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act.84
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セスがその男を連れてきたのは、二日後のことであった。
マイク・モーガンが、マックスの胸骨の具合をチェックしている時に病室のドアがノックされ、二人連れ立って入ってきた。
黒ずくめのその男は、診察の為にパジャマの前をはだけたマックスの身体に残る生々しい傷跡や痣に少し表情を曇らせた。
男は努めて表情を押し殺しているようだが、さすがに痛々しかったのだろう。
大分回復したといっても見てくれは相変わらず一人前の怪我人だ。
顔には細かな傷がまだ残っているし、左腕は無骨なギブスで覆われている。左耳には破れた鼓膜が治るまで保護するためのカバーが掛けられてあった。
診断を終えた後、再び胸部を固めるために看護師が手慣れた様子で包帯硬く巻いていく様子を見る限り、彼が既に一人で歩けるようになるまで回復しているとは思うまい。
「お気の毒に」
いかにも英国らしい硬い響きのアクセントで、男は言った。
「英国大使館員のジョイス・テイラーです。初めまして」
全身黒ずくめのスーツ姿が愛しい人を思い起こさせる。だが、その面差しは思ったよりも若い男だ。だが、セスの話だと、セスよりも年上らしい。
「ようこそお越しくださいました。どうぞ、かけて」
マックスにとって、テイラーの第一印象は悪くなかった。
男の誠実さが窺えたし、感情を押し殺してはいるものの、犯罪に対して強い怒りと憤りを感じている様子だった。
マックスが傷ついていない右手を差し出すと、テイラーは黒の革手袋を外して握手をしてきた。少し手のひらが湿っている。緊張しているのは、お互い様か。
「早速なんですが・・・。だいたいの話は、彼から伺っています」
テイラーが、隣に座るセスをちらりと見て言った。
「正直言って、あなた達の申し出にためらいを感じました。母国で起きた長く暗い時代に生きた人々の話だ。罪のない人を手に掛けてきた人間を擁護することは、非常に難しいことです」
マックスはテイラーの言葉にドキリとして、セスを見た。
露骨に不安げな顔をしてしまった。どうしても、その感情を抑えることができなかった。
そのマックスの腕に、テイラーの手がそっと触れた。
「 ── だが、ジェイク・ニールソンが絡んでいるのなら、話は別です」
マックスはハッとしてテイラーを見た。
テイラーのブラウン色の瞳が、真摯にマックスを見つめていた。
「ジェイク・ニールソン。ご存じの名前ですね」
ああ、忘れるものか。
忘れられるはずがない。
愛する人を、身体ばかりかその心までズタズタに引き裂いた男・・・。
マックスの瞳に、静かな怒りの炎が浮かび上がるのを、テイラーは見逃さなかったようだ。彼はゆっくりと頷きながら、「そうです。あの非道の限りを尽くした悪魔のような男。私が追っているのは、そのニールソンなのです」と囁くように言った。
「本当なんですか。その男がこの街にいるというのは・・・」
テイラーは、すっと身を引いた。
「いるでしょう。── いや、“いると信じたい”といったところでしょうか。実際のところ、誰もわかっていない。本人以外はね。・・・・・あなたの大切な人は、それを確信していたようですが」
マックスは再びセスを見た。
── テイラーはどこまで知っているのだろう。自分とジムのことを・・・。
だが、セスは必要最低限の情報しかテイラーに渡していないようだ。
テイラーは、黒いブリーフケースの中を探りながら、「あなたの命の恩人らしいですね。なんでも会社内で暴漢に襲われたところを救ってもらったとか。例え相手がどのような凶器を持っていたとしても、彼ならいとも簡単にあなたを救うことができたでしょう」と話し続けた。
テイラーが、モノクロの写真をマックスの前に広げる。
「アレクシス・コナーズ。 ── ジェイク・ニールソンのグループの中で、最も優秀だった彼の部下です。様々な爆破事件や暗殺計画に荷担していた」
黒い雑踏の中、古めかしい車に乗り込む男の陰に垣間見えている少年の白い顔。
少し眉間に皺を寄せているその横顔は少年らしくない憂いに満ちていて、面差しにはまだあどけなさが残っているだけに、余計痛々しく見えた。
真っ黒い光のない瞳。彼はこの時、何を見ていたのか・・・。
マックスは息を吸い込むと、右手で口を覆った。
傷ついた胸は、骨折のせいだけでない痛みに襲われた。
マックスの知らないウォレス。マックスの知らない男。
「彼についての情報はあまり残っていません。彼は非常に頭が良く、証拠を残さなかった。当時の捜査当局も、このあどけない少年が恐ろしい犯罪にかり出されてるとは最後まで思っていなかった。ただの取り巻き連中の一人だと、信じて疑わなかったのです。だが、彼はニールソンの片腕として、一番困難で汚い仕事をさせられていた。そして彼は子どもだったがゆえに、従順にそれに従っていたのです」
マックスの目の前に、瓦礫の山が映し出された写真が差し出された。
「ちょっと、それは・・・」
その写真の内容に、セスがテイラーを非難する声を上げる。
マックスは「大丈夫」と咳払いをした。
写真に遺体らしきものは写し出されていなかったが、ここで多くの人々が命を落としたのだろう。
「現実とは残酷なものです。あなたの大切な人は、少なからずこのような犯罪に荷担していた。もっと血なまぐさい写真もあります。それでも、彼を救いたいと思うのですね」
写真を持つマックスの手が震えた。
二つの写真を見比べる。
そのマックスに畳みかけるようにして、テイラーは言う。
「彼を救うということは、ひょっとするとあなたの中のパンドラの箱を開けることになるのかもしれない。今より辛い思いをすることいなるのかも。── それでもあなたは、続けるというのですか?」
マックスは瞳を閉じた。
いろんなジムの姿が、目の奥に浮かんでは消える。
廊下に差し込む光の中で静かに佇むジム。怒りにまかせてナイフを投げつけたジム。時には顎に手を当てて窓の外を悲しげに見つめ、時には背筋が凍るほどの冷たい光を瞳に湛え、相手を圧倒した・・・。
「あなたの大切な人が抱えている秘密は、とても大きくて辛い。ひょっとしたら彼は、あなたが思っているような親切な人間ではないかもしれない。そういう一面を知ることになっても、あなたは耐えられますか?」
「おい、テイラー、言い過ぎだぞ」
セスがテイラーを押さえても、テイラーはやめなかった。
「大事なことなんだよ、ピーターズ。『こんなはずじゃなかった』では困るんだ。これから彼が関わろうとしていることは、貴様だって知らない領域のことなんだ」
テイラーは、マックスの肩を掴んだ。
「それでもあなたが頑張れるというのなら、私は喜んであなたに手を貸そう。いや、こちらの方がお願いしたい。ジェイク・ニールソンを捕らえるために、ぜひ協力して欲しいと。・・・どうです?」
マックスの中に感情の嵐が起こり渦巻いていた。
それは、今まで無理に押し殺してきた事件のトラウマだった。
自分の部屋が爆発した時の衝撃。
光。
ばらばらに吹き飛んだ少年。
振動。
テレビで見た、自分の家だった瓦礫の映像。
灰色の画面。
まるで戦場のような風景。
その瓦礫の山の上に、黒いコートを着たジムが突然現れる。
まるで白昼の悪夢。
痛い妄想の嵐。
止まらない。止まらない・・・。
マックスは右手で顔を覆った。
負の映像は消えることがない。
音が聞こえないはずの左耳から轟音が聞こえてくる。
まるで竜巻の中にいるような、暴風が吹き荒れるような音が。
テレビ画面の向こうに立つジムが、マックスを見つめてくる。
灰色がかった白い肌。赤く充血した瞳。
かっと目を見開き、その両手をゆっくりと翳す。
真っ赤に血塗られた両手。
どんどん若返っていくジムが、声にならない怒号の声を上げ、牙を剥く。
やまない轟音。
もうやめて。もう許して。
「マックス! マックス大丈夫か?! テイラー! やりすぎだぞ、お前!」
ベッドに蹲るマックスの様子を見て、セスは彼の背中を擦った。
鋭くテイラーを責める。
さすがにテイラーもバツが悪そうな顔をして「すまない」と小さく謝った。
だが、マックスの悪夢は終わらない。
あなたはジムなのか?
それとも、俺の知らないアレクシスという男?
血塗れのジムの手が、爆風に吹き飛ばされた少年の足を掴む。そして高らかに笑う・・・。
胸が張り裂けそうに痛い。
マックスの身体は痛みに喘ぐ。
その先にあるのは、ただ真っ赤に染めらた血の記憶だけなのか?
俺は、耐えることができる?
ジムの足の下の瓦礫に埋もれているのは、パパとママ。
あまりに幼い時にお別れをしたから、顔すら定かでない・・・。
かわいそうなパパとママ。
かわいそうな人々。
その上に立つ少年は、高らかに笑い続ける。
お前は、本当は一体誰?
轟音がぴたりと止む。
少年が、マックスの方に顔を向ける。
その白くあどけない面差しに、深紅の涙がこぼれ落ちた・・・。
連日に及ぶ寒波のせいで、部屋の中にいても吐く息は白い。
だがそのおかげで、部屋の中に異様な臭いは発生しなかった。
母の死体が横たわる部屋のドアは、あの日から閉ざしたまま。
ジェイコブは、自分が母を殴り殺したことをきちんと認識していた。
思わずカッとしてついつい母を殴り殺してしまったが、罪悪感を感じない訳ではなかった。だが、母にどやされることがなくなると思うと、気分は清々する。
母がいない日々を初めて体験するここ数週間は、実に穏やかに過ぎていった。こんなことなら、早くそうしておくべきだったのか。
ジェイコブの日常は、ごく普通に過ぎていった。
ベン・スミスもジェイコブの前からすっかり姿を消し、以前のようにひとりぼっちで仕事に向かう日々が過ぎている。
ただこれまでと違うのは、いつもポケットに手作りの爆弾を温めていることだ。
最後の材料で作った大事な子。
ストッパーをかけている限り爆発することはないが、爆発物の圧縮率を上げたそれは、仕掛けようによって確実に人を殺傷できる威力があった。
ジェイコブは、その最後の爆弾をどう使うか、考えあぐねていた。
数週間おとなしく普段の生活を続けることになったのは、そのためだ。
ここのところ、暇な時間を見つけてはミラーズ社の様子を窺いに行ったが、あの愛すべき『ボス』の姿は見ることができなかった。
警備の警官の目を縫って思い切って地下の駐車場も確認してみたが、車もない。長期の出張に出ているのだろうか。
きっとマスコミに追われるのが嫌で、身を隠しているに違いない。マフィアの高飛びはよくある話だ。
あの日以来、ジェイコブの妄想は更に深くなっていった。
目標の対象が見えなくなり、退屈してしまうと、妄想の世界に浸るしかないからだ。
ボスの唯一の弱点をジェイコブがつぶしてやったおかげで、もうボスには怖いものなどなくなったはずだ。
報道によるとボスの『女』は手酷い傷を負い、頭もおかしくなって、もはや廃人同然のようだ。
ジェイコブは、その結果に満足していた。
一時期、『女』が助かったことに深い苛立ちを感じていたジェイコブだったが、すぐにマスコミが『女』の精神がおかしくなったらしいとの報道を始めると、いい気味だと胸がすっとした。
ボスを堕落の道に陥れるような人間だ。
そうなって当然なんだ。
今日は非番だから、一日中ミラーズ社を見に行くのもいいかもしれない。
今も警官がうろついているのは事実だが、長いこと退屈な警備の仕事に就かされている警官達に緊張感はない。
分厚い本の一冊も持ってベンチに座っていたら、怪しまれることもないだろう。
あいつらは、馬鹿だ。
目の前を通り過ぎても、ジェイコブの上着のポケットに爆弾が大事にしまわれているとは気づきもしない・・・。
自宅近所のダイナーでバターを塗った薄いトーストにかじり付きながら、ジェイコブはポケットの中の爆弾に思いを馳せた。
「今日こそツケを払ってちょうだい。でないと食後のコーヒーはでないからね」
ジェイコブの体重の倍はありそうなウェイトレスが、ジェイコブの机に伝票を置きながら、そう一言付け加える。
カウンターの中でミンチ肉を焼くこの店の主人が、陰気そうな目つきでジェイコブの方をちらりと覗き込んだ。
「さぁ、食べ終わったんなら、早く席を立ってちょうだい!」
目の前のカウンターに座る老人を追い立てるウェイトレス。
本当ならこんな胸くそ悪い店なんて来たくもないが、ジェイコブのような貧しい人間でもツケがきくので仕方がない。
だが、客を客とも思わない店員の態度を見ていると、いっそのこと、このポケットにある爆弾をこの店のガス栓付近に仕掛けてやろうかと思う。
だがすぐに思い直した。
── これは大事な最後の爆弾なんだ。よくよく考えて、仕掛けるところを選ばなくては。
やはりボスを守るために使うのがいい。
俺はボスが唯一信頼し、頼りにしている部下なんだから。
ボスを罠に填めようとした欲深い男は車ごとふっとばしてやった。
ボスを惑わす淫乱な『女』も命までは奪えなかったが、頭の中をキャベツにしてやった。
さぁ、次はどうしよう・・・・。
ジェイコブは、反対側のポケットから今までのツケ分のお金を取り出すと、コーヒーを待たずに席を離れようとした。すると、店の主人がテレビのチャンネルを変える。ニュース番組の画面が現れた。
最近よく見る総合病院を背景に、派手な化粧をしたレポーターが早口でまくし立てている。
『我々独自で得た病院関係者からの情報によると、連続爆弾事件の生存者、マックス・ローズさんは順調に回復しており、近いうちに退院できるようだとのコメントがありました。ローズさんは先の事件のショックにより、精神的ダメージを受けてしまったことは、これまでの報道で繰り返しお知らせしてきたことですが、今回得た情報によると、ローズさんの精神的な病は回復の兆しを見せ、今では医師や見舞いの方達との会話もできるようになっているとのことです』
画面に、いつかの雑誌に掲載された“勇敢な救出劇”を繰り広げるヤツの報道写真が映し出された。その写真に、レポーターの声が被さる。
『ローズさんはこれまで、ミラーズ社前で起きた2番目の爆弾事件の被害者救出を行い、それによって今回被害者のターゲットにされたとの見方がされてきました。私共を含め、市民の皆様からも、ローズさんの容態を心配する声が多く聞かれました。今回の情報は病院側の正式なコメントではありませんが、事件解決の糸口さえ見られない中にあって、唯一の明るいニュースだと言えるでしょう・・・』
ニューススタジオにカメラが戻っても、スタジオのキャスターでさえ馬鹿馬鹿しい笑顔を浮かべ「よかったですねぇ」などと陳腐なコメントを吐いている。
── なんてことだ!!
ジェイコブの握り締められた拳が、ブルブルと震えた。
── あの『女』が、正気に戻っただって?!
「ちょっと、そこ邪魔なんだけど!」
ウェイトレスの重たい腰が、ボスンと当たる。
ジェイコブはそのウェイトレスをギロリと見つめた。
突如牙を剥いたジェイコブの陰な部分を垣間見たウェイトレスの口から「ひ!」と声が漏れる。
ジェイコブは何も言わず、店を後にしたのだった。
苛立った足取りだった。
店の中で何かあったのか。
ウォレスは、ジェイコブの後を追った。
半月ほどの間、ジェイコブの生活をずっと監視していたウォレスは、ジェイコブの生活のリズムをほぼ掴んでいた。
意外なことにジェイコブは、あれ以来ごく普通の生活を送り始めた。
マックスを襲った時点で目的を達成したのか。それとも、ウォレスが目にした爆弾は、結局爆弾なんかではなく、ジェイコブが連続爆弾魔というのは思い違いなのか。
第一、完成した爆弾を肌身離さず持ち歩いているなんて、正気の沙汰ではない。些細な拍子に爆発する可能性だってあるのだ。
ウォレスがまだアレクシスだった頃、彼は爆弾の専門家ではなかったが、ジェイクの作業をいつも傍らで見ていた。ジェイクの作る爆弾は配線もそつがなく仕掛けも美しいと仲間内で評判だった。
ジェイクはそのおかげで、若手グループ内でどんどん頭角を現し、若き参謀アレクシスの立てる作戦の手柄も手中に収め、いつしか絶対的な力と影響力を持つようになった。
ジェイクは自ら計画をたてるというより、自分の身の回りの人間を適材適所に据え、効果的に計画を進めることに長けていた。
何も知らない頃のアレクシスは、いつもジェイクから「これは難しいナゾナゾだ」と困難な暗殺計画のシナリオを考えさせられた。
頭の回転が速いアレクシスは、必要最低限の情報をジェイクが与えるだけで、鮮やかな計画を立てて見せた。計画が成功するとジェイクが大喜びするのが、嬉しかったからだ。
仲間の間でカリスマ的な魅力を欲しいままにしていたジェイクが、自分だけに対して格別の笑顔を見せてくれる。
イギリス軍との戦闘で父親を亡くしていたアレクシスの貧しい家庭が困らないようにと、金銭面で支えてくれたのもジェイクだった。
ジェイコブ・マローンが人気のないところで時折いとおしそうに取り出すものは、明らかにジェイクが作っていた爆弾を連想させる代物だった。
その中身が完成しているかどうかはわからない。
ましてや、このひ弱そうな青年が巷を震撼させ、そしてウォレスの愛する人を手に掛けた男という確かな証拠はない。
だが、ウォレスの身体に染みついた野生の勘が、警報を鳴らし続けていた。
── 何の確証もない確信。
それは理屈ではなかった。
ジェイコブの側にいれば、いつか尻尾を出す時がくる。
そしてジェイクと対峙する時も、きっと訪れる。
そうすれば、自分は。
ウォレスは暗い決心とともに、ジェイコブの後をついて歩き出した。
マイク・モーガンが、マックスの胸骨の具合をチェックしている時に病室のドアがノックされ、二人連れ立って入ってきた。
黒ずくめのその男は、診察の為にパジャマの前をはだけたマックスの身体に残る生々しい傷跡や痣に少し表情を曇らせた。
男は努めて表情を押し殺しているようだが、さすがに痛々しかったのだろう。
大分回復したといっても見てくれは相変わらず一人前の怪我人だ。
顔には細かな傷がまだ残っているし、左腕は無骨なギブスで覆われている。左耳には破れた鼓膜が治るまで保護するためのカバーが掛けられてあった。
診断を終えた後、再び胸部を固めるために看護師が手慣れた様子で包帯硬く巻いていく様子を見る限り、彼が既に一人で歩けるようになるまで回復しているとは思うまい。
「お気の毒に」
いかにも英国らしい硬い響きのアクセントで、男は言った。
「英国大使館員のジョイス・テイラーです。初めまして」
全身黒ずくめのスーツ姿が愛しい人を思い起こさせる。だが、その面差しは思ったよりも若い男だ。だが、セスの話だと、セスよりも年上らしい。
「ようこそお越しくださいました。どうぞ、かけて」
マックスにとって、テイラーの第一印象は悪くなかった。
男の誠実さが窺えたし、感情を押し殺してはいるものの、犯罪に対して強い怒りと憤りを感じている様子だった。
マックスが傷ついていない右手を差し出すと、テイラーは黒の革手袋を外して握手をしてきた。少し手のひらが湿っている。緊張しているのは、お互い様か。
「早速なんですが・・・。だいたいの話は、彼から伺っています」
テイラーが、隣に座るセスをちらりと見て言った。
「正直言って、あなた達の申し出にためらいを感じました。母国で起きた長く暗い時代に生きた人々の話だ。罪のない人を手に掛けてきた人間を擁護することは、非常に難しいことです」
マックスはテイラーの言葉にドキリとして、セスを見た。
露骨に不安げな顔をしてしまった。どうしても、その感情を抑えることができなかった。
そのマックスの腕に、テイラーの手がそっと触れた。
「 ── だが、ジェイク・ニールソンが絡んでいるのなら、話は別です」
マックスはハッとしてテイラーを見た。
テイラーのブラウン色の瞳が、真摯にマックスを見つめていた。
「ジェイク・ニールソン。ご存じの名前ですね」
ああ、忘れるものか。
忘れられるはずがない。
愛する人を、身体ばかりかその心までズタズタに引き裂いた男・・・。
マックスの瞳に、静かな怒りの炎が浮かび上がるのを、テイラーは見逃さなかったようだ。彼はゆっくりと頷きながら、「そうです。あの非道の限りを尽くした悪魔のような男。私が追っているのは、そのニールソンなのです」と囁くように言った。
「本当なんですか。その男がこの街にいるというのは・・・」
テイラーは、すっと身を引いた。
「いるでしょう。── いや、“いると信じたい”といったところでしょうか。実際のところ、誰もわかっていない。本人以外はね。・・・・・あなたの大切な人は、それを確信していたようですが」
マックスは再びセスを見た。
── テイラーはどこまで知っているのだろう。自分とジムのことを・・・。
だが、セスは必要最低限の情報しかテイラーに渡していないようだ。
テイラーは、黒いブリーフケースの中を探りながら、「あなたの命の恩人らしいですね。なんでも会社内で暴漢に襲われたところを救ってもらったとか。例え相手がどのような凶器を持っていたとしても、彼ならいとも簡単にあなたを救うことができたでしょう」と話し続けた。
テイラーが、モノクロの写真をマックスの前に広げる。
「アレクシス・コナーズ。 ── ジェイク・ニールソンのグループの中で、最も優秀だった彼の部下です。様々な爆破事件や暗殺計画に荷担していた」
黒い雑踏の中、古めかしい車に乗り込む男の陰に垣間見えている少年の白い顔。
少し眉間に皺を寄せているその横顔は少年らしくない憂いに満ちていて、面差しにはまだあどけなさが残っているだけに、余計痛々しく見えた。
真っ黒い光のない瞳。彼はこの時、何を見ていたのか・・・。
マックスは息を吸い込むと、右手で口を覆った。
傷ついた胸は、骨折のせいだけでない痛みに襲われた。
マックスの知らないウォレス。マックスの知らない男。
「彼についての情報はあまり残っていません。彼は非常に頭が良く、証拠を残さなかった。当時の捜査当局も、このあどけない少年が恐ろしい犯罪にかり出されてるとは最後まで思っていなかった。ただの取り巻き連中の一人だと、信じて疑わなかったのです。だが、彼はニールソンの片腕として、一番困難で汚い仕事をさせられていた。そして彼は子どもだったがゆえに、従順にそれに従っていたのです」
マックスの目の前に、瓦礫の山が映し出された写真が差し出された。
「ちょっと、それは・・・」
その写真の内容に、セスがテイラーを非難する声を上げる。
マックスは「大丈夫」と咳払いをした。
写真に遺体らしきものは写し出されていなかったが、ここで多くの人々が命を落としたのだろう。
「現実とは残酷なものです。あなたの大切な人は、少なからずこのような犯罪に荷担していた。もっと血なまぐさい写真もあります。それでも、彼を救いたいと思うのですね」
写真を持つマックスの手が震えた。
二つの写真を見比べる。
そのマックスに畳みかけるようにして、テイラーは言う。
「彼を救うということは、ひょっとするとあなたの中のパンドラの箱を開けることになるのかもしれない。今より辛い思いをすることいなるのかも。── それでもあなたは、続けるというのですか?」
マックスは瞳を閉じた。
いろんなジムの姿が、目の奥に浮かんでは消える。
廊下に差し込む光の中で静かに佇むジム。怒りにまかせてナイフを投げつけたジム。時には顎に手を当てて窓の外を悲しげに見つめ、時には背筋が凍るほどの冷たい光を瞳に湛え、相手を圧倒した・・・。
「あなたの大切な人が抱えている秘密は、とても大きくて辛い。ひょっとしたら彼は、あなたが思っているような親切な人間ではないかもしれない。そういう一面を知ることになっても、あなたは耐えられますか?」
「おい、テイラー、言い過ぎだぞ」
セスがテイラーを押さえても、テイラーはやめなかった。
「大事なことなんだよ、ピーターズ。『こんなはずじゃなかった』では困るんだ。これから彼が関わろうとしていることは、貴様だって知らない領域のことなんだ」
テイラーは、マックスの肩を掴んだ。
「それでもあなたが頑張れるというのなら、私は喜んであなたに手を貸そう。いや、こちらの方がお願いしたい。ジェイク・ニールソンを捕らえるために、ぜひ協力して欲しいと。・・・どうです?」
マックスの中に感情の嵐が起こり渦巻いていた。
それは、今まで無理に押し殺してきた事件のトラウマだった。
自分の部屋が爆発した時の衝撃。
光。
ばらばらに吹き飛んだ少年。
振動。
テレビで見た、自分の家だった瓦礫の映像。
灰色の画面。
まるで戦場のような風景。
その瓦礫の山の上に、黒いコートを着たジムが突然現れる。
まるで白昼の悪夢。
痛い妄想の嵐。
止まらない。止まらない・・・。
マックスは右手で顔を覆った。
負の映像は消えることがない。
音が聞こえないはずの左耳から轟音が聞こえてくる。
まるで竜巻の中にいるような、暴風が吹き荒れるような音が。
テレビ画面の向こうに立つジムが、マックスを見つめてくる。
灰色がかった白い肌。赤く充血した瞳。
かっと目を見開き、その両手をゆっくりと翳す。
真っ赤に血塗られた両手。
どんどん若返っていくジムが、声にならない怒号の声を上げ、牙を剥く。
やまない轟音。
もうやめて。もう許して。
「マックス! マックス大丈夫か?! テイラー! やりすぎだぞ、お前!」
ベッドに蹲るマックスの様子を見て、セスは彼の背中を擦った。
鋭くテイラーを責める。
さすがにテイラーもバツが悪そうな顔をして「すまない」と小さく謝った。
だが、マックスの悪夢は終わらない。
あなたはジムなのか?
それとも、俺の知らないアレクシスという男?
血塗れのジムの手が、爆風に吹き飛ばされた少年の足を掴む。そして高らかに笑う・・・。
胸が張り裂けそうに痛い。
マックスの身体は痛みに喘ぐ。
その先にあるのは、ただ真っ赤に染めらた血の記憶だけなのか?
俺は、耐えることができる?
ジムの足の下の瓦礫に埋もれているのは、パパとママ。
あまりに幼い時にお別れをしたから、顔すら定かでない・・・。
かわいそうなパパとママ。
かわいそうな人々。
その上に立つ少年は、高らかに笑い続ける。
お前は、本当は一体誰?
轟音がぴたりと止む。
少年が、マックスの方に顔を向ける。
その白くあどけない面差しに、深紅の涙がこぼれ落ちた・・・。
連日に及ぶ寒波のせいで、部屋の中にいても吐く息は白い。
だがそのおかげで、部屋の中に異様な臭いは発生しなかった。
母の死体が横たわる部屋のドアは、あの日から閉ざしたまま。
ジェイコブは、自分が母を殴り殺したことをきちんと認識していた。
思わずカッとしてついつい母を殴り殺してしまったが、罪悪感を感じない訳ではなかった。だが、母にどやされることがなくなると思うと、気分は清々する。
母がいない日々を初めて体験するここ数週間は、実に穏やかに過ぎていった。こんなことなら、早くそうしておくべきだったのか。
ジェイコブの日常は、ごく普通に過ぎていった。
ベン・スミスもジェイコブの前からすっかり姿を消し、以前のようにひとりぼっちで仕事に向かう日々が過ぎている。
ただこれまでと違うのは、いつもポケットに手作りの爆弾を温めていることだ。
最後の材料で作った大事な子。
ストッパーをかけている限り爆発することはないが、爆発物の圧縮率を上げたそれは、仕掛けようによって確実に人を殺傷できる威力があった。
ジェイコブは、その最後の爆弾をどう使うか、考えあぐねていた。
数週間おとなしく普段の生活を続けることになったのは、そのためだ。
ここのところ、暇な時間を見つけてはミラーズ社の様子を窺いに行ったが、あの愛すべき『ボス』の姿は見ることができなかった。
警備の警官の目を縫って思い切って地下の駐車場も確認してみたが、車もない。長期の出張に出ているのだろうか。
きっとマスコミに追われるのが嫌で、身を隠しているに違いない。マフィアの高飛びはよくある話だ。
あの日以来、ジェイコブの妄想は更に深くなっていった。
目標の対象が見えなくなり、退屈してしまうと、妄想の世界に浸るしかないからだ。
ボスの唯一の弱点をジェイコブがつぶしてやったおかげで、もうボスには怖いものなどなくなったはずだ。
報道によるとボスの『女』は手酷い傷を負い、頭もおかしくなって、もはや廃人同然のようだ。
ジェイコブは、その結果に満足していた。
一時期、『女』が助かったことに深い苛立ちを感じていたジェイコブだったが、すぐにマスコミが『女』の精神がおかしくなったらしいとの報道を始めると、いい気味だと胸がすっとした。
ボスを堕落の道に陥れるような人間だ。
そうなって当然なんだ。
今日は非番だから、一日中ミラーズ社を見に行くのもいいかもしれない。
今も警官がうろついているのは事実だが、長いこと退屈な警備の仕事に就かされている警官達に緊張感はない。
分厚い本の一冊も持ってベンチに座っていたら、怪しまれることもないだろう。
あいつらは、馬鹿だ。
目の前を通り過ぎても、ジェイコブの上着のポケットに爆弾が大事にしまわれているとは気づきもしない・・・。
自宅近所のダイナーでバターを塗った薄いトーストにかじり付きながら、ジェイコブはポケットの中の爆弾に思いを馳せた。
「今日こそツケを払ってちょうだい。でないと食後のコーヒーはでないからね」
ジェイコブの体重の倍はありそうなウェイトレスが、ジェイコブの机に伝票を置きながら、そう一言付け加える。
カウンターの中でミンチ肉を焼くこの店の主人が、陰気そうな目つきでジェイコブの方をちらりと覗き込んだ。
「さぁ、食べ終わったんなら、早く席を立ってちょうだい!」
目の前のカウンターに座る老人を追い立てるウェイトレス。
本当ならこんな胸くそ悪い店なんて来たくもないが、ジェイコブのような貧しい人間でもツケがきくので仕方がない。
だが、客を客とも思わない店員の態度を見ていると、いっそのこと、このポケットにある爆弾をこの店のガス栓付近に仕掛けてやろうかと思う。
だがすぐに思い直した。
── これは大事な最後の爆弾なんだ。よくよく考えて、仕掛けるところを選ばなくては。
やはりボスを守るために使うのがいい。
俺はボスが唯一信頼し、頼りにしている部下なんだから。
ボスを罠に填めようとした欲深い男は車ごとふっとばしてやった。
ボスを惑わす淫乱な『女』も命までは奪えなかったが、頭の中をキャベツにしてやった。
さぁ、次はどうしよう・・・・。
ジェイコブは、反対側のポケットから今までのツケ分のお金を取り出すと、コーヒーを待たずに席を離れようとした。すると、店の主人がテレビのチャンネルを変える。ニュース番組の画面が現れた。
最近よく見る総合病院を背景に、派手な化粧をしたレポーターが早口でまくし立てている。
『我々独自で得た病院関係者からの情報によると、連続爆弾事件の生存者、マックス・ローズさんは順調に回復しており、近いうちに退院できるようだとのコメントがありました。ローズさんは先の事件のショックにより、精神的ダメージを受けてしまったことは、これまでの報道で繰り返しお知らせしてきたことですが、今回得た情報によると、ローズさんの精神的な病は回復の兆しを見せ、今では医師や見舞いの方達との会話もできるようになっているとのことです』
画面に、いつかの雑誌に掲載された“勇敢な救出劇”を繰り広げるヤツの報道写真が映し出された。その写真に、レポーターの声が被さる。
『ローズさんはこれまで、ミラーズ社前で起きた2番目の爆弾事件の被害者救出を行い、それによって今回被害者のターゲットにされたとの見方がされてきました。私共を含め、市民の皆様からも、ローズさんの容態を心配する声が多く聞かれました。今回の情報は病院側の正式なコメントではありませんが、事件解決の糸口さえ見られない中にあって、唯一の明るいニュースだと言えるでしょう・・・』
ニューススタジオにカメラが戻っても、スタジオのキャスターでさえ馬鹿馬鹿しい笑顔を浮かべ「よかったですねぇ」などと陳腐なコメントを吐いている。
── なんてことだ!!
ジェイコブの握り締められた拳が、ブルブルと震えた。
── あの『女』が、正気に戻っただって?!
「ちょっと、そこ邪魔なんだけど!」
ウェイトレスの重たい腰が、ボスンと当たる。
ジェイコブはそのウェイトレスをギロリと見つめた。
突如牙を剥いたジェイコブの陰な部分を垣間見たウェイトレスの口から「ひ!」と声が漏れる。
ジェイコブは何も言わず、店を後にしたのだった。
苛立った足取りだった。
店の中で何かあったのか。
ウォレスは、ジェイコブの後を追った。
半月ほどの間、ジェイコブの生活をずっと監視していたウォレスは、ジェイコブの生活のリズムをほぼ掴んでいた。
意外なことにジェイコブは、あれ以来ごく普通の生活を送り始めた。
マックスを襲った時点で目的を達成したのか。それとも、ウォレスが目にした爆弾は、結局爆弾なんかではなく、ジェイコブが連続爆弾魔というのは思い違いなのか。
第一、完成した爆弾を肌身離さず持ち歩いているなんて、正気の沙汰ではない。些細な拍子に爆発する可能性だってあるのだ。
ウォレスがまだアレクシスだった頃、彼は爆弾の専門家ではなかったが、ジェイクの作業をいつも傍らで見ていた。ジェイクの作る爆弾は配線もそつがなく仕掛けも美しいと仲間内で評判だった。
ジェイクはそのおかげで、若手グループ内でどんどん頭角を現し、若き参謀アレクシスの立てる作戦の手柄も手中に収め、いつしか絶対的な力と影響力を持つようになった。
ジェイクは自ら計画をたてるというより、自分の身の回りの人間を適材適所に据え、効果的に計画を進めることに長けていた。
何も知らない頃のアレクシスは、いつもジェイクから「これは難しいナゾナゾだ」と困難な暗殺計画のシナリオを考えさせられた。
頭の回転が速いアレクシスは、必要最低限の情報をジェイクが与えるだけで、鮮やかな計画を立てて見せた。計画が成功するとジェイクが大喜びするのが、嬉しかったからだ。
仲間の間でカリスマ的な魅力を欲しいままにしていたジェイクが、自分だけに対して格別の笑顔を見せてくれる。
イギリス軍との戦闘で父親を亡くしていたアレクシスの貧しい家庭が困らないようにと、金銭面で支えてくれたのもジェイクだった。
ジェイコブ・マローンが人気のないところで時折いとおしそうに取り出すものは、明らかにジェイクが作っていた爆弾を連想させる代物だった。
その中身が完成しているかどうかはわからない。
ましてや、このひ弱そうな青年が巷を震撼させ、そしてウォレスの愛する人を手に掛けた男という確かな証拠はない。
だが、ウォレスの身体に染みついた野生の勘が、警報を鳴らし続けていた。
── 何の確証もない確信。
それは理屈ではなかった。
ジェイコブの側にいれば、いつか尻尾を出す時がくる。
そしてジェイクと対峙する時も、きっと訪れる。
そうすれば、自分は。
ウォレスは暗い決心とともに、ジェイコブの後をついて歩き出した。
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