れた」
真美が真顔で呟いた。
「俺も」
「僕も」
真美の言葉に同意する。
隼人は机に寄りかかり天井を仰ぎ、翔は床に大の字に倒れ、真美はベッドの淵に背中を預ける。
誰も何も言わない。
気力がない。
そのまま静かに時間は過ぎ、気が付けば全員眠ってしまっていた。
翌日の朝、スマホのアラームで目を覚ました3人は、隼人の母が帰宅する前に家を出た。
朝陽が染みるとはこのことを言うのだろうか。
身体は重たいが、カラリと晴れ気温も上がりきっていない空気は気持ちがよかった。
行きつけのコンビニで朝食―-―といってもパンとパックジュースだが、を買い近くの公園のベンチに座って食べる。
朝の公園は人もまばらで、ランニングや犬の散歩、ラジオ体操をしている集団は目立つが昼間と比べると随分と静かだった。
「で、結局あの幽霊……橘さんとはそのままの関係を続けるってことでいいの?」
とうとう真美が口火を切った。
ここに来るまで誰も触れてこなかった話題だ。
まぁ、今ここにいるのもそもそもは橘葵の幽霊問題の結果なのだから話題としては至極当か。
「そうなるね」
どこを見ているのかわからない鳩を眺めながらパンを齧る。
「本当に大丈夫なの?」
「うん、葵さんは大丈夫」
ただ話し相手が欲しかっただけの寂しがりや。
葵の寂しさを全て理解したなんて偉そうなことは言わないけれど、昨日の会話で彼女をこのまま突き放すのはいけないと思った。
やろうと思えば関わりなんて簡単に断ち切ることができる。
でも、それはだめだ。
この関係を、糸電話の糸を切ってはいけない。
なぜだか強くそう感じた。
「そう。村瀬がそう思うならいっか。ね、尾崎もそう思うでしょ?」
「まぁな。いいんじゃね? 隼人が話してるとこも見たけど危険な感じしなかったしな」
昨日の夜とはうって変わった反応に、隼人は少し驚く。
「いいの?」
「いいもなにも自分で決めたんだろ。じゃあそうすりゃいいんじゃね? 俺たちには葵ちゃんの声は聞こえなかったし、言葉も届いてない。あたり前だけど姿だって知らない。どんな人物かなんて、隼人の話の中で想像するしかなかったし、幽霊だってわかった瞬間は友達を危ない目に遭わせようとする危険な相手にしか思えなかったけどよ。隼人の反応を見てるとそんなこともねぇのかなーって思ったわけ」
「話を聞いてる限りはいい子っぽかったし、昨日実際に村瀬が楽しそうに話している姿を思い返すとね。害はないかなって」
「それに、隼人のことをどうにかしようとする悪い幽霊なら、こんなまどろっこしいことしねぇだろ。だから隼人が納得できるようにしたらいいさ」
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことはなにも」
昨日の隼人のセリフを言いながら、翔がニヤニヤ笑うので肘で小突いてやった。
「葵さん、2人によろしくって言ってたよ」
隼人の言葉に一瞬固まった2人は、
「「よろしく」」
キメ顔でそう言った。
3人の笑い声が朝の公園に明るく響いた。
リビングの隅に作られた小さな祭壇の前に座り込んで、背中を丸めてすすり泣いている。
いつも姿勢がいい父にしては珍しく、とても弱弱しい。
泣いているところも初めて見た。
どんなに忙しくても笑顔を絶やさず優しい父は、葵の前では決して弱い姿を見せなかった。
どうしたのかと声をかけても反応しない。
今日はいつも通り仕事に出かける姿を見送ったはずなのに、まるでスキップ機能のように時間が飛んでいる。
そういえば、見送ったあとどうしたっけ。
ベットに横になったところまでは思い出せるがそこから先が何も覚えていない。
そんなに深い眠りについていたのだろうか。
そのせいかはわからないが、身体がとって軽くて気分がいい。
これならずっと行きたいと思っていたカフェにも行けるかもしれない。
友達はいないしひとりで外出する勇気もないので、久しぶりの父とのデートになるだろう。
SNSでみたパンケーキがとてもおいしそうだった。
ふわふわで厚みのあるパンケーキは2枚重ねで、周りはカットされた様々なフルーツが宝石のようにちりばめられている。
真っ白なとろとろのクリームはガラスの入れ物に入っており、自分でパンケーキの上に好きな量をかけるスタイルだ。
その様子を動画で上げている人もいて、ずっと食べたいと思っていた。
一緒に行こうよ。
少ない楽しみの晩酌を楽しんでいた父を誘ってみたが、ほろ酔いで頬をほんのりと染めた父はいい歳したおじさんが行くには恥ずかしいと突っぱねられた。
でも葵は知っている。
父は押しに弱い。
葵のお願いならなおさらだ。
どうしたの、お父さん。
再度声をかけるけれどやっぱり反応はない。
仕事の時に着るものとは違うスーツ姿はどこかくたびれていて、光沢のない黒い生地が空間を切り取ったようにはっきりしていて気味が悪い。
こんな服も持ってたんだ。
葵の病院代を稼ぐために毎日忙しく働いている父は昼は営業職をしているのでスーツは何着か持っているが、真っ黒なスーツは見たことがない。
夜は警備の仕事もしているがそちらは会社から支給されている作業着だし、普段着で黒は縁起が悪いからと着たがらなかった。
母の葬儀を思い出すから。
そういえば、、そんなことを聞いた気がする。。
ずっと昔に亡くなった母も、病弱な人だったらしい。
葵を生んでそのまま亡くなってしまったので1度も会ったことはないけれど、リビングに飾ってある遺影写真の中の母は父と同じく毎日優しく微笑んでいた。
男手ひとつで葵を育ててくれる父は弱音なんか吐かなくて、家事も葵の負担にならないように決して手を抜かずにやっていた。
葵も体調がいい時は進んで家事をしていたが、掃除も料理も父には遠く及ばない。
仕事を掛け持ちしているだけあって、父は基本的に器用な人間のようだった。
でも、寂しい。
口が裂けても言えないが、これが葵の本心だった。
元気にならなくてもいい、いい病院に行かなくてもいい。
もう少しでも一緒にいたい。
たった2人の家族なんだから。
毎日自室の外から聞こえてくる子供の声。
この団地は家賃が安いので、橘家のような片親の家庭や幼い子供を持つ若い夫婦世帯が多く住んでいるので、子供同士で敷地内を元気に駆け回る声が絶えなかった。
近所には小さいが公園もあるし、子育て世代にはいい環境なのかもしれなかった。
元気にならなくてもいいとは思っているが、それでも健康になれるのなら健康になりたい。
あんな風に駆け回って、好きなところに行ってみたい。
いろいろな景色を見てみたい。
鉄格子の向こうに広がる世界は眩しくて、まるで牢獄の囚人になったような気分になって惨めだった。
誰でもいいからここから連れ出してほしい。
何度も何度も想像したけれど、鉄格子の間から手を差し伸べてくれる人物は現れなかった。
私って、ここにいるんだよね?
鏡を見ながら問うたことがある。
母に似た顔立ちの中に父に似た一重の自分はつまらなさそうに見返してきただけだった。
あまりにも父が反応してくれないので、近づいて顔を覗き込む。
記憶よりもこけた頬に涙の跡が次々にできていく。
「葵……」
ようやく自分の名前を言った父は、しかしこちら見ることはなかった。
祭壇の上には骨箱が乗っていた。
花や果物、お菓子もある。
果物やお菓子は葵の好きなものばかりで、その中にはSNSで見たようなおしゃれな皿ではなく宅配ピザが入っているような箱に乗せられた例のパンケーキの姿もあった。
骨箱の奥に飾られた写真は知っている。
母の写真で見慣れている。
死んだ人が写っている遺影写真だ。
そこには自分の写真が入っていた。
恥ずかしそうに微笑んでいる。
この写真には見覚えがあった。
中学校の入学式の帰りに寄った写真館で撮ったものだ。
結局通えなくなって通信制の中学になってしまったけれど、これも思い出のひとつ。
写真は父と2人で写っているはずだが、葵の顔の部分だけを切り取って拡大したらしい。
何度見てもよく撮れている。
葵もお気に入りの1枚だった。
あ、私死んだんだ。
その事実を驚くぐらいあっさりと受け入れられた。
「私ね、死んじゃってからずっとこの部屋にいるの。お父さんが引っ越しても、なぜかここから離れられないの」
長い長い沈黙の間、隼人は決して紙コップを離さなかった。
どこか遠くに思いを馳せていたかのような沈黙。
葵が何を思っていたのか、そもそも幽霊にそんな思考があるのかわからないが、隼人は再び彼女が話し出すのをじっと待っていた。
数歩離れたところには外から戻ってきた翔と真美が寄り添ってこちらを見つめている。
最初こそ2人がかりで紙コップを奪おうと奮闘していた翔と真美だったが、隼人が頑なに応じないため諦めたらしい。
ただ、何が起こっても対応できるように傍からは決して離れない。
怖いだろうに、一緒にいてくれる。
大丈夫だと伝えるために微笑んで見せる。
最初は隼人も本当に怖かった。
翔から紙コップの先には誰もいないと告げられた瞬間には叫びそうになるのを何とか飲み込んだ。
でも、今は違う。
「あーあ、バレちゃった」
あの言葉。
嘘がバレてしまった小さな子供のような反応。
残念そうで、でもほっとしたようなそれでいて泣き出しそうな声音は隼人の中の恐怖心をかき消すのに十分だった。
今糸電話で繋がっているのは橘葵というただの女の子。
夜の話し相手。
そう思った瞬間、葵の正体が幽霊だとか幽霊じゃないだとかはとても些細な問題に思えたのだ。
「毎日毎日ひとりでいたの。なんにもなくなった部屋の中で、ずっとひとりで過ごしてた。ひとりでいるのは慣れてたけど、本当の本当にひとりってね、なんにも感じなくなるんだよ。生きているかも死んでいるかも曖昧になるの。私ってなんだろーって考えて、幽霊だったって思い出して、もうお父さんに会えないのかな、団地の子供たちも大きくなったなって時間の経過をたまに感じるの。私って本当は生きてたら成人してるんだよね。隼人くんよりずっとお姉さんなんだよ。びっくりだよね」
乾いた声で葵が笑う。
「また変わらない毎日が続くんだ。永遠に、いつ終わるかわからない時間の中を存在し続けなくちゃいけないんだって思ってた。そんな時にね、この糸電話が落ちてきたの。不思議と声がはっきり聞こえてね、思わず返事をしちゃった。手を伸ばしたら紙コップだけには触れられた。顔もなにも知らないけど、隼人くんとお話できた。私ね、話し終わった後嬉しくて泣いたんだよ。ようやく私にも手を差し伸べてくれる人が現れたんだって、久しぶりに『橘葵』として接してもらえて、とってもとっても幸せだった。ありがとう、隼人くん」
「えっ、どうしてお別れみたいな雰囲気になってるんですか?」
「えっ……?」
「僕、葵さんとこのままお別れするつもりないですから」
「だ、だって私死んでるんだよ? 幽霊だよ? 気味悪いでしょ?」
「死んでても幽霊でも関係ないし、気味悪くもないです。葵さんは僕の夜の話し相手。それ以上も以下もありません。それに年上だってこともわかりましたし、これからはなんの問題もなく敬語で話せますね」
何言ってんだよ!
やめなって!
横から聞こえる声は無視。
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことはなにも。これからも話し相手になってくれればうれしいです」
「もちろんだよ」
「それじゃあ、今日はこれで」
「うん、また明日。あっ、それと、隼人くんのお友達にもよろしくね」
プツリと会話が切れ、糸電話を回収する。
鉄格子の隙間から覗く月を見ながら一息つくと、後頭部に衝撃が走った。
「いった!」
後頭部を抑えながら振り向くと、片手を振り切った翔と真美の顔が目に入った。
「何がこのままお別れするつもりないですからだよ!」
「幽霊だったじゃん! 本物の幽霊だったじゃん!」
「俺がどんな気持ちで紙コップ確認したと思ってんだ! めちゃめちゃ怖かったんだぞ!」
「近所迷惑だよ」
「知るか!」
騒ぐ2人を宥める。
こんな団地でこんな風に大声をだしていたら本当にクレームになる。
隼人の落ち着き具合に感化されたのか、徐々に大人しくなる2人だが、その表情に納得の2文字はない。
状況が状況なら未だに問いただしてきただろう。
「僕は大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
「「……」」
「うわっ」
しばし沈黙していた翔と真美が無言で抱き着いてきた。
「普通に話しだすからめちゃめちゃ焦った」
「村瀬が無事でよかったよ」
「……うん。あれ?」
急に身体から力が抜けて床に座り込む。
ひとりじゃないと友人の存在を感じたからか、思いやりの言葉を聞いたからか緊張の糸が一気に切れてしまったらしい。
思えば経験したことのないような出来事に不安や恐怖、緊張にパニックも重なって相当なストレスがかかっていたのかもしれない。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
心配そうな視線に笑って答える。
足が震えているからすぐには立ち上がれそうにはないけれど、気分はとてもすっきりしていた。
部屋の中が真っ暗なことにようやく気が付いた翔が電気をつけ、真美が台所から3人分の麦茶を持ってくる。
「ごめん、勝手に冷蔵庫開けちゃった」
「いいよ。ありがとう」
直に床に座りながら麦茶で喉を潤す。
結構な汗をかいていたらしく服がじっとりと湿っている。
「なんか疲れた」
真美が真顔で呟いた。
「俺も」
「僕も」
真美の言葉に同意する。
隼人は机に寄りかかり天井を仰ぎ、翔は床に大の字に倒れ、真美はベッドの淵に背中を預ける。
誰も何も言わない。
気力がない。
そのまま静かに時間は過ぎ、気が付けば全員眠ってしまっていた。
翌日の朝、スマホのアラームで目を覚ました3人は、隼人の母が帰宅する前に家を出た。
朝陽が染みるとはこのことを言うのだろうか。
身体は重たいが、カラリと晴れ気温も上がりきっていない空気は気持ちがよかった。
行きつけのコンビニで朝食―-―といってもパンとパックジュースだが、を買い近くの公園のベンチに座って食べる。
朝の公園は人もまばらで、ランニングや犬の散歩、ラジオ体操をしている集団は目立つが昼間と比べると随分と静かだった。
「で、結局あの幽霊……橘さんとはそのままの関係を続けるってことでいいの?」
とうとう真美が口火を切った。
ここに来るまで誰も触れてこなかった話題だ。
まぁ、今ここにいるのもそもそもは橘葵の幽霊問題の結果なのだから話題としては至極当か。
「そうなるね」
どこを見ているのかわからない鳩を眺めながらパンを齧る。
「本当に大丈夫なの?」
「うん、葵さんは大丈夫」
ただ話し相手が欲しかっただけの寂しがりや。
葵の寂しさを全て理解したなんて偉そうなことは言わないけれど、昨日の会話で彼女をこのまま突き放すのはいけないと思った。
やろうと思えば関わりなんて簡単に断ち切ることができる。
でも、それはだめだ。
この関係を、糸電話の糸を切ってはいけない。
なぜだか強くそう感じた。
「そう。村瀬がそう思うならいっか。ね、尾崎もそう思うでしょ?」
「まぁな。いいんじゃね? 隼人が話してるとこも見たけど危険な感じしなかったしな」
昨日の夜とはうって変わった反応に、隼人は少し驚く。
「いいの?」
「いいもなにも自分で決めたんだろ。じゃあそうすりゃいいんじゃね? 俺たちには葵ちゃんの声は聞こえなかったし、言葉も届いてない。あたり前だけど姿だって知らない。どんな人物かなんて、隼人の話の中で想像するしかなかったし、幽霊だってわかった瞬間は友達を危ない目に遭わせようとする危険な相手にしか思えなかったけどよ。隼人の反応を見てるとそんなこともねぇのかなーって思ったわけ」
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「それに、隼人のことをどうにかしようとする悪い幽霊なら、こんなまどろっこしいことしねぇだろ。だから隼人が納得できるようにしたらいいさ」
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことはなにも」
昨日の隼人のセリフを言いながら、翔がニヤニヤ笑うので肘で小突いてやった。
「葵さん、2人によろしくって言ってたよ」
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キメ顔でそう言った。
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