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お父さん
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「母ちゃんに聞いてみたけどやっぱわかんねぇって。いろいろ聞いてくれたみたいなんだけど、連絡先も住所も知ってる人いなかったってよ」
夜、葵との会話が終わるのを見計らって翔から電話があった。
「……そうか、ありがとう。ごめんね、迷惑かけて」
「いや、それは全然いいんだけどよ。母ちゃんも気にしてなかったし」
内心がっかりしているのを感じ取られないよう、努めて平常心で話をする。
もともと望み薄の頼みだったのだから仕方がない。
また別な方法を考えよう。
そう思考を切り替えた。
花火大会の日。
「お父さんに会いたいな」
あの日以来、葵の言葉が心に引っかかって取れなかった。
ポロリと零れた願いは切実で。
あの想いを無視したくない。
叶えてあげたい。
そう強く思った。
どうしたら葵を父親に会わせてあげることができるだろう。
下の階は空室だ。
誰も住んでいない。
葵の父親は彼女が亡くなった後にこの団地を引っ越している。
隼人がここに越してくる前の話だから、8年は前だろう。
そんな昔に引っ越した苗字しかわからない人間をただの高校生がどう探せというのか。
団地の人に聞き込むか。
そう考えたがすぐに却下した。
この団地は若い夫婦や片親世帯、あとは年金暮らしの老人が多く住んでいるのだが、案外住人の入れ替わりは激しかった。
若い夫婦は生活が落ち着けば別の場所に引っ越していくし、老人も施設に行ったり家族に引き取られたり、亡くなったり。
そんなこんなでここに長く住んでいる人間はそう多くはない。
住人同士の交流自体は多い方だとは思う。
近所の公園で遊ぶ子供たち、散歩する老人に井戸端会議をする主婦層が大半だからだ。
葵が亡くなった直後なら希望はあったかもしれないが、ここまで時間が経っていたのでは望みは薄いだろう。
そもそも、橘家の内情を聞くに近所付き合いが盛んだったとは到底思えない。
身体が弱く外出もままならない娘と朝も夜も働きづめの父。
どことなく閉鎖的な家庭の橘家に詳しい人間など、そもそも当時からすでにいなかったかもしれない。
どうしたものか。
うんうん頭を悩ませているときに思い出したのが、翔の母親だった。
翔が葵は幽霊ではないかと言い始めたきっかけは、昔に聞いた母親の会話。
翔の母親は葵の父親を知っている。
会話の内容的に同じ会社で働いていたのではないか、そう思った。
あわよくば葵の父親の連絡先を知っているのではないだろうか。
翔の母親は以前働いていた会社を辞め、今はスーパーのレジ打ちのパートをしている。
前の会社を辞めたのはいつ頃だっただろうか。
もしかしたら、葵の父親は今も変わらずその会社で働いているかもしれない。
そこがどこかわかればコンタクトをとることが可能だ。
思い立ったが吉日。
早速翔に連絡を入れた。
無茶なお願いにも関わらず、翔は快く引き受けてくれた。
それから数日が経ち、先ほどの電話がかかってきたのだった。
話を聞くに、葵の父親は葵が亡くなった後暫くして会社を辞めたのだという。
社内で娘が自殺したと噂が立ち、虐待が囁かれ始めた頃合いでの自主退職だったらしい。
それが誤解だったとわかった頃にはもう遅く、団地からも引っ越した後だった。
以前の会社の知り合いにも連絡を取ってくれたのだが、葵の父親の所在を知っている社員は誰もいなかった。
「でも、翔のお母さんもよく協力してくれたよね。ありがたいけど、ダメ元だったから」
隼人としては、ここまで翔の母親が協力してくれるとは思っていなかった。
昔の会社で一緒に働いている人を探しているので手伝ってほしいなんて、息子からのお願いでも驚いたはずだ。
「確かに最初は困惑してたな。急に何言い出すんだって。でも葵ちゃんの友達と知り合う機会があって仏壇にお参りしたがってるって言ったら、まぁ何とかなったわ。ちょっと自分でも無理な設定だったかなって思ったんだけどよ。母ちゃん、なんか後悔してるっぽくてさ。自殺だなんだって噂を鵜呑みにしてたこと」
葵が自殺なんてありえない。
実際に話していればわかる。
葵は父親を本当に大切に思っているし、それは父親の方だってそうだろう。
たった2人の家族は、ずっと支えあって生きてきた。
それなのに裏切りのように自ら命を絶つなんて、絶対にないはずだ。
「橘さんが会社を辞めた原因の一端は自分にもあったんじゃないかって、ずっと気にしてたみたいだぜ。これで葵ちゃんの供養になるならって協力してくれた。結局何もわかんなかったんだけどな」
結果的には何もわからなかった。
それでも、葵のために行動してくれたことが素直に嬉しかった。
翔との会話を終えて、電話を切りベッドに寝転ぶ。
最初の状態に逆戻りだ。
探偵を雇うか、SNSで探してみるか。
どれも現実的ではない。
探偵を雇うだけの資金はないし、高校生の戯言に付き合ってくれる大人がいるとは思えない。
SNSも若い世代ならともかく、恐らく50代、60代の男性が積極的に情報を発信しているとも考えにくい。
「あっ」
机の上に置いてあったアルバムを見て、勢いよくベッドから起き上がる。
そうだ、忘れていた。
永田写真館。
葵とその父親が記念写真を撮影した場所。
以前、その写真を探して見つけることはできなかったが、橘親子が永田写真館を利用したのは確固たる事実だ。
当の本人である葵が言っていたのだから間違いない。
永田写真館では写真を撮影した客の名前と電話番号を控えている。
写真が出来上がった時の連絡用だったり、焼き増し依頼があった時に情報を照らし合わせて検索しやすくするためだった。
当時のデータが残っていれば、そこから連絡が取れるかもしれない。
「よし」
人知れずガッツポーズをする。
この時の隼人は社員でもないただの手伝いの高校生が店の大事な顧客情報を観覧できるわけがないとか、個人情報に厳しい昨今に私情で見ず知らずの他人に連絡をとるリスクだとかは全く考えていなかった。
ただ、目の前に現れたか細い希望の光を手繰り寄せようと必死だった。
手伝いの日、隼人は仕事の隙を見て早速館長に質問してみた。
「館長、橘さんって覚えてますか?」
「橘?」
急にどうしたという表情が返ってきたが、気にせず続ける。
「昔、娘さんと2人でここで記念写真を撮ったらしいんですけど」
「橘って、橘省吾か?」
するりと出てきた知らない個人名に戸惑う。
「いや、フルネームはわからないんですけど……」
「娘の名前は?」
「葵です」
「やっぱり省吾だな」
「覚えてるんですか?」
「覚えてるもなにも、あいつとは顔なじみだったからな」
それがどうした、という館長の言葉は隼人には届かなかった。
まさか、館長と葵の父親が知り合いだったとは。
こんなに近くに手がかりがあったなんて。
「あ、あの! その人がどこに住んでるか知ってますか?」
「ど、どうした」
隼人の距離の詰め方に、館長が1歩後ずさる。
珍しく大声を出したことにも驚いているのか、いつもは鋭い目を丸く見開いていた。
「どうしてあいつの住所なんて知りたがるんだ。知り合いか?」
「いえ、橘さんのことは知りませんが、その娘さんと知り合いというか……」
「葵ちゃんと?」
「はい。あっ、亡くなったことは知ってます」
「だったら今更なんで知りたがる」
「それは――」
どうしよう。
そこまで考えていなかった。
実は亡くなった娘の葵と知り合いで、毎晩糸電話で話をする間柄なんです。
その葵が父親に会いたがっているので会わせてあげたいんです。
だから父親の連絡先や住所を調べているんです。
夏は不思議なことが起こるって館長は言ってましたど本当ですね。
なんて、言えるはずもなく。
正直に幽霊だなんだかんだ言ったところで信じてなんかもらえないだろうし、最悪頭がおかしくなったと思われてしまう。
こっちは至極まともな受験生だ。
「えっと……」
翔との会話を思い出す。
「実は、橘葵さんと知り合いで、小さい頃よく遊んでもらったんです。同じ団地に住んでいて。近所のお姉さんって感じで面倒をみてくれて。それで、あー、久々に思い出す機会があって、そういえば1回もお参りしたことなかったなって思って。だから、その……、今更ながら可能ならお参りできないかなって。で、昔ここで記念写真を撮ったって聞いたのを思い出したので、館長なら何か覚えてるかなーって思って……」
最後は笑って誤魔化した。
誤魔化しきれたかはわからないけれど、とにかく言い切った。
「なるほどな」
館長が腕を組みながら頷く。
意外にも納得したようだった。
「若いのに故人を大切にするなんて偉いぞ」
そして褒められた。
館長も弟を亡くしているから、故人を偲ぶ心に胸を打たれたのかもしれない。
常々思っていたことだが、館長は存外情に熱い人間である。
「でもな、残念ながら省吾が今どこに住んでるかは知らないんだ。それこそ最後に会ったのは娘さんの葬儀の日で、それ以来連絡も取り合ってない」
「……そうですか」
やはりそう上手くはいかないか。
肩を落とす隼人に、館長は暫し考えた後にゆっくりと口を開いた。
「連絡、とってみようか?」
「えっ、いいんですか?」
「俺もあいつの近況は気になるしな。まぁ、ついでだついで。番号が変わってるかもしれないしお参りもいいと言うかはわからんからあまり期待はするなよ。娘さんが亡くなってから随分憔悴してたからな。奥さんが亡くなった時もかなり引きずってたから、どんな反応をするのか俺にも想像つかん」
「わかりました。大丈夫です。ありがとうございます」
しっかりと頭を下げてお礼を言う。
ぐっと現実味を帯びた葵と父親の再会に喜びで胸がいっぱいになる。
これで葵の願いを叶えてあげることができるかもしれない。
館長に連絡が取れても取れなくても教えてもらえるようにお願いし、隼人はこの日も仕事に手を抜くことなく手伝いをした。
むしろ、いつもよりも張り切っていたかもしれない。
父親に会える。
そう伝えたら葵はどんな反応をするだろう。
きっと喜んでくれるに違いない。
葵の嬉しそうな声を想像するだけで、隼人の心はふわふわと浮いていた。
「ほら」
館長から差し出されたメモ紙には、とある住所と部屋番号が書かれていた。
「省吾と連絡取れたぞ。今は働いている警備会社の社宅に住んでるらしい。昼間は忙しいから仕事が終わった後なら対応できるって言ってたぞ」
葵の父親が指定した時間は夜の九時以降だった。
住所を確認すると市内であったため、距離的な訪問は問題ないだろう。
「夜遅いが、大丈夫か?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
どことなく心配そうな店長に笑顔で返す。
もしかしたら、葵の父親は隼人の訪問を快く思っていないのかもしれない。
直感でそう感じた。
仕事の関係とはいえ、高校生の訪問時間をこんな夜間に指定するだろうか。
難しい時間に訪問時間を設定することで、意図的に断念させようとしているのではないだろうか。
仕事が忙しいのであれば休日にするとかやり方はほかにもあるだろうに。
こちらが一方的に訪問したいと言っているので文句は言えないが、気分がいいとは言えなかった。
だが、訪問を了承してくれたならこっちのものだ。
どんな時間帯であれ、会いに行く所存である。
表情を見るに、館長も薄々そのことに感づいているのかもしれない。
終始心配そうに顔を曇らせている。
「それじゃあ、次の木曜日の九時半頃にお邪魔します。橘さんにそう伝えてもらえますか?」
「そうか、わかった。伝えておく」
狙うはやはり母の夜勤の日。
それなら夜遅くに出歩いても文句は言われない。
昔はあんなに嫌だった夜勤をこんなに都合よく利用することになるなんて、あの頃の自分は考えもしなかった。
一生懸命働いている母には後ろめたい気持ちもあるが、それよりも譲れないものが人生にはあるのだと隼人はここ数週間で学んでいた。
その夜、父親に会えるかもしれない旨を葵に話した。
サプライズで内緒にしていてもよかったのだが、この前のように急に知らない場所でしかも父親と話せるとなれば葵が混乱すると思っての配慮だった。
喜ぶ葵の声を想像していた隼人だったが、実際に返ってきた反応はあまり明るいものではなかった。
「いいのかな?」
葵の声は暗い。
「私、お父さんに会ってもいいのかな?」
「どうしたんですか? 嬉しくないですか?」
「嬉しいよ。お父さんに会えるのも、隼人くんが私のためにそこまでしてくれたことも嬉しい。でも、死んだ娘に会うってお父さんからしたら喜ばしいことなのかなって、考えちゃって」
「嬉しいに決まってるじゃないですか」
絶対に、嬉しいに決まっている。
隼人にはまだ近しい人間を亡くした経験がないのであくまで想像になってしまうが、もう永遠に会えないと思っていた愛娘とまた会話ができるなんて、喜ばない父親なんてこの世の中に存在しないだろう。
「……そうかな?」
「そうですよ!」
「そうかぁ、そうだといいな」
ようやく葵が笑う。
「僕が絶対に葵さんとお父さんを会わせますので、楽しみに待っていてください」
「……うん、ありがとう。楽しみにしてる」
絶対に成し遂げてみせる。
隼人は改めてひとり静かに決意を固めた。
ここだ。
木曜の夜九時半少し前。
隼人はとある部屋の前に立っていた。
葵の父親が住んでいるという社宅の部屋の前だった。
部屋番号を何度も見直し、間違いがないことを確認する。
社宅と言っても小さなアパートのようなそこは、錆びついた手すりと階段が目立つコンクリートむき出しの建物だった。
そこの202号室。
橘と漢字ひと文字がそっけなく書かれた郵便受けには、営業のチラシが数枚挟まっていた。
台所だろうドアの横にある小さなすりガラスの窓からは明かりが漏れ、住人の在宅を示していた。
ごくり、と生唾を飲み込む。
葵のことを想い勢いでここまできたが、いざ初対面の大人にこれから会うのかと考えると緊張する。
社交的ではない隼人にとってはなかなかにハードルが高い。
しかし、このまま立っていても仕方がない。
折角ここまで来たのだ、やるしかない!
意を決してインターホンを押す。
ビーっという、警戒音のような呼び出し音が聞こえる。
奥から人の動く気配を感じ1歩下がると、ゆっくりとドアが開いた。
「……こんばんわ」
「本当に来たのか」
出てきたのは、50代後半と思われる男性だった。
白髪交じりのボサボサの髪に、同じくあまり手入れされていない無精ひげ。
すべてを拒絶するような切れ長な目の下には濃い隈が目立つ。
こけた頬と顔色から察するに、あまり栄養状態がいいようには思えない。
服装はところどころシミのついた灰色の上下のスウェットで、足元にはサンダルを履いている。
「初めまして、村瀬隼人と申します。橘省吾さんですか?」
「郵便受けに書いてあるとおりですが」
隼人の問いかけにぶっきらぼうに返答する葵の父親。
その外見と声音から、疑念が確信に変わった。
この橘省吾という男は、隼人を快く迎え入れる気が毛頭ない。
いや、ニコニコ招き入れられてもそれはそれで怖いけれど、ここまで露骨に拒絶されると気分が悪い。
「お忙しいのに申し訳ありません。永田さんからお話させていただいている通り、橘葵さんのお参りができたらと思ってお邪魔させていただきました」
「……ああ、そうですか。どうぞ、狭いですが上がってください」
しぶしぶといった感じで部屋の中に通される。
部屋の中は実に簡素なものだった。
必要最低限の家具しかない。
間取りには詳しくないが、時々ひとり暮らしを想定して賃貸のホームページを眺めていたので、1LDKかそこらだろうと予想する。
決して広くはないのに、がらんとしている。
コンビニ弁当の空きガラやビールの空き缶が乱雑に転がっている様子で、かろうじて生活感を感じられた。
そんな中、ひと際異彩を放っていたのが窓際の仏壇だった。
漆塗りに金の装飾が施された立派な仏壇は、この部屋には似つかわしくないほどの存在感を放っている。
今時こんなに立派な仏壇を持っている家庭は少ないだろう。
「どうぞ」
仏壇の前の座布団に案内される。
仏壇の扉は開いており、内部も金色の装飾が輝いている。
中には黒塗りの小さな位牌が2本、仲良く並んでいた。
読み方はわからないが、金色の文字で漢字が縦に並んでいる。
葵と葵の母親の位牌だろう。
それとなく部屋の中を眺めるが、遺影写真らしきものは飾られていなかった。
葵の父親の視線が刺さる。
座りもせず部屋の真ん中に立って隼人を観察する遠慮のない視線に居心地が悪い。
まずは仏壇へお参りをしっかりしよう。
リンを鳴らし、手を合わせ、葵と葵の母親に心の中で挨拶をした。
「あの、橘さん。橘さんにお話ししたいことがあります」
無事にお参りを済ませ、いよいよ本題に入る。
向けられる敵意むき出しの表情に屈することなく、まっすぐにその瞳を見つめた。
「僕、橘葵さんと知り合いなんです」
「それは聞いてますよ。葵と昔仲良くしていたようで。まぁ、それが本当かは疑わしいですが」
「えっ」
葵の父親の言葉に固まる。
「葵はよく話をする子でした。その日にあったこと、思ったことは何かと話してくれた。ほとんど毎日部屋の中で過ごしていて変わり映えのしない日々を送っていたというのに、今日のテレビは何が面白かった、団地の子供たちがこんな風に遊んでいたなんて、随分と楽しそうに話していたものです」
隼人から視線を外し、昔を懐かしむように目を細める。
「だから、おかしい」
再度、隼人を睨みつけながら葵の父親は続ける。
「葵が外出するなんてありえないとは言わない。だが、君の話のように仲良く遊ぶ男の子がいたら私に話さないわけがない。絶対にだ。だから永田から連絡があった時にすぐに気が付いたよ。君が嘘をついているとね。それでも訪問を許可したのはどうしてそんな嘘をついたのか知りたかったからだ。君がどうやって葵のことを知ったのか教えてもらおうと思ったから。来ないなら来ないでいいとは思っていたが、まさか本当に来るとはね」
いつの間にか敬語も外れ、葵の父親は淡々と話す。
その様子に少し恐怖を感じたが、隼人も負けずに言い返した。
「すみません、確かに昔から葵さんを知っているというのは嘘です。でも葵さんと知り合いというのは本当です。つい最近知り合いました」
「何を言っているんだ? 葵は何年も前に亡くなったんだ」
「はい、知ってます。でも、葵さんはまだこの世にいるんです」
「……幽霊で、とでも言うんじゃないだろうね?」
「その通りです」
そして、隼人は今までのことをすべて話した。
糸電話のこと。
葵との関係。
毎晩の会話。
彼女の願い。
隼人が話している間、葵の父親は黙ってそれを聞いていた。
まるで言葉を失ったかのようにひと言も発しない。
顔色は蒼白で、今にも倒れそうだった。
が、
「ふざけるな!」
隼人が話し終えた瞬間、切り替わったように顔を真っ赤にさせ大声で怒鳴った。
「よくもそんな戯言を! 人を馬鹿にするのも大概にしろクソガキが!」
勢いに任せてテーブルに置いてあったビールの缶を投げつける。
しかし、感情に動作が伴わないのか、缶は床にバウンドして場違いな方向に飛んで行った。
残っていた中身が飛び散り、ビール独特の苦みのあるにおいが立ち込める。
「嘘じゃありません。葵さんは今でもあの部屋にいます。そして、あなたにとても会いたがっています」
「黙れ! これ以上私と葵を愚弄するな! さもないと――」
「花火大会、一緒に行ってたんですよね?」
ピタリ、と葵の父親の動きが止まる。
「どうして、それを?」
「葵さんから聞きました。小さい頃に橘さんにおんぶしてもらいながら河川敷の打ち上げ花火を見たって。そのうち仕事の都合で行けなくなったけど、その時の思い出が忘れられないって」
「……煩い」
「それから、永田写真館。中学校の入学式の帰りに2人で記念写真を撮ったんですよね。葵さん、嬉しそうに話してました」
「煩い、煩い! そんなのお前の勝手な妄想だ! 作り話だ! 写真のことだって、どうせ永田から聞いたんだろ! 私は騙されないぞ!」
「なら、自分で確かめてみてください」
隼人は立ち上がり、すぐ隣にあった窓を開けた。
カバンから糸電話を取り出し、片方を窓の外に下す。
そして、自分が持っている方を葵の父親に差し出した。
「どうぞ」
「……おちょくるのもいい加減にしろ」
「そんなことしません。僕の言っていることが信じられないのはわかります。僕も最初は自分の身に起こったことを理解できなかった。だから、自分で確かめてほしいんです」
再度、紙コップを差し出す。
葵の父親の瞳が揺れる。
数秒後、武骨な手が紙コップに触れる。
「あ、……葵?」
掠れた声で呟く。
恐る恐る紙コップを耳に当て――
「う、うぅ……」
次の瞬間には膝から崩れ落ち、呻くように泣き出した。
「葵、葵!」
紙コップに縋りつくように何度も娘の名前を呼ぶ。
隼人には聞こえないが、きっと葵の声が届いたのだろう。
背中を丸め、必死に嗚咽と闘いながら言葉を紡ぐ。
「すまない、本当にすまなかった。お父さんを許してくれ。葵」
それからしばらく、葵の父親は泣きながら葵の名前を呼び謝罪を繰り返し続けた。
次第に落ち着きを取り戻し始めてからはぽつりぽつりとした会話が続き、そのうち照れや笑顔が垣間見えるようになる。
親子の会話にゆっくりと花が咲く。
隼人はその様子を何も言わずにただ黙って見守り続けた。
夜、葵との会話が終わるのを見計らって翔から電話があった。
「……そうか、ありがとう。ごめんね、迷惑かけて」
「いや、それは全然いいんだけどよ。母ちゃんも気にしてなかったし」
内心がっかりしているのを感じ取られないよう、努めて平常心で話をする。
もともと望み薄の頼みだったのだから仕方がない。
また別な方法を考えよう。
そう思考を切り替えた。
花火大会の日。
「お父さんに会いたいな」
あの日以来、葵の言葉が心に引っかかって取れなかった。
ポロリと零れた願いは切実で。
あの想いを無視したくない。
叶えてあげたい。
そう強く思った。
どうしたら葵を父親に会わせてあげることができるだろう。
下の階は空室だ。
誰も住んでいない。
葵の父親は彼女が亡くなった後にこの団地を引っ越している。
隼人がここに越してくる前の話だから、8年は前だろう。
そんな昔に引っ越した苗字しかわからない人間をただの高校生がどう探せというのか。
団地の人に聞き込むか。
そう考えたがすぐに却下した。
この団地は若い夫婦や片親世帯、あとは年金暮らしの老人が多く住んでいるのだが、案外住人の入れ替わりは激しかった。
若い夫婦は生活が落ち着けば別の場所に引っ越していくし、老人も施設に行ったり家族に引き取られたり、亡くなったり。
そんなこんなでここに長く住んでいる人間はそう多くはない。
住人同士の交流自体は多い方だとは思う。
近所の公園で遊ぶ子供たち、散歩する老人に井戸端会議をする主婦層が大半だからだ。
葵が亡くなった直後なら希望はあったかもしれないが、ここまで時間が経っていたのでは望みは薄いだろう。
そもそも、橘家の内情を聞くに近所付き合いが盛んだったとは到底思えない。
身体が弱く外出もままならない娘と朝も夜も働きづめの父。
どことなく閉鎖的な家庭の橘家に詳しい人間など、そもそも当時からすでにいなかったかもしれない。
どうしたものか。
うんうん頭を悩ませているときに思い出したのが、翔の母親だった。
翔が葵は幽霊ではないかと言い始めたきっかけは、昔に聞いた母親の会話。
翔の母親は葵の父親を知っている。
会話の内容的に同じ会社で働いていたのではないか、そう思った。
あわよくば葵の父親の連絡先を知っているのではないだろうか。
翔の母親は以前働いていた会社を辞め、今はスーパーのレジ打ちのパートをしている。
前の会社を辞めたのはいつ頃だっただろうか。
もしかしたら、葵の父親は今も変わらずその会社で働いているかもしれない。
そこがどこかわかればコンタクトをとることが可能だ。
思い立ったが吉日。
早速翔に連絡を入れた。
無茶なお願いにも関わらず、翔は快く引き受けてくれた。
それから数日が経ち、先ほどの電話がかかってきたのだった。
話を聞くに、葵の父親は葵が亡くなった後暫くして会社を辞めたのだという。
社内で娘が自殺したと噂が立ち、虐待が囁かれ始めた頃合いでの自主退職だったらしい。
それが誤解だったとわかった頃にはもう遅く、団地からも引っ越した後だった。
以前の会社の知り合いにも連絡を取ってくれたのだが、葵の父親の所在を知っている社員は誰もいなかった。
「でも、翔のお母さんもよく協力してくれたよね。ありがたいけど、ダメ元だったから」
隼人としては、ここまで翔の母親が協力してくれるとは思っていなかった。
昔の会社で一緒に働いている人を探しているので手伝ってほしいなんて、息子からのお願いでも驚いたはずだ。
「確かに最初は困惑してたな。急に何言い出すんだって。でも葵ちゃんの友達と知り合う機会があって仏壇にお参りしたがってるって言ったら、まぁ何とかなったわ。ちょっと自分でも無理な設定だったかなって思ったんだけどよ。母ちゃん、なんか後悔してるっぽくてさ。自殺だなんだって噂を鵜呑みにしてたこと」
葵が自殺なんてありえない。
実際に話していればわかる。
葵は父親を本当に大切に思っているし、それは父親の方だってそうだろう。
たった2人の家族は、ずっと支えあって生きてきた。
それなのに裏切りのように自ら命を絶つなんて、絶対にないはずだ。
「橘さんが会社を辞めた原因の一端は自分にもあったんじゃないかって、ずっと気にしてたみたいだぜ。これで葵ちゃんの供養になるならって協力してくれた。結局何もわかんなかったんだけどな」
結果的には何もわからなかった。
それでも、葵のために行動してくれたことが素直に嬉しかった。
翔との会話を終えて、電話を切りベッドに寝転ぶ。
最初の状態に逆戻りだ。
探偵を雇うか、SNSで探してみるか。
どれも現実的ではない。
探偵を雇うだけの資金はないし、高校生の戯言に付き合ってくれる大人がいるとは思えない。
SNSも若い世代ならともかく、恐らく50代、60代の男性が積極的に情報を発信しているとも考えにくい。
「あっ」
机の上に置いてあったアルバムを見て、勢いよくベッドから起き上がる。
そうだ、忘れていた。
永田写真館。
葵とその父親が記念写真を撮影した場所。
以前、その写真を探して見つけることはできなかったが、橘親子が永田写真館を利用したのは確固たる事実だ。
当の本人である葵が言っていたのだから間違いない。
永田写真館では写真を撮影した客の名前と電話番号を控えている。
写真が出来上がった時の連絡用だったり、焼き増し依頼があった時に情報を照らし合わせて検索しやすくするためだった。
当時のデータが残っていれば、そこから連絡が取れるかもしれない。
「よし」
人知れずガッツポーズをする。
この時の隼人は社員でもないただの手伝いの高校生が店の大事な顧客情報を観覧できるわけがないとか、個人情報に厳しい昨今に私情で見ず知らずの他人に連絡をとるリスクだとかは全く考えていなかった。
ただ、目の前に現れたか細い希望の光を手繰り寄せようと必死だった。
手伝いの日、隼人は仕事の隙を見て早速館長に質問してみた。
「館長、橘さんって覚えてますか?」
「橘?」
急にどうしたという表情が返ってきたが、気にせず続ける。
「昔、娘さんと2人でここで記念写真を撮ったらしいんですけど」
「橘って、橘省吾か?」
するりと出てきた知らない個人名に戸惑う。
「いや、フルネームはわからないんですけど……」
「娘の名前は?」
「葵です」
「やっぱり省吾だな」
「覚えてるんですか?」
「覚えてるもなにも、あいつとは顔なじみだったからな」
それがどうした、という館長の言葉は隼人には届かなかった。
まさか、館長と葵の父親が知り合いだったとは。
こんなに近くに手がかりがあったなんて。
「あ、あの! その人がどこに住んでるか知ってますか?」
「ど、どうした」
隼人の距離の詰め方に、館長が1歩後ずさる。
珍しく大声を出したことにも驚いているのか、いつもは鋭い目を丸く見開いていた。
「どうしてあいつの住所なんて知りたがるんだ。知り合いか?」
「いえ、橘さんのことは知りませんが、その娘さんと知り合いというか……」
「葵ちゃんと?」
「はい。あっ、亡くなったことは知ってます」
「だったら今更なんで知りたがる」
「それは――」
どうしよう。
そこまで考えていなかった。
実は亡くなった娘の葵と知り合いで、毎晩糸電話で話をする間柄なんです。
その葵が父親に会いたがっているので会わせてあげたいんです。
だから父親の連絡先や住所を調べているんです。
夏は不思議なことが起こるって館長は言ってましたど本当ですね。
なんて、言えるはずもなく。
正直に幽霊だなんだかんだ言ったところで信じてなんかもらえないだろうし、最悪頭がおかしくなったと思われてしまう。
こっちは至極まともな受験生だ。
「えっと……」
翔との会話を思い出す。
「実は、橘葵さんと知り合いで、小さい頃よく遊んでもらったんです。同じ団地に住んでいて。近所のお姉さんって感じで面倒をみてくれて。それで、あー、久々に思い出す機会があって、そういえば1回もお参りしたことなかったなって思って。だから、その……、今更ながら可能ならお参りできないかなって。で、昔ここで記念写真を撮ったって聞いたのを思い出したので、館長なら何か覚えてるかなーって思って……」
最後は笑って誤魔化した。
誤魔化しきれたかはわからないけれど、とにかく言い切った。
「なるほどな」
館長が腕を組みながら頷く。
意外にも納得したようだった。
「若いのに故人を大切にするなんて偉いぞ」
そして褒められた。
館長も弟を亡くしているから、故人を偲ぶ心に胸を打たれたのかもしれない。
常々思っていたことだが、館長は存外情に熱い人間である。
「でもな、残念ながら省吾が今どこに住んでるかは知らないんだ。それこそ最後に会ったのは娘さんの葬儀の日で、それ以来連絡も取り合ってない」
「……そうですか」
やはりそう上手くはいかないか。
肩を落とす隼人に、館長は暫し考えた後にゆっくりと口を開いた。
「連絡、とってみようか?」
「えっ、いいんですか?」
「俺もあいつの近況は気になるしな。まぁ、ついでだついで。番号が変わってるかもしれないしお参りもいいと言うかはわからんからあまり期待はするなよ。娘さんが亡くなってから随分憔悴してたからな。奥さんが亡くなった時もかなり引きずってたから、どんな反応をするのか俺にも想像つかん」
「わかりました。大丈夫です。ありがとうございます」
しっかりと頭を下げてお礼を言う。
ぐっと現実味を帯びた葵と父親の再会に喜びで胸がいっぱいになる。
これで葵の願いを叶えてあげることができるかもしれない。
館長に連絡が取れても取れなくても教えてもらえるようにお願いし、隼人はこの日も仕事に手を抜くことなく手伝いをした。
むしろ、いつもよりも張り切っていたかもしれない。
父親に会える。
そう伝えたら葵はどんな反応をするだろう。
きっと喜んでくれるに違いない。
葵の嬉しそうな声を想像するだけで、隼人の心はふわふわと浮いていた。
「ほら」
館長から差し出されたメモ紙には、とある住所と部屋番号が書かれていた。
「省吾と連絡取れたぞ。今は働いている警備会社の社宅に住んでるらしい。昼間は忙しいから仕事が終わった後なら対応できるって言ってたぞ」
葵の父親が指定した時間は夜の九時以降だった。
住所を確認すると市内であったため、距離的な訪問は問題ないだろう。
「夜遅いが、大丈夫か?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
どことなく心配そうな店長に笑顔で返す。
もしかしたら、葵の父親は隼人の訪問を快く思っていないのかもしれない。
直感でそう感じた。
仕事の関係とはいえ、高校生の訪問時間をこんな夜間に指定するだろうか。
難しい時間に訪問時間を設定することで、意図的に断念させようとしているのではないだろうか。
仕事が忙しいのであれば休日にするとかやり方はほかにもあるだろうに。
こちらが一方的に訪問したいと言っているので文句は言えないが、気分がいいとは言えなかった。
だが、訪問を了承してくれたならこっちのものだ。
どんな時間帯であれ、会いに行く所存である。
表情を見るに、館長も薄々そのことに感づいているのかもしれない。
終始心配そうに顔を曇らせている。
「それじゃあ、次の木曜日の九時半頃にお邪魔します。橘さんにそう伝えてもらえますか?」
「そうか、わかった。伝えておく」
狙うはやはり母の夜勤の日。
それなら夜遅くに出歩いても文句は言われない。
昔はあんなに嫌だった夜勤をこんなに都合よく利用することになるなんて、あの頃の自分は考えもしなかった。
一生懸命働いている母には後ろめたい気持ちもあるが、それよりも譲れないものが人生にはあるのだと隼人はここ数週間で学んでいた。
その夜、父親に会えるかもしれない旨を葵に話した。
サプライズで内緒にしていてもよかったのだが、この前のように急に知らない場所でしかも父親と話せるとなれば葵が混乱すると思っての配慮だった。
喜ぶ葵の声を想像していた隼人だったが、実際に返ってきた反応はあまり明るいものではなかった。
「いいのかな?」
葵の声は暗い。
「私、お父さんに会ってもいいのかな?」
「どうしたんですか? 嬉しくないですか?」
「嬉しいよ。お父さんに会えるのも、隼人くんが私のためにそこまでしてくれたことも嬉しい。でも、死んだ娘に会うってお父さんからしたら喜ばしいことなのかなって、考えちゃって」
「嬉しいに決まってるじゃないですか」
絶対に、嬉しいに決まっている。
隼人にはまだ近しい人間を亡くした経験がないのであくまで想像になってしまうが、もう永遠に会えないと思っていた愛娘とまた会話ができるなんて、喜ばない父親なんてこの世の中に存在しないだろう。
「……そうかな?」
「そうですよ!」
「そうかぁ、そうだといいな」
ようやく葵が笑う。
「僕が絶対に葵さんとお父さんを会わせますので、楽しみに待っていてください」
「……うん、ありがとう。楽しみにしてる」
絶対に成し遂げてみせる。
隼人は改めてひとり静かに決意を固めた。
ここだ。
木曜の夜九時半少し前。
隼人はとある部屋の前に立っていた。
葵の父親が住んでいるという社宅の部屋の前だった。
部屋番号を何度も見直し、間違いがないことを確認する。
社宅と言っても小さなアパートのようなそこは、錆びついた手すりと階段が目立つコンクリートむき出しの建物だった。
そこの202号室。
橘と漢字ひと文字がそっけなく書かれた郵便受けには、営業のチラシが数枚挟まっていた。
台所だろうドアの横にある小さなすりガラスの窓からは明かりが漏れ、住人の在宅を示していた。
ごくり、と生唾を飲み込む。
葵のことを想い勢いでここまできたが、いざ初対面の大人にこれから会うのかと考えると緊張する。
社交的ではない隼人にとってはなかなかにハードルが高い。
しかし、このまま立っていても仕方がない。
折角ここまで来たのだ、やるしかない!
意を決してインターホンを押す。
ビーっという、警戒音のような呼び出し音が聞こえる。
奥から人の動く気配を感じ1歩下がると、ゆっくりとドアが開いた。
「……こんばんわ」
「本当に来たのか」
出てきたのは、50代後半と思われる男性だった。
白髪交じりのボサボサの髪に、同じくあまり手入れされていない無精ひげ。
すべてを拒絶するような切れ長な目の下には濃い隈が目立つ。
こけた頬と顔色から察するに、あまり栄養状態がいいようには思えない。
服装はところどころシミのついた灰色の上下のスウェットで、足元にはサンダルを履いている。
「初めまして、村瀬隼人と申します。橘省吾さんですか?」
「郵便受けに書いてあるとおりですが」
隼人の問いかけにぶっきらぼうに返答する葵の父親。
その外見と声音から、疑念が確信に変わった。
この橘省吾という男は、隼人を快く迎え入れる気が毛頭ない。
いや、ニコニコ招き入れられてもそれはそれで怖いけれど、ここまで露骨に拒絶されると気分が悪い。
「お忙しいのに申し訳ありません。永田さんからお話させていただいている通り、橘葵さんのお参りができたらと思ってお邪魔させていただきました」
「……ああ、そうですか。どうぞ、狭いですが上がってください」
しぶしぶといった感じで部屋の中に通される。
部屋の中は実に簡素なものだった。
必要最低限の家具しかない。
間取りには詳しくないが、時々ひとり暮らしを想定して賃貸のホームページを眺めていたので、1LDKかそこらだろうと予想する。
決して広くはないのに、がらんとしている。
コンビニ弁当の空きガラやビールの空き缶が乱雑に転がっている様子で、かろうじて生活感を感じられた。
そんな中、ひと際異彩を放っていたのが窓際の仏壇だった。
漆塗りに金の装飾が施された立派な仏壇は、この部屋には似つかわしくないほどの存在感を放っている。
今時こんなに立派な仏壇を持っている家庭は少ないだろう。
「どうぞ」
仏壇の前の座布団に案内される。
仏壇の扉は開いており、内部も金色の装飾が輝いている。
中には黒塗りの小さな位牌が2本、仲良く並んでいた。
読み方はわからないが、金色の文字で漢字が縦に並んでいる。
葵と葵の母親の位牌だろう。
それとなく部屋の中を眺めるが、遺影写真らしきものは飾られていなかった。
葵の父親の視線が刺さる。
座りもせず部屋の真ん中に立って隼人を観察する遠慮のない視線に居心地が悪い。
まずは仏壇へお参りをしっかりしよう。
リンを鳴らし、手を合わせ、葵と葵の母親に心の中で挨拶をした。
「あの、橘さん。橘さんにお話ししたいことがあります」
無事にお参りを済ませ、いよいよ本題に入る。
向けられる敵意むき出しの表情に屈することなく、まっすぐにその瞳を見つめた。
「僕、橘葵さんと知り合いなんです」
「それは聞いてますよ。葵と昔仲良くしていたようで。まぁ、それが本当かは疑わしいですが」
「えっ」
葵の父親の言葉に固まる。
「葵はよく話をする子でした。その日にあったこと、思ったことは何かと話してくれた。ほとんど毎日部屋の中で過ごしていて変わり映えのしない日々を送っていたというのに、今日のテレビは何が面白かった、団地の子供たちがこんな風に遊んでいたなんて、随分と楽しそうに話していたものです」
隼人から視線を外し、昔を懐かしむように目を細める。
「だから、おかしい」
再度、隼人を睨みつけながら葵の父親は続ける。
「葵が外出するなんてありえないとは言わない。だが、君の話のように仲良く遊ぶ男の子がいたら私に話さないわけがない。絶対にだ。だから永田から連絡があった時にすぐに気が付いたよ。君が嘘をついているとね。それでも訪問を許可したのはどうしてそんな嘘をついたのか知りたかったからだ。君がどうやって葵のことを知ったのか教えてもらおうと思ったから。来ないなら来ないでいいとは思っていたが、まさか本当に来るとはね」
いつの間にか敬語も外れ、葵の父親は淡々と話す。
その様子に少し恐怖を感じたが、隼人も負けずに言い返した。
「すみません、確かに昔から葵さんを知っているというのは嘘です。でも葵さんと知り合いというのは本当です。つい最近知り合いました」
「何を言っているんだ? 葵は何年も前に亡くなったんだ」
「はい、知ってます。でも、葵さんはまだこの世にいるんです」
「……幽霊で、とでも言うんじゃないだろうね?」
「その通りです」
そして、隼人は今までのことをすべて話した。
糸電話のこと。
葵との関係。
毎晩の会話。
彼女の願い。
隼人が話している間、葵の父親は黙ってそれを聞いていた。
まるで言葉を失ったかのようにひと言も発しない。
顔色は蒼白で、今にも倒れそうだった。
が、
「ふざけるな!」
隼人が話し終えた瞬間、切り替わったように顔を真っ赤にさせ大声で怒鳴った。
「よくもそんな戯言を! 人を馬鹿にするのも大概にしろクソガキが!」
勢いに任せてテーブルに置いてあったビールの缶を投げつける。
しかし、感情に動作が伴わないのか、缶は床にバウンドして場違いな方向に飛んで行った。
残っていた中身が飛び散り、ビール独特の苦みのあるにおいが立ち込める。
「嘘じゃありません。葵さんは今でもあの部屋にいます。そして、あなたにとても会いたがっています」
「黙れ! これ以上私と葵を愚弄するな! さもないと――」
「花火大会、一緒に行ってたんですよね?」
ピタリ、と葵の父親の動きが止まる。
「どうして、それを?」
「葵さんから聞きました。小さい頃に橘さんにおんぶしてもらいながら河川敷の打ち上げ花火を見たって。そのうち仕事の都合で行けなくなったけど、その時の思い出が忘れられないって」
「……煩い」
「それから、永田写真館。中学校の入学式の帰りに2人で記念写真を撮ったんですよね。葵さん、嬉しそうに話してました」
「煩い、煩い! そんなのお前の勝手な妄想だ! 作り話だ! 写真のことだって、どうせ永田から聞いたんだろ! 私は騙されないぞ!」
「なら、自分で確かめてみてください」
隼人は立ち上がり、すぐ隣にあった窓を開けた。
カバンから糸電話を取り出し、片方を窓の外に下す。
そして、自分が持っている方を葵の父親に差し出した。
「どうぞ」
「……おちょくるのもいい加減にしろ」
「そんなことしません。僕の言っていることが信じられないのはわかります。僕も最初は自分の身に起こったことを理解できなかった。だから、自分で確かめてほしいんです」
再度、紙コップを差し出す。
葵の父親の瞳が揺れる。
数秒後、武骨な手が紙コップに触れる。
「あ、……葵?」
掠れた声で呟く。
恐る恐る紙コップを耳に当て――
「う、うぅ……」
次の瞬間には膝から崩れ落ち、呻くように泣き出した。
「葵、葵!」
紙コップに縋りつくように何度も娘の名前を呼ぶ。
隼人には聞こえないが、きっと葵の声が届いたのだろう。
背中を丸め、必死に嗚咽と闘いながら言葉を紡ぐ。
「すまない、本当にすまなかった。お父さんを許してくれ。葵」
それからしばらく、葵の父親は泣きながら葵の名前を呼び謝罪を繰り返し続けた。
次第に落ち着きを取り戻し始めてからはぽつりぽつりとした会話が続き、そのうち照れや笑顔が垣間見えるようになる。
親子の会話にゆっくりと花が咲く。
隼人はその様子を何も言わずにただ黙って見守り続けた。
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