Amazing grace

国沢柊青

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act.36

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 その日の朝はいつになく冷え込んで、通りを行き交う車から吐き出される排気ガスが、まるで舞台から立ち上るドライアイスの煙のように大気中に舞い上がっていた。
 道路はいつになく白っぽい色で、靴の裏からでも寒さがジーンと伝わってくる。
 通行人の誰もが言葉少なに肩を怒らせて歩いており、どの人間も平等に不機嫌だった。
 マックスも例外ではない。
 生まれはこの街よりずっと寒いイギリスのギルフォードだが、寒さは苦手だった。
 寒い空気に晒されると、白い鼻先がトナカイみたいに真っ赤になる。子どもの頃はそれでよくからかわれていたっけ。 
 悴む指先に息を吐きかけながらマックスが回転ドアを潜ると、温かいエントランスホールに、ほっと一息をついた。
 いつものように受付カウンターの横で油を売ってるサイズと朝の挨拶を交わす。
「よう、先生」
「おはよう、トム。今朝は一段と寒いね」
 頬と鼻先を赤くして出社したマックスに、サイズは少し眉間に皺を寄せた。
「先生、腰どうかしたのか?」
「え?」
 マックスは、無意識のうちに腰に手をついて、そこを庇う仕草をしていた。
 それに気がついて、マックスは「ははは」と気のない笑い声を上げた。
 サイズも察するものがあるのか、同じように「ははは」と気のない笑い声を上げる。
 サイズはマックスの顔を指差して、「ほどほどにしろよ、先生。クリスマスにひとりだと思ったら、すぐこれだ。いいねぇ、モテる男は」と冷やかした。
 マックスは大げさに肩を竦めてみせる。
 サイズには、このまま少し誤解させておいた方がよさそうだ。
 マックスは笑顔を浮かべたまま、受付カウンターに身体を向けた。
「ウォレスさんは出社してる?」
 受付嬢のマリッサは、いつかと違って、マックスに夢見るような視線を送りながら、「いいえ、まだいらしてません」と答える。
「・・・そう・・・」
 マックスが呟くと、サイズがマックスの横に立ちながら言った。 
「珍しいな。いつもならこの時間、彼はもう来ていてもおかしくないのに」
 ── シンシアとなんかあったのかな・・・。
 マックスは、電話で話していたウォレスの少し神経質な声を思い起こしていた。
「先生、ウォレスさんに何か用事でもあるのか? 来たら言付けといてやるけど」
 サイズの申し出に、「いや、大したことないから」と少し笑顔を浮かべた。
 ── 本当にどうしたんだろう・・・。
 理由はわからないが、何か胸騒ぎがした。 
「あ、それよりも先生」
 サイズがマックスの肩を叩く。
「今日はうかうかしてらんねぇなぁ」
「何?」
 何も思い当たらないマックスは、怪訝そうにサイズを見る。
 サイズは「これだよ・・・」と溜息をついた。
「あんた、今日USパワー誌の取材を受けるんだろう! あのUSパワー誌だぞ!! 信じられないね、この男は! 俺なら、あの雑誌に出れるとしたら、パンツいっちょで逆立ちして、街中練り歩くね」
「あいにく、俺はこの季節にパンツいっちょで外に出るのも嫌だよ」
「例え話だよぉ、わかんねぇなぁ! もっと喜べよ! ちゃんといい服着てきたか? ほら、髪の毛も乱れてるじゃねぇか・・・」
 無骨な手で、マックスの髪の毛を乱暴に撫で付けてくれる。
「や、やめろよ、トム! 痛い、痛いって!」
 2人のこの珍な光景を見て、受付を通っていく社員や取引先のビジネスマンが笑っている。マックスは顔を真っ赤にした。
「もう、皆見てるじゃないかよ。恥ずかしいなぁ」
「だったらもっと気合入れろよ。先生ったら、ホント欲がねぇっていうか、鈍感というか・・・。有名になれるチャンスじゃねぇか。出世欲がないんだから・・・」
「いいんだよ、そんなこと」
 サイズはまだ言い足りなさそうにしていたが、このままではパンツの中まで覗かれてチェックされそうだったので、早々に医務室へと向かった。
 出世とか、有名になりたいとか、そんな欲望は、今のマックスにとって、本当に意味がなかった。
 ── 今大切なのは、あの人の心ただひとつ。
 酷くセンチメンタルな話だが、本物の恋愛をすれば、誰だってそう思うはずだ。
男だろうが女だろうが、関係ない。人として、自然な感情だ。
 医務室のドアに手をかけようとした、まさにその瞬間。 
「ローズ先生!」
 広報部のキャサリン・グッテンバーグだった。ファイルを抱えて走ってくる。 
「ミセス・グッテンバーグ」
 キャサリンは息を切らせながら、マックスの肩に手を置くとこう言った。
「ミスよ。先週、離婚したの」
「あ。・・・すみません」
「いいのよ、私の方が多額の慰謝料を払ってまで別れたかったんだから」
「なるほど」
 勇ましいキャサリンの表情を見て、マックスは頷く。
「実は、マックス。出社早々悪いんだけど、上の会議室に来て欲しいの」
「え? どうして・・・」
「取材の約束は10時だったんだけど、随分早く来ちゃったのよ。早くあなたに会いたいってね。もし急ぎの用事がなかったら、早速会ってもらえないかしら。こちらも先方に多少無理を言ってるから、そうしてもらえるとありがたいわ。案の定と言うかなんというか、社長はまだ会社に来てないし、とりあえず今はビルが相手をしているの。お願い」
 マックスとしては、急ぎの用事など特にない。
 患者が入れ替わり立ち代り現れるERの時代とは違い、せいぜい各課から要請されたレポートや社員のヘルスコンディションに関するカルテの整理、社内検診に人生相談とどれも差し迫ったような内容の仕事は少ない。
 時折、突発的な怪我や病気に遭遇することはあっても、どれもマックスの手腕でたやすくやりくりできるレベルである。
「わかりました。コートを置いたら、すぐに行きますよ」
「ありがとう。第1会議室よ」
 マックスがルームランナーで走った例の会議室である。
 マックスは、医務室のクローゼットにコートをかけた後、会議室に向かった。


 マックスが最上階のフロアに降り立つと、すれ違いにエレベーターに乗り込む社員が笑顔で挨拶をしてきた。マックスもそれに笑顔で答え、足を進める。
 第1会議室に入る前、社長室のドアを挟んでひとつ隣の、重厚なドアを少し見つめた。
 ── ジムは、もう出社したのだろうか・・・。
 マックスは、何かに引かれるようにウォレスのオフィスのドア前に立つと、ノックをしようと手を上げた。
「ローズ先生! よかった、入って」
 マックスは、反射的に顔を上げた。
 会議室のドアが開いていて、キャサリンが顔を覗かせていた。
「ああ、すみません」
 マックスは、ウォレスのオフィスのドアから手を離すと、会議室に入った。
 入口から一番遠いソファーに、見たことのない3人組が座っていた。
 副社長のビル・スミスの向かいには、チャコールグレイの品のよいカジュアルジャケットとネイビーブルーのストレートジーンズを着た男が座っており、その隣のロングソファーには、足元にジェラルミンの大きなハードケースを置いた髭づらの男と同じくジェラルミンの、こちらは小ぶりな四角いケースを膝に抱いている女性がいる。女性は明るい金髪を短く切っていて、マニッシュな感じだった。
「やぁ、やっと現れたか」
 ビルが立ち上がる。
 それにあわせて、訪問者も一様に立ち上がった。
「これは、これは・・・。写真で見るより迫力あるな。いや、本当にお美しい」
 カジュアルジャケットを着た男にそう言われ、マックスは「は?」と声を上げた。
一瞬何を言われたかわからなかったのだ。
「嫌だわ、ミゲルさん。彼、固まっちゃったじゃないですか」
 キャサリンが笑い声を上げる。 
「いや、失礼しました。つい本音が出てしまって。男性にかける言葉としては、些か不適切だったかもしれませんね。USパワー誌の記者、マーク・ミゲルです」
 その記者は、マックスの前まで来ると、鮮やかな微笑を浮かべて手を差し出してきた。
 ラテンの血を感じさせる顔や背格好である。だが、その英語はとてもきれいな発音だった。 
「彼はUSパワー誌のスター記者だよ」
 ビルがそう言ってミゲルを紹介する。
 だがマックスには、このミゲルという男、記者というよりテレビに出ていてもおかしくないほどの容姿をしていると思った。
 存在自体が華やかで人の目を惹きつける。
 今はラフな恰好をしているが、きちんとしたスーツに身を固めればラテンの情熱的な瞳を持つショーモデルといっても通じるだろう。
 年齢は30を少し越えたぐらい。身長はマックスとほぼ同じで、ガタイがしっかりしている分、あちらの方が大きく感じる。
 爽やかな笑顔が印象的な、非常に魅力的な男だった。
「スター記者というのは大げさですよ。うちには、ランドルフ・ダーマーや、ジェンナ・ベイツがおりますので」
 その名前ならマックスでさえも聞いたことがある。
 だが、ビルが言うからには、この男もダーマーやベイツに引けを取らない一流の記者なのだろう。まさかそんな超一流の記者が乗り込んでくるとは思わなかった。
 マックスが手を差し出すと、ミゲルの方から握り合わせて来た。
 しかし意外にも、その手は強引ではなく、優しげだった。
「こちらはカメラマンのトッドに、メイクアップ・アーティストのシルビア」
「メイク?!」
 マックスが驚いた声を上げた。
 その大きな声に、紹介されたばかりのシルビアが目を丸くした。
「メイクって、誰にするんですか?」
 マックスの台詞に、一同が笑う。
 キャサリンが耳打ちをした。
「こんなきちんとした取材では、男もメイクをするの。とはいっても、肌の色を整えるぐらいだから、大丈夫よ」
「でも、おかしくないですか? そんなの」
「撮影の時だけよ。キングストンが取材を受ける時なんか、もっと凄かったのよ。彼、自分専用のメイク道具も持ってたんだから」
 確かに、あの男ならありそうな話だ。
 マックスは、嫌な記憶を思い出さないように、現実に目を向けた。
 ミゲルが、強張った顔つきをしているマックスを見つめ、肩を竦める。
「取材は、もう少し経ってからにしましょう。彼、大分緊張しているみたいだから。少し雑談でもして、気分を落ち着けてもらった方がいい。── お時間はよろしいですか?」
「ええ・・・まぁ・・・」
 マックスは不安そうにキャサリンとビルを見る。
 ビルが笑ってマックスの肩を叩いた。
「私も初めて取材を受けた時は、君と同じような具合だったよ。急な用事がないようであれば、今日一日、ミゲルさんと過ごすといい。きっといい記事を書いてくれるから」
「大丈夫よ、ローズ先生。あなたは普通にしている時が一番素敵なんだから。リラックスさえできれば、後はミゲルさんにお任せすればいいわ。何かトラブルがあれば私に連絡を頂戴。私がついて回らない方が、緊張しなくていいでしょ。おせっかいおばさんは消えるわ」
「そんな、おせっかいおばさんだなんて・・・」
 そう言うマックスにキャサリンはウインクを残して、ビルと連れ立って会議室を出て行った。
 ひとり会議室に残されたマックスは、ゆっくりと振り返る。
 その神妙な表情を見て、ミゲルが「ははは」と笑った。
「何も取って食いはしませんよ。普通に話ができたらそれでいいんです」
「はぁ・・・」
「ミゲルさん、俺達はどうしましょう?」
 カメラマンが、機材の入ったケースを肩にかけながら訊く。
「そうだな。ロケーションのいい場所を探してみてくれ。今回は自然な感じの場所がいい。立入禁止区域については先ほど貰った資料に書いてあるから、注意してくれよ。そうだなぁ・・・。ローズさん、女性がいた方が話しやすいのであれば、シルビアも同席させますが・・・」
「いえ、僕は別に・・・」
「じゃ、シルビアもトッドについて光の位置のいいところを探しておいてくれないか」
「はーい。ちょっと残念だけど」
 シルビアが真っ赤でマットな唇を可愛く歪ませながら言った。
 トッドとシルビアが部屋を出て行く。
「さて」
 ミゲルがマックスを見る。
 また彼は少し笑った。
 見事なほどに真っ白い歯。浅黒い肌が健康的なだけに、余計輝いて見える。
「まだ緊張しているようですね。・・・そうだ、朝食はもう済んでいますか?」
「いえ・・・今日は寝坊しちゃって・・・」
「よかった。実は僕もまだなんです。この近くでいいお店はありませんか?」
「1ブロック先に、美味いコーヒーを出してくれるところがありますよ。食べるものは、取り分けいいってことはないけれど・・・」
「いいですね、そこにしましょう。丁度そろそろカフェインが切れる頃だったんだ」
「え?」
「カフェイン中毒なんですよ。ありがちでしょう? あ、先生の前で、この話はまずかったかな」
 顔を顰めて言うミゲルに、マックスはようやく少し笑った。
 それを見たミゲルも、ほっとしたように少し笑ったのだった。
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