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5年後

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 我は竜である。名前はグラナトム。
 長年集めてきたコレクションをエルに飾って眺めたり、エルが作った料理を食べたり、エルと共に風呂に入ったりと、有意義な日々を過ごしている。
 今日は朝からじめじめとした曇り空であったゆえ、そのじっとりとした空気を洗い流す為に普段よりも早くから風呂に浸かっていた。

「気持ちいいか?」
「うむ。この薬草湯は普通の湯よりも暖まるな。
 なによりも香りがよい」

 今日の湯は、大地の精霊が摘んできたリーエクラウトという香りのよい薬草を浮かべたものだった。
 アメジストのような紫の色合いもさることながら、嗅いでいるだけで心が安まるような香りも素晴らしい。
 全身をつけられぬのが残念だ。

「グラナトムが浸かれる風呂なんて、俺が入ったら溺れる。
 風呂を別々にするなら、それも出来るだろうが……」
「ならばダメだ」

 風呂の唯一の欠点は、湯煙でエルの姿がよく見えぬ事だ。
 風の精霊が空気を循環させているので完全に見えなくなるわけではないが、風呂の外で眺めている時よりもその色合いが滲んでしまうのは惜しい。
 今でさえそうなのだから、風呂を別々にしてしまったら更に観察しづらくなってしまう。

 一時は風呂内に段差を作ってみたこともあるが、普段のように我に近づこうとしたエルが段差を踏み外して溺れかけたのですぐにやめた。
 人間はただでさえ死にやすいのだ。この上、更に死にやすくすることはない。

「グラナトムがそう言うなら、このままにしよう。
 俺は不便してないからな」

 そう言って、エルが我の尾に温かな湯を掛けた。小さな手が尾の先端に触れ、丹念に清めていく。
 精霊に任せればそのようなことをする必要も無いのだが、エルにそうされるのはなんとも言えず心地よい。
 冷えていた尾を暖められ、やんわりと揉まれる感触に唸る我を見上げてエルが笑った。

「風呂に入ると声を上げるのは、人間も古代竜も変わらないんだな」
「ううむ。暖かな湯に浸かるだけでこれほど心地よいとは思わなかった。
 人間はか弱いが、よい知恵を持っているものだな」

 そんな会話を交わしながら鱗の一枚一枚まで洗われた後には、すっかり身体が温まっていた。
 風呂に浸かるのはなんとも言えず心地よいが、あまり長く浸かりすぎてはエルの具合が悪くなる。
 我は一日二日浸かり続けていてもどうということはないのだが、エルはぐったりしてしまうのだ。
 エルの身体も温まってようであるし、そろそろ上がるとしよう。

「今日は何がいい?」
「では、シトラスにしよう」

 我の言葉に頷いたエルが、風呂の片隅に設置した泉から蓋のついた細長い銀の器を取り出した。
 水の精霊の力によって、温かな風呂場の中にあってもきんと冷えたままの泉の中にあったためか、取り出した途端に銀の輝きが白く曇っていく。
 この様子なら、恐らく中のものもよく冷えているだろう。

 小さな手で器用に蓋を外したエルが、中身を二つのゴブレットに注いだ。
 シトラスの果汁を水……それも、ごく一部の泉にしか湧かぬ自ら泡立つ水で割った果汁水だ。
 風呂上がりにはいつも冷えた清水を飲んでいたのだが、それだけでは味気ないからとエルが水の精霊や大地の精霊と相談して作ったらしい。
 初めて飲んだ時には、これほどうまいものがあるのかと驚いたものだ。

 風の精霊に身体を乾かさせながらゴブレットに注がれた果汁水を飲み干すと、火照った身体を冷たい果汁水が巡っていくのが分かった。
 やはり、風呂とは素晴らしい。至福の時だ。
 もしコレクションを眺めている時間と風呂の時間どちらを取るのかと問われたなら、我は到底選べぬであろう。

「やっぱり、風呂上がりの一杯は最高だな」
「うむ。人間は、娯楽に関しては我よりも深い知識を持ち合わせておるのだな」

 長い時を生きてきた偉大なる古代竜である我も、こればかりは認めざるを得なかった。
 先祖から引き継いだ記憶や自ら世界を飛び回った経験から、温かな湯が湧き出る泉があることや古代竜以外の種族が水浴びをすることは知識としてあった。
 しかし、それらがこれほど心地よいものだと理解したのはエルから学んだ後のことだ。

 エルを手元に置いていなければ、我も先祖同様にこのような娯楽がある事を知らぬまま生を終えていたことであろう。
 それが悪いことだとは思わぬが寂しくも感じてしまうのは、我が風呂や食事といった娯楽を知ってしまったためかもしれぬ。

「人間は、快楽に弱い生き物だからな。
 自分たちがより気持ちよくなるためには、努力を惜しまないんだ。
 それが悪い方へ働く時もあれば、よい方へ働く時もある。どちらになるかは、その時々の状況次第だ」

 そう言って、エルが手元の果汁水を飲み干した。乾いた身体の上に手早く衣服を纏い、身支度を調えていく。
 我からしてみると同じような布きれに見える布でもエルにとっては全く違うもののようで、いつも決まった順番で衣服を身につけていくのが見ていて面白い。
 必ず丈の短い薄い服から身につけて、それから丈の長いしっかりとした布で作られた服を着るのだ。

 たまには順番を逆にせぬのかと尋ねたところ「シャツやズボンの上から下着を身につけるのは、ちょっと斬新すぎるファッションだな」と苦笑いされたので、このような布一枚を身につける順序にも決まりがあるのだろう。
 ずいぶんややこしく思えるが、よく間違えぬものだ。

 服を身につけ終えたエルと共に普段時を過ごしている間へと戻ると、風呂場よりもいささか温度と湿度の低い空気を身体を撫でた。
 我の腹に寄りかかりながら剣の手入れを始めたエルと、その周囲を飛び回って好き勝手に話し始めた精霊達をじっくりと眺めた後、コレクションへと目を移す。
 今日のエルには何を身につけさせようか、悩むところだ。青や緑といった寒色系はもちろんのこと、黄色やオレンジといった暖色系の宝石もエルにはよく似合う。

 散々悩んだ末、今日は紫系統の宝石でまとめようと決めた時、ふと聞き慣れぬ衣擦れの音が耳に届いた。
 徐々に近づきつつあるこの匂いと足音からして、人間だろう。群れではなく、単体だ。

 勇者と名乗る若者が少数の仲間を率いて我に挑みに来たことはあるが、単身でこの洞窟へ乗り込んだ者といえば……エルくらいしか思い当たらぬ。
 よほどの愚者か、真の勇者か、どちらにせよ、招かれざる客である事に変わりはない。

「……誰か、来たのか」

 エルもこの気配と音に気がついたらしい。
 手入れしていた剣を構えたエルを翼の下に隠した時、音の発生源が姿を現した。

「偉大なる古代竜よ」

 洞窟に踏み行ってきたのは、足まで覆う衣服を身に纏った人間だった。
 複雑な形に編み込んだ白銀の髪は精霊の光に照らされて繊細に輝き、こちらを見上げる瞳は星のような淡い銀色をしている。
 エルほどではないが美しい色合いだ。何の声がけもなしに我が住処に立ち入った無礼は許そうと思えるほどには。

「陛下!」

 様子からして我を害しに来たわけではなさそうだが、かといって我がコレクションを増やしに来たわけでもなさそうだ。
 いつものように吹き飛ばすかと息を吐きかけた時、エルを隠していた翼がぐいと持ち上げられた。
 声を上げたエルの方を向いた人間の瞳が見開かれる。

「エル……よかった。無事だったのね」

 そう言った人間の表情は、先ほどよりも柔らかなものになっていた。
 エルに警戒心はなく、この人間からも害意は感じられない。
 ならばひとまず、吹き飛ばすのはエルの話が終わった後にするとしよう。

「陛下、何故こちらに! 護衛はどうされたのです」
「水晶の洞窟に住まうといわれている古代竜と、もう一度取引をしに来たの。
 決して、貴方や古代竜に危害を加えに来たわけではないわ。供をつけず、一人でここへ来たのがその証拠。
 私が魔法も魔術も使えず、剣も振るえないとエルなら知っているでしょう。
 もし疑うのなら、服を全て脱いで武器や毒を隠し持っていないか証明してもいいわ」
「服?! へ、陛下。ご冗談を」
「冗談でこんな恥ずかしいこと、いうものですか」

 ふむ。この人間の目を見る限り、言葉に偽りはないようだ。
 エルとこの者以外の人間の気配は感じぬし、武器らしきものも手にしていない。

 もっとも、相手が例え何かを企んでいたとしても、古代竜たる我の鱗一つ傷をつけることは敵わぬだろう。
 まだ世界中を飛び回っていた頃、ドワーフと手を組んだエルフがオリハルコン製の矢を無数に飛ばしてきたことがあったが、それでようやく我の鱗が僅かに削れた程だ。
 エルフ達は我の口内や目を狙っておったようだが、当たったところで多少の痛みは感じても刺さることはなかった。
 鍛冶に優れたドワーフ製の矢ですらその程度の威力なのだから、人間がなんらかの武器を持ってきたところで我が傷つくことはあり得ぬ。

 無論、我ではなくエルを狙ってくる可能性もあるがこの人間はエルと親しいらしい。警戒する必要はなかろう。
 それよりも気になるのは、人間が口にした「取引」という言葉だ。一体、何を望むのというのか。
 その時、エルと話していた人間がこちらに向き直った。

「偉大なる古代竜よ。連絡もなく貴方の元を訪れた無礼はどうかお許しください。
 わたくしはエーデルシュタイン王国女王ディアナ・ディアマント・エーデルシュタイン。
 本日は、貴方と取引をするためにここへ参りました」
「そなたの美しさに免じて、無礼は許そう。
 取引とはいかなるものか、申してみるがよい」

 普段のように返答した後、これでは言葉が通じぬと気がついた。
 エルが相手の時は通訳に動いていた精霊達も、今は素知らぬ顔で辺りを漂うばかり。
 請われれば力を貸すものの自ら動くのは気に入った相手に対してのみ、という精霊の習性を考えるとそれは当然なのだが、困ったものだ。
 さてどうすればよいかと考えていると、前へ進み出たエルが我の言葉を女王へと伝えた。

「無礼は許す。取引とはどのようなものか、とのことだそうです」
「エル、いつの間に古代竜の言葉を……いえ、今はそれを聞いている時ではないわね。
 実は、半年ほど前にこのようなものが発掘されたのです」

 何かを言いかけてやめた後、女王が薄い箱を取り出した。
 以前エルが持ってきた首飾りが収まっていたのと同じような箱だ。

 中には、大粒のブルーダイヤモンドをあしらった首飾りが鎮座していた。
 精霊達の仄かな明かりを反射してきらめくそれは確かに美しい。あの王笏と同じくらいには。
 以前の我なら、惹かれていたかもしれぬな。

「この首飾りを貴方に捧げます。
 その代わりに、エルを……わたくしの騎士を返して頂けませんか」
「ディアナ様、それは……」
「エーデルシュタインのみならず、世界でも類を見ない大きさと美しさと謳われたブルーダイヤモンドをあしらった首飾りです。
 エルと引き替えに頂いた王笏と負けず劣らぬ美しさ……いえ、宝石自体の希少性はこちらの方が上でしょう。
 彼の代わりとして、不足はないはずです」

 女王の言葉に偽りはなかった。
 うっすらとした淡いブルーの色合いも、エルの拳を一回りは上回るその大きさも、素晴らしいものだ。
 これを我に捧げようというのだから、エルはよほどこの女王に必要とされておるのだろう。

「我に、そのダイヤモンドは必要ない」

 しかし、エルと引き替えにするほどの魅力は感じられなかった。
 言葉は通じぬとも、我が首を横に振ったことで意思は伝わったのだろう。女王の淡い銀の瞳が大きく見開かれる。

「……何故ですか」
「そのダイヤモンドは動くのか?」
「いいえ。これは宝石ですから」

 エルから我の言葉を伝え聞いた女王が、それを否定した。
 そうであろうな。そのような宝石があるなど、我は聞いたことも見たこともない。

「我は、それと同じくらい美しく大きなエメラルドやルビー、サファイア、もちろんダイヤモンドも既に持っておる。
 だが、自ら動き、話し、料理を作り、共に風呂に浸かることの出来る宝石はエルしかおらぬ。
 我はエルを手放したくない」

 そう言うと、エルの頬が赤く染まった。
 女王に「何を言われたの?」と問い詰められて我の言葉を伝えたあとは顔を覆って俯いてしまったが、顔色が元に戻っていないのであろう事は短い髪からのぞく赤い耳で分かる。

 人間もほかの種族も自らを讃えられることに喜びを感じる生き物だと思っていたのだが、エルは違うのだろうか。
 それとも、我の褒め言葉が誤っておったのだろうか。五年間共に過ごして、人間の習性や言葉についても多少理解が出来たと思っておったのだが。

「……貴方がエルを大切に扱っていることは、よく分かりました。
 エルが貴方を快く思っていることも。
 当時はあれしか手段がなかったとはいえ、エルを手放したのは最終的にはわたくしの判断。
 取引が成立しなかった以上、彼を連れて帰るのは諦めます」
「ディアナ様……いえ、女王陛下。
 私を連れて帰らねばならないほど、エーデルシュタインは苦境に立たされているのですか?」

 エルの問いかけに、女王は「いいえ」と首を横に振った。
 穏やかな笑みを浮かべて、エルに向き直る。

「エーデルシュタインは平和よ。
 宰相や大臣がよく働いてくれているし、古代竜が我が国を守っているという噂が周辺国に流れているから。
 もう、貴方が前線に立たなくともエーデルシュタインが他国に侵略されることはないわ。
 ただ、以前のように貴方に傍にいて欲しいと身勝手な願いをわたくしが抱いてしまっただけ」
「そうですか……では、私のことはもう死んだものとしてお忘れください。
 私はもう、エーデルシュタインの騎士ではありません。グラナトム……古代竜のコレクションですから」

 我の方からエルの顔は見えぬが、その声は普段よりも張りがなく、小さいように感じられた。
 女王ではなく我の傍にいるとエルが宣言したことへの喜びと同時に、微かな違和感を胸の奥に覚えたのは何故だろうか。
 自らの感情に従って女王を吹き飛ばし、エルを我が翼の下に隠したい気持ちを抑えて二人のやりとりを眺める。
 そのような労力を払わずとも、あとほんの少し待てば女王は勝手にいなくなるのだ。気にすることはない。

「……分かったわ。
 偉大なる古代竜よ。わたくしは、これで失礼します」

 エルが着ている服とは違って足下まで覆う服の裾を持ち上げて礼をしたあと、女王がくるりと踵を返した。
 髪を彩るサファイアの髪飾りが精霊の光に照らされて、星のように瞬く。
 それは美しい姿だったが、女王を所有しようとは思わなかった。
 動く宝石はエルで十分……否、エルがよい。

「エル」

 名残惜しげに女王の後ろ姿を見送っているエルにそっと話しかけると、エルの身体がびくりと跳ねた。
 濃い蒼の瞳が不安げに我を見上げる。

「洞窟の入口まで、送っていくがいい」
「いいのか?」
「うむ。もとより、洞窟内では自由に過ごさせるという約束だったからな」

 そう告げると、エルの瞳が普段のようにきらきらと輝いた。
 「ありがとう」と微笑んで、エルが女王に駆け寄る。

 心が病めば、身体も病む。人間とは、そのような弱い生き物だ。
 あのサファイアよりも蒼い瞳が曇ることは避けたかった。
 故に、女王との接触を許した。結果はどうだ。エルの瞳は普段通り美しく輝いている。
 これならばきっと、エルの輝きが失せることはあるまい。

 その考えとは裏腹に、先ほど生まれた胸の奥にある違和感は次第に強まっていった。
 このような感情を抱いたのは初めてだ。先祖の記憶を漁っても、さすがに感情までは分からぬ。
 否、感情の知識は見つかるがそれが我と同じ感情なのか比較出来ぬのだ。

 エルが帰ってきたら、その身体を思う存分飾ろう。
 精霊や水晶に照らされて輝くエルやコレクションを見れば、この気持ちもきっと晴れよう。
 そう結論づけて、身体を丸めた。

 激しい雷雨によって帰れぬとエルが女王を連れて戻ってきたのは、そのすぐ後のことだった。
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