いとでんわ

こおり 司

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一夜の邂逅

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「葵、私の娘に生まれてきてくれてありがとう。……それじゃあ」
 どれくらい時間が経ったのかわからない。
 長いのか短いのかもわからない親子の会話が名残惜しく終了する。
 そこから数分間、まだ夢見心地とでもいうように葵の父親は放心状態になっていた。
 葵との記憶に思いを馳せているのかもしれない。
 ようやく隼人の存在を思い出したように、視線がこちらをとらえる。
 ゆっくりとした動作で下に垂れていた紙コップを回収し、正面に正座をして丁寧な手つきで差し出される。
「ありがとう」
 瞳も声も涙で濡れていた。
 大人がこんなに泣いているのを見るのは初めての経験だったが、情けないとか格好悪いとかは微塵も思わなかった。
 黙って糸電話を受け取る。
「さっきはすまなかった」
 瞬間、葵の父親が深々と頭を下げた。
「えっ、あっ……」
 大の大人に頭を下げられ慌てる。
 今や葵の父親は床におでこがつかんばかりに背中を曲げている。
「どうしたんですか、やめてください」
 急いで肩を掴んでで上体を起こすよう求めれば、そこでようやく元の正座の体勢に戻った。
 まっすぐで姿勢がいい。
 表情は毒気が抜けたように穏やかで、先ほどまでとは別人のような印象を受けた。
「あんな風に怒鳴るべきじゃなかった。君のような若者に対して大人げなかった。本当にすまない」
「いえ、僕の方こそ急に押しかけて娘さんの幽霊がだなんて。今になって考えれば橘さんの気持ちをまったく気にしない一歩的な行動だったと思います。僕の方こそ申し訳ありませんでした」
「……いや、いいんだ。確かに不愉快に思ったのも本当だ。だけど、君は葵のことを想ってここまで来てきくれたんだろう? あの子のことを大切に思ってくれた。それがわかった今、私はとても嬉しいんだ。葵にもそんな相手が現れたんだと、心の底から喜ばしい。それに、君がここにきてくれなかったら、もう1度娘と会話をするという奇跡は起こらなかった。でなければ私は一生続く後悔を背負って生きていくしかなかった」
 あの頃、橘省吾は仕事に明け暮れていた。
 昼間は営業、夜は警備。
 隙間の時間で家事をし、自分の時間なんてないに等しかった。
 それでもこの生活に文句はなかったし、苦にもならなかった。
 すべては愛娘でたったひとりの家族である葵のため。
 彼女は生まれつき身体が弱く入退院を繰り返していた。
 成長するにつれて入院する頻度こそ減ったが、普通の子供のように元気に外で走り回ったりはできず、ほとんどを家の中で過ごしていた。
 葵のために病院代を。
 もっと腕のいい医者が、設備が環境が整っている病院で心置きなく葵を任せられるよう、資金を稼ぐのに必死だった。
 ただ、心のどこかでわかっていた。
 葵のためというのは紛れもなない本心だったけれど、その葵から逃げている自分を知っていた。
 年々、亡くなった妻に似てくる娘。
 顔が、声が、雰囲気が生前の彼女を彷彿とさせる。
 葵の母親もまた病弱な人だった。
 あんなに我が子に会うことを楽しみにしていたのに、出産の負担に耐え切れず絶命した愛する人。
 床に伏せっている葵を見るたびに、白布で顔を隠し霊安室で横たわる妻の姿が脳裏を過る。
 またあんな思いをするのか。
 あの喪失感、絶望感に今度がはひとりで耐えなければいけないのか。
 そう考えるだけで押しつぶされそうだった。
 そして、生きている娘に対してそんなことを思う自分に吐き気をもよおすような不快感を抱く。
 そんなことを繰り返す毎日が嫌で、いつの間にか聞こえのいい理由をつけて仕事に没頭していた。
 あの日はいつもよりも遅い時間に帰宅した。
 どうしてその日に限って遅かったのかは覚えていない。
 ただ、数日後に控えた葵の誕生日の計画を練っていたのは覚えている。
 営業先に持っていく手土産を探しにショッピングモールへ足を運んだ際に、葵に似合いそうなワンピースを見つけた。
 普段はあまり外出しないせいか年頃なのにほとんどおしゃれをしない葵だが、以前放送していたテレビでトレンドのファッションを紹介するコーナーを真剣に見ていた気がする。
 そういえば、そこで紹介されていた洋服もこんなワンピースだった。
 これを着て、例のパンケーキの店に連れて行ったあげたらどれだけ喜ぶだろう。
 最近は体調もよさそうだし、誕生日に外出するくらいは問題ないだろう。
 ワンピースは明日の昼休みにでも買いに行こう。
 パンケーキの店にも予約の電話を入れなければ。
 それから……。
 時刻は葵がとっくに眠っている時間で、当たり前だが部屋の中は静かだった。
 ただ、その静けさにどことなく違和感を感じた。
「……葵?」
 寝顔を確認するだけ。
 いつもは勝手に開けない娘の部屋のドアを恐る恐る開ける。
 床にうつ伏せに倒れた愛娘が冷たくなってそこにいた。
 それから先の記憶は曖昧で、気が付けば自宅に設置された祭壇を前に泣いていた。
 葬儀屋が気を利かせたのか、店の好意でということで葵が食べたがっていたパンケーキを供えてくれる。
 いつそんな話をしたんだったか、まったく思い出せない。
 ただ、それを見て思い出す。
 今日が葵の誕生だった。
「ずっと葵に謝りたかった。一緒にいてあげられなくてすまない、寂しい思いをさせてすまいない、勝手に妻と重ねて逃げてすまない。こんな父親ですまないと。葵が亡くなってから頻繁に夢を見るんだ。妻と葵が無言で私を見つめ続ける夢を。恨めしそうな目で、一瞬もそらすことなく。私は必至で謝るんだが、2人は何も言わずに消えていく。いつもそこで目が覚める。会社での噂にも耐えられなくなって、引っ越して環境を変えてみても状況は変わらない。眠ることが怖くなって、結局仕事に逃げた。どこまでいっても私は変わることのできる人間ではなかった」
 自嘲気味に笑って、葵の父親は続けた。
「でも、今日葵と話すことができて、ようやく少し救われたような気がした。ようやく謝ることができたし、今まで言えなかった感謝も伝えることができた。村瀬くん、君には感謝してもしきれない。本当にありがとう」
 もう1度、深々と頭を下げられる。
「……」
 隼人は何も言わず、頭を下げ返した。
 その後、葵の父親が車で自宅まで送ってくれた。
 こんな夜遅くに未成年をひとりで帰すわけにはいかないという大人の責任感らしい。
 車の中での会話はなく、無言の時間が続いた。
 団地に到着し、車を降りる際に隼人は糸電話を差し出した。
 葵の父親が持っていた方がいいと考えての行動だったが、それはやんわりと断られた。
 隼人に持っていてほしいと葵の父親は言った。
 葵との繋がりの糸を大切にしてほしいと。
 その思いに応えるように、隼人は糸電話を胸に抱えた。
 短い挨拶を済ませ、車が走り去る。
 その姿が見えなくなるまで、隼人はただ黙って見送った。



 この夜、隼人は夢を見た。
 夢、だと思う。
 ただ、現実というにはあまりに曖昧で、夢というには妙に鮮明だった。
 薄暗い知らない部屋にいた。
 生活感はあれど、よく片付いた部屋だった。
 村瀬家と同じ間取りのそこに、ピンとくる。
 ここは、橘家だ。
 確信を持って奥に進むと、やはり奥に部屋があった。
 隼人の部屋と同じ場所。
 ということは……。
 ノックをすると、中から小さな返事が聞こえた。
 聞きなれた、冬の夜の空気のような透明感のある声。
 ドアを開ければ、ベッドに座るひとりの少女と目が合った。
 月明かりに照らされ、ほんのりと光って見える。
「葵さん」
「こんばんわ、隼人くん」
 葵だ。
 1度も会ったことがないのに、瞬時に理解する。
 黒い髪は耳が覗くほど短く、ほっそりとした輪郭を強調している。
 一重の瞳はおっとりとした印象を与え、唇は血色がよくないのか色が薄い。
 肌は病的なまでに白く、背景から浮き上がっているように見えた。
 病弱なのが一目でわかる、それでも可愛らしい少女が優しく微笑んでいる。
 何度も何度も想像した橘葵の姿とはもちろん違ったが、目の前の少女は確かに橘葵であり、そのことに一切の違和感はなかった。
「初めましてになるのかな? なんだか恥ずかしいね」
 言葉通り恥ずかしそうに笑う葵に見惚れる。
「どうかした?」
「なんでもないです。えっと、改めまして村瀬隼人です。初めまして。……こんばんわ、葵さん」
 葵の問いかけに慌てて頭を振って、遅ればせながら挨拶をした。
「今日はありがとう。お父さんに会わせてくれて。すごく嬉しかった」
「いえ、そんな」
「私ね、ずっと心配だったんだ、お父さんのこと。ひとりぼっちにしちゃったから、寂しい思いしてないかなって。お父さんが引っ越しても、ずっとずっと考えてた。だから、ここにいたのかな。私の記憶で出来上がったこの部屋に
 」
 感慨深げに部屋の中を見回す。
 派手ではないけれど、年頃の女の子らしい部屋だった。
 さっき通ったリビングも、きっと葵の記憶のままなのだろう。
「でもね、なんとなくもう大丈夫な気がするの。私も、お父さんも」
 どこかすっきりした様子で葵は言った。
「こうして隼人くんとも会えたし、もう思い残すことはなにもない。ありがとう、隼人くん。あの日、糸電話を渡してくれて、私を受け入れてくれて、私のことを想ってくれて、お父さんに会わせてくれて。すっごくすっごく感謝してる」
 ベッドから立ち上がり、葵が近づいてくる。
「私、隼人くんと出合えて本当によかったよ!」
 目の前に立ち隼人の顔を見上げ、思い切り抱きついた。
「僕も、葵さんに会えてよかったです。とっても楽しくて幸せな時間でした」
 隼人も葵を抱きしめ返す。
 痩せた身体は柔らかくなく、体温も感じなかったけれど、この瞬間はとても愛おしくて幸せだった。
 それから暫く抱き合った2人は、いつまで続くのかわからないこの時間をめいっぱい大切に過ごした。
 いつの間にか部屋の中央に置かれたガラステーブルの上に、永田写真館で借りたアルバムが置かれていた。
 不思議な出来事に、しかし2人はまったく気にしない。
 そもそもこの状況以上に不思議なことなんてない。
 肩を並べてベッドに寄りかかり、一緒にアルバムの写真を眺める。
 ページを捲るたびに、葵からは感嘆のため息が漏れた。
「すごいね。こんな景色を自分で見られたら幸せだろうね。自分の足で歩いて自分の目で見て、自分の手で写真を撮る。私にはわからないけど、だけど、とっても幸せなことなんだろうね」
 写真を見た後はいつも通りのおしゃべりに。
 今日は1時間という制限はないので、次から次に話したいことが溢れてくる。
 糸電話越しじゃない、顔を見て話せるということも2人の会話を弾ませた。
 だんだんと空が白み始める。
 葵は何かを感じ取ったのか、儚げに微笑んだ。
「ねぇ、最後に糸電話で話そうよ」
 テーブルの上の糸電話を指して言う。
 2人の関係が始まるきっかけになった糸電話が、この光景を見守るように置いてある。
「いいですね」
 隼人は糸電話を手に取り、いつも通りデコレーションされている方を葵に渡した。
 赤い糸がきらりと光る。
「運命の赤い糸、なんちゃって」
 恥ずかしそうに言う葵につられて、隼人の顔も熱くなる。
「えっと、それじゃあ……」
 熱を誤魔化すように視線を泳がせ、軽く咳ばらいをする。
 糸がピンと張るように距離をとる。
「もしもし」
「もしもし」
 隼人の声に、葵が返す。
「……」
 葵を見つめ、隼人は次の言葉を紡ぐ。
「もしもし、届いていますか。この気持ち」
 葵の目が大きく見開かれ、唇が震えた。
「もしもし、届いていますよ。その想い」
 笑い合う2人の頬を、朝日に照らされ銀糸のように光る涙が流れた。



 この夢以来、何度糸電話を垂らしても、葵の声が返ってくることはなくなった。

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