Amazing grace

国沢柊青

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act.94

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 先に目を覚ましたのは、マックスだった。
 カーテンの裾から漏れてくる陽の光を見る限り、少しのんびり眠ってしまったようだ。下の階からは、テレビと思われる音が小さく聞こえてきていた。
 マックスがそっと身体を起こすと、すぐ隣でウォレスが穏やかな寝息をたてていた。
 思わずマックスの顔が緩む。
 以前ウォレスの寝顔を見る機会はあったが、こんなにも穏やかな表情の寝顔は初めてのような気がする。前の彼は過去の苦しみに捕らわれていて、うなされていたのだから。
 昨夜はウォレスをよく休ませてあげるようにとセスから釘を刺されていたものの、結局は我慢ができず、バスルームの中で何回も愛を確認しあった。
 最初の数回はウォレスに身を任せていたマックスだったが、最後の一回だけは彼を男として抱かせてもらうことができて、深い快感を得られた。
 汗をシャワーで流した後、2階にあるマックスの部屋に上がり、ベッドに横になった途端、ウォレスはすぐにトロトロと瞼を閉じ始めた。
 入浴の前に仮眠をとっていたはずだったが、やはり身体も心も疲労していたウォレスに、濃厚なセックスは少しきつかったようだ。
 彼が完全に眠りに落ちてしまうまで、マックスはウォレスの髪を指で梳きつつ、彼の顔を見て過ごした。そうしているだけで、幸福感でいっぱいになった。また少し涙が浮かんできて、マックスは目尻を指で拭ったのだった。
 何だか随分涙もろくなったみたいで照れくさい。
 マックスは、ウォレスの胸元に身体を預けながら、身体を横たえた。
 こうしてないと、男二人にとっては、窮屈なベッドから転げ落ちてしまいそうだった。
 窓の外からは、マスコミの連中が立てる音が聞こえてくる。やがてそれも落ち着いて静かになると、ウォレスの鼓動が聞こえてきた。
 マックスは自分の喉元に手を当てて、自分の脈を指先で測る。
 やがてバラバラだった鼓動のタイミングが、ぴたりと合い始めた。
 マックスは、目を閉じる。
 ほんの些細なことだったが、互いに『生きて』また出逢えたことがようやく実感として掴めたような気がした瞬間だった。
 ナイフを持ったウォレスの腕を阻んでから、セックスで愛を確認し合うまでは本当に必死で、感情の起伏が激しく、夢中だった。
 だが、嵐のような時間が過ぎ去った後は、穏やかでゆったりとした時間が訪れる。
 トクリトクリと同じリズムで刻む鼓動。
 医師であるマックスだからこそ、その鼓動に耳を傾けることが何よりの『実感』だった。
 ── また生きて、彼と逢うことができた。そしてこれで、魂をもきっと寄り添えるようになれると信じられる。
 それは、今までに感じたことのない幸福感だった。
 ── きっと離れていた時間があったからこそ、余計にそう感じている。離れていた間はとても辛かったけれど、きっとその時間をプラスにできる。二人でなら。
 やがてまた少しずつずれ始めた鼓動のリズムを聞きながら、マックスは昨夜眠りについたのだった。
 そして今、ウォレスの穏やかな寝顔がすぐ隣にある。
 目が覚めたら、全てが夢だったんじゃないかなんて馬鹿な不安を一瞬持ったりしたマックスだったが、ウォレスはそこにいた。
 気持ちよさそうな寝息をたてているウォレスを起こさないようにしながら、マックスはベッドから抜け出た。
 大分温かくなってきたとはいえ、素肌のままだと少し寒い。ランニングする時にいつも着ているスウェットの上下を着て、洗面所に向かった。
 洗面所には、先客がいた。
「あら、おはよう」
 レイチェルだ。
 彼女はもう朝食を済ませたらしい。出勤前の格好で、歯を磨いている。
「おはよう、レイチェル」
 あくびをかみ殺しながら、マックスは顔を洗った。
 顔を上げると、レイチェルがタオルを渡してくれる。
 水滴を拭うと、鏡越しにいたずらな笑み浮かべる従姉の顔と目があった。
「何?」
 マックスの問いに、彼女はすぐに答えなかった。
 レイチェルは口を濯いだ後、化粧ポーチから出したチェリーピンクの口紅を塗りながら、さり気なくこう言う。
「昨夜は随分盛り上がってたじゃない」
 鏡に映るマックスの顔が一気に赤面した。
「アタシの選んだバスビーズ、効果があったようね。感謝しなさいよ、アンタ」
 腕で脇腹を突かれ、マックスは再びタオルで冷や汗を拭った。
「・・・聞こえてた?」
 恐る恐るマックスが訪ねると、レイチェルは小指で口の端のルージュを拭いながら答える。
「安心しなさいよ。ママには聞こえてないから。でもキッチンには丸聞こえだったけどね。今度やる時は気を付けなさいよ。ステラが聞いたりしたら、きっとぶっ倒れる」
「ご、ごめん・・・」
「別に。アタシは何も責めてる訳じゃないのよ。むしろ何だか微笑ましくなっちゃって。人のセックスしてる声聞いて和んでるなんて、アタシもヤキが回った」
 まるでレイチェルの方が反省している口振りで、小さな溜息をつく。そのせいだろうか、今日のレイチェルは入念にメイクをしているようだ。マスカラも重ね塗りする程の念の入れようである。
 その最中、その時の声を誰に聞かれてもいいだなんてことをつい勢いでウォレスに言ったが、熱が覚めるとやはり恥ずかしい。
 いまだ顔が赤いマックスの肩を、レイチェルが叩いた。
「それにしてもジムって意外に可愛い声出すわよね。アンタ達、一体どうやってんの?」
「いぇ?!」
 レイチェルの爆弾発言に、思わず変な声が出てしまった。
 レイチェルは悪そうな笑みを浮かべて囁く。
「アンタに訊いて駄目なら、ジムに訊こうかなぁ」
 途端にマックスの額から、どっと汗が噴き出す。
「やめて! それだけはやめてくれ!!」
 追い縋るマックスの手をすいっと華麗に避けながら、彼女はあの耳に付く高らかな笑い声を上げた。
「酒でも奢ってくれたら、考えて上げてもいいわよ~」
「ま、待って! 奢る! 何でも奢るから!!」
 マックスが、洗面所を出ていくレイチェルを追いかけると、いつの間に起きてきたのか、Tシャツにスウェットパンツという格好のウォレスとレイチェルが出会い頭にぶつかりそうになるところに遭遇した。
「あら、おはよう、ミスター・ウォレス。昨夜はよく眠れまして?」
 レイチェルは先程まで浮かべていた小悪魔的な笑みを、エレガントな淑女のそれに変えて、ウォレスの胸元に手を置いた。何も知らないウォレスは、にっこり笑って「ご迷惑をおかけして。お陰で久しぶりにゆっくり眠ることができました」と答えている。
「それはよかったわ。ダイニングにあなたの分の朝食を用意させてますから、ぜひ召し上がって。私は失礼して、出勤させていただくわ。どうぞ、ゆっくりしていってね。気が済むまで滞在していただいて結構よ。その方が賑やかでいいわ」
 レイチェルは芝居がかった仕草でそう言うと、廊下に置いてあるチェストの上にある鞄と家の鍵を手に取ると、玄関に向かう。
 だが呆然と見送るマックスを突如振り返り、彼を指さすと、彼女は元の粗野な口調に戻って、こう言い残した。
「マックス、“シャンベルタン”。よろしく」
「・・・いってらっしゃい」
 強ばった顔つきでマックスは手を振った。


 ステラが料理を温め直してくれている間に、マックスは紅茶を準備する。
 一人暮らしの頃はもっぱらコーヒーであったが、ハート家では叔母の好みでコーヒーは用意されていない。
「・・・マックス、私は何を手伝ったらいい?」
 ふいに後ろで声がして、マックスは振り返った。
「あ・・・」
 思わず言葉に詰まった。
 ベージュの薄いセーターにチャコールブラウンのスラックス。長めの前髪は後ろに流していて、顎を覆っていた無精ヒゲもスッキリと剃り落としたその姿。
 懐かしい姿のウォレスが、そこに立っていた。
 マックスが最初に恋に堕ちた時の姿だ。
 上品で紳士的で穏やかで。大人の男性の魅力が溢れんばかりだ。
「お客様もお目覚めになったんですね。・・・まぁ・・・」
 キッチンから出てきたステラも、ウォレスの姿の良さに一瞬声を失ったようである。
「すみません、突然に」
 恐縮しているウォレスにステラは笑顔を浮かべた。
「いいえ、ちっとも。あなたは坊ちゃんの命の恩人ですもの。昨夜のこと聞いて、それはそれは怖かったんですよ。あなたが犯人を取り押さえてくれなかったら、どうなっていたことか・・・。奥様とも今朝そんなことを話していたところです」
 湯気を立てるコンソメスープをスープボールに注ぎながら、「どうぞ、お座りになってくださいな」とステラはウォレスを食卓へと誘った。
 テーブルを彩るイギリス式のブレックファーストに、ウォレスは照れくさそうな笑みを浮かべた。
「こんな食事は久しぶりだ・・・」
「たくさん食べて。食事が終わったら、出かけましょう」
 ウォレスが顔を上げる。マックスはにっこりと微笑んで言った。
「おてんばさんが、あなたの帰りをソワソワして待っていますから」


 出かける時は、ひと騒動となった。
 今朝からテレビ局や新聞各社は、あの爆弾魔がついに捕まったとこぞって報道していた。
 そしてその犯人が、三番目の被害者ケヴィン・ドースンと同じ新聞社に勤めていたこと。更に彼がどこにでもいる目立たない地味でか弱い青年であること。それに加え、彼が捕まった場所が今や時の人であるマックス・ローズが退院後身を寄せていた家であることが、事件をより劇的な結末へと導いていた。
 家の前では、警察が厳重に警備してくれたお陰で、マスコミ連中にもみくちゃにされることはなかったが、それでもマックスがレイチェルの車を借りて運転していると、バックミラー越しにマスコミとわかる車両やバイクが自分達の車を追いかけてきていた。
「さすがに凄いな」
 ミラーを覗き込みながら、ウォレスが溜息をつく。
「彼らの目的は俺だけだと思うから大丈夫だとは思いますけど、やっぱりいい気はしませんね」
 マックスの言葉の奥に、ウォレスが病院で告白したことに配慮してくれているマックスの様子が窺えた。
「すまない、私のせいで君にこんな苦労をかけて・・・」
 ウォレスが運転席のマックスに視線をやると、にやけているマックスの横顔に出会った。
「何だ?」
 つられて笑みを浮かべるウォレスに、マックスが言う。
「“すまない”は愛しているの意味」
 それを聞いたウォレスは素早く笑みを消すと、ゴホンと咳払いして、車窓の外に目をやった。


 大きく頑丈な門を抜けると、広大な敷地が拡がった。
 門の遙か向こうに、さも残念そうなマスコミ関係の車両が取り残されていた。
 ベルナルドの私邸は、街の中心部から五分と離れていない場所にありながら、街中の喧噪とは無縁だった。
 多くの緑に彩られたこの辺一帯は、街の有力者の邸宅が並ぶ高級住宅街だ。
 この地区には地区独自で雇った警備会社が、街の入口で不審者の侵入をくい止めるべく、関所を設けている。マックスの車を追ってきていた連中も、その関所ですべて足止めを食らっていた。
 一面、鮮やかな若葉で満たされた見事な庭を見ながら、車は大理石でできた大きなエントランスの車止めでエンジンを止めた。
 すぐさま車を出ようとしたマックスだったが、助手席で身体を動かさないウォレスに気づき、ドアを開ける手を止めた。
「どうしました・・・?」
 ウォレスの横顔が固く強ばっているのを見て、マックスは表情を曇らせた。
 ウォレスは決してマックスと目を合わせることなく、俯いてしまう。
「・・・シンシアは・・・。彼女は、私を許してくれるだろうか」
「え?」
 彼自身の膝頭に置かれたウォレスの両手に、力が込もる。
「私はいつも駄目な父親だった。彼女とどう接していいかわからず、いつも彼女を傷つけてきた。そしてやっと互いに心が通じ合えたと思った矢先、私は再び彼女を捨てた。彼女を裏切った。・・・今更になってこんなことを言い出すのは恥ずかしいが・・・。正直、すごく怖いよ」
 マックスは、そっとウォレスの手に自分の手を重ねた。そして穏やかにこう言った。
「あなたはシンシアを捨てたんじゃない。彼女を守ろうとしたんだ。彼女は、きっとわかってくれています」
 ウォレスが、そっとマックスを見る。
 マックスは、そんなウォレスを安心させるように小さく頷いた。
「シンシアは、あなたの娘だもの。あなたとよく似て、とても優しい人だ。大丈夫」
 ウォレスは深呼吸を数回繰り返すと、やがて笑みを浮かべた。
 二人揃って車を出ると、ウォレスの顔を知っている庭師が彼の姿を見つけて、嬉しそうに微笑んだ。
 玄関ドアの前の階段を上がると、ノックをする前に向こうからドアが開かれた。ミラーズ家の執事アーノルドだ。
「ご無沙汰しております、ウォレス様。ご主人様がお待ちしております。さ、どうぞ」
 平日のこんな時間にベルナルドが邸宅にいるなんて。
 ウォレスが少し驚いた顔をしてマックスを見る。
「昨夜あなたが仮眠を取っている間に、連絡しておいたんです。そしたら、ぜひ来なさいと。社長もあなたのことを随分心配していたらしい」
 マックスとウォレスは、表だった客を迎える豪華なリビングではなく、ミラーズ家の家族がプライベートで集う奥のリビングに通された。
 そこは豪華なシャンデリアや煌びやかな調度品はなく、質素だが居心地のいい家具が置かれている。品のいい穏やかなグラスグリーン色の壁が印象的な部屋だ。
 ウォレスの心に懐かしさがこみ上げてくる。
 ウォレスがここで帝王学を学んでいた頃となんら変わらない。
 二人がプライベート・リビングに通されてからすぐ、ベルナルドは現れた。
「ジム! よく無事で!」
 彼にしては珍しく性急な足取りでジムに近づくと、ジムの身体をぐっと抱き締めた。
「ベルナルド・・・」
「まったく、どこに姿を消していたものだか・・・。とにかく無事で何よりだった。そして君も」
 ベルナルドがマックスに向かって手を伸ばす。
「警察から、病院に行くことを控えてくれと言われていてね。シンシアのこともあったから、見舞いに行けなかった。すまなかったね」
「いいえ、そんな」
 マックスは微笑みを浮かべながら、ベルナルドの手を握り返す。
「今日は本当にいい日になりそうだ。昨日ローズ君から連絡を受けた時には、正直信じられなくてね。犯人も無事捕まったということだし、こんなに素晴らしいことはない。今日は会社を休んで正解だったな。今夜は内輪でパーティーを開こう。また昔のように、ささやかで楽しいホームパーティーを」
「それで・・・シンシアは?」
 マックスがそう訊くと、ベルナルドは肩を竦めた。
「おお、そうだったな。すまない。彼女は今、教会から帰ってくるところだ。彼女はあれからずっと、教会に通っているのだよ。随分変わったろう?」
 ベルナルドは楽しそうに笑顔を浮かべる。
 丁度その時だ。
 三人の背後でドアが開いた。
 マックスとウォレスが同時に振り返る。
 そこには、少し髪の伸びた美しい少女が立っていた。
 プラチナブロンドの繊細な髪、ライトブルーの美しい瞳。真っ白い肌、ピンク色の頬。
 もう一年もすれば、大人の女性の美しさも出てくるだろう。
「・・・シンシア・・・」
 ウォレスは譫言のように呟いたきり、久しぶりに見る娘の姿を見つめることしかできなかった。
 シンシアもまた、父親の顔をじっと食い入るように見つめていた。
 彼女は唇を噛みしめ、まるで睨みつけるように上目遣いで彼を見た。
 その表情にマックスが躊躇いを見せて、シンシアに近づく。
「シンシア・・・?」
 マックスがシンシアの肩に手を置くと、シンシアはその手を振り払った。
 そして彼女の表情は、ますます顰め面になっていった。
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