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8週間後
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我は古代竜である。名はグラナトム。
夜の闇でもうっすらと輝く純白の鱗に血のように赤いガーネットの鎖を巻いた、強大で偉大なる古代竜だ。
一万年もの間続けてきた洞窟での穏やかな暮らしはここ最近がらりと変わったが、悪い気はしていない。
むしろ、心地よささえ感じている。
あの日以来、エルは馬を連れて時折エーデルシュタインへ足を運ぶようになった。
大体は日帰りのため、以前のように耐え切れぬほどの空虚さに悩まされることはない。
逆に、エルが持ちかえってくる様々な食材で作られる食事や、よい香りのハーブを散らした風呂が待ち遠しくてたまらなくなったほどだ。
中でもうまかったのは、先日エルが持ってきたチーズという黄色の塊を鍋で溶かし、白葡萄酒で伸ばしたものに串刺しの野菜や肉をつけて食べる料理だった。
熱くとろけたチーズはまろやかで、どの野菜や肉ともよく合うのだ。
その上、我の手では食材をうまくチーズにつけることは出来ぬからと、エルが手ずから串に刺した肉や野菜をチーズと絡めて食べさせてくれた。
エルは「腕が疲れたから、次にやるのは二、三年後くらいな」と言っておったから、その時が楽しみだ。
「―――それで、広場に立ち寄ったら吟遊詩人がいてな。
グラナトムが帝国を滅ぼしたときのことが歌になってたよ。
天が遣わした正義の使者、だってさ」
「どのような歌だったのだ? 我に聞かせてくれ」
「一度しか聞いてないから、完全に再現することは出来ないけど……」
そう言って、エルが小さく歌い始めた。
エルに飾った黒翡翠のアンクレットやオニキスのイヤリングが揺れるのを眺めながら、その歌に耳を傾ける。
独特の抑揚と曲が正しいのか、上手いのか、我には分からぬ。
だが、エルの落ち着いた歌声を聞くのは好きだ。この歌声なら、いつまででも聞いていられる。
以前エルにそう話したところ「いつまでもはさすがに無理だな」と笑われてしまったが。
エーデルシュタインから帰ってくると、エルはよく国や街で起きた出来事を我に話した。
その時のエルは、とても楽しそうだ。
それが嫌だというのではない。
ただ、エルが喜び、楽しんだ風景や音楽を我も見聞きできぬのが歯痒かった。
「エル」
エルの歌を聞き終えた後で声をかけると、濃い蒼の瞳が問いかけるように我を見上げた。
小さなつむじに鼻先をほんの少し触れさせて、再びその名を呼ぶ。
「どうしたんだ、グラナトム。今日はやけに甘えてくれるな」
「エル。我もそなたと同じものが見たい」
「同じ? エーデルシュタインに行きたいって事か?」
「エーデルシュタインでなくともよい。ただ、そなたと同じものを見て、聞いて、感じたいのだ」
我の言葉に、エルは笑って「そうか」と頷いた。
「なら、一緒にどこかへ出かけよう。
人が住む国には入れないだろうが、湖や山なら一緒に見られるだろう。
グラナトムの翼なら、いろんなところにいける。俺、一度旅をしてみたかったんだ」
あっさりと返された言葉に、それまでのもやもやとした感情など一気に離散してしまった。
そうであった。我には強靱なる翼があるではないか。
エルを乗せて、好きなところへ飛べばよい。
「どこへ行きたい。エル」
「そうだな……なら、海が見たい。
話には聞いたことがあるが、この目で見たことはないんだ。
吟遊詩人の歌によると、塩辛い水がどこまでも続いているんだろう? 一度、見てみたい」
「よかろう。では、我の背に乗るがよい」
既に日は最も高い位置からやや下に降りていたが、我の翼ならばここから海までそうそう掛かるまい。
日が暮れる前には、海を見せることが出来よう。
エルが乗りやすいよう身体をかがめると、エルは「ありがとう、グラナトム」と笑って我の背に乗った。
小さな身体は重みなど殆ど感じぬが、その微かな温もりは伝わってくる。
振り落とさぬよう注意しながら洞窟をでると、太陽の眩い陽射しが視界に飛び込んできた。
懐かしいものだ。昔は一日中、この太陽の下を飛んでおった。
「エル。しっかりと捕まっているのだぞ」
「ああ」
エルが我の首にしがみついたのを確認して、翼を広げた。
普段よりもやや遅めの速度で宙に舞い上がる。
「すごい、すごいな! 山があんなに小さく見える!」
そう言ったエルの声はいつもよりも明るく、幼子のように無邪気なものだった。
空気が冷たい、眼下の景色が豆粒のようだ、風の音が激しい、と我が当たり前のように感じていたことを興奮した様子で繰り返している。
うむ、エルにいわれてみれば確かに、地上よりも空気が冷たいのも、街や森が豆粒のように小さいのも、お互いに声を張り上げぬと聞き取れぬほど風の音が煩いのも、全てが不思議で新鮮に思えてくる。
「エル。前を見るがいい」
「前?」
何気なく感じていた空の景色を堪能しながら飛び続けること十分ほど。
眼下の風景にはしゃいでいるエルに声をかけて前を見るよう促すと、少しして歓声が上がった。
どうやら、目の前に広がる景色に気がついたようだ。
「あれが、海なのか……?」
「そうだ。せっかくだ、海の真上まで飛ぶぞ」
エルが風景を楽しめるようにゆっくりと翼を動かしているうちに、海の真上まで来た。
洞窟付近とは異なる、少々べたついた風が鱗を撫でる。
その時、エルが「すごいな」と声を漏らした。
「どこまでも、青が広がってる……」
「そうだ。そなたの瞳の色ともよく似ておろう」
「ああ。それに、風の匂いが独特だ」
「川や湖とは、成分が異なるからな。故に、住まう魚も違う。
エル。海の魚を捕ったら、料理してくれるか」
「もちろん。どんな魚がいるんだろうな」
エルがそう呟いた途端、すぐ下で魚が飛び跳ねた。
海に落ちる直前、その身にしっかりとかぎ爪を食い込ませる。
その際に一瞬バランスを崩しかけたほど、その魚は大きく重かった。
これならば、たくさんの料理が作れそうだ。
「こ……こんなに大きい魚、捕まえていいのか?
もしかして海の主的なものじゃ……」
「問題無かろう。我の記憶が正しければ、確かこれはテュンヌスという魚だったはずだ。
海の辺りを飛んでいると、稀に今のように飛び上がってくることがある」
「そうか……海の魚はでかいんだな」
海の魚はエルにとって相当衝撃的だったらしい。
感心した様子で身を乗り出し、我が掴んだテュンヌスを眺めていた。
確かに、川や湖ではこれほど大きな魚は滅多におらぬ。珍しがるのも頷ける。
「この魚なら、いろんな料理が試せそうだな」
「うむ。我はあれがよいぞ。
魚を使った、口の中が少々ぴりっとする赤いスープ」
「ああ、トマトスープな。
トマトはさっきエーデルシュタインで買ってきたし、それも作るか。
あとは香草焼きに……シンプルに塩だけで蒸すっていうのもいいな」
エルが上げる様々な料理の名前に、うずうずとした気持ちがこみ上げてきた。
それに気がついたのか、エルが「そろそろ帰るか」と我の首を撫でる。
「もうよいのか」
「ああ。海を見て、その空気の匂いや感触も充分満喫できたからな。
次は、海の魚がどんな味か確かめたい」
「我も同じ気持ちだ」
誰かと同じものを見聞きすることがこれほど楽しいことだと、今まで気がつかなかった。
雲よりも高い山の上まで行ったなら、一体エルはどのような反応を見せてくれるのだろう。
時間によって色の変わる湖に行ったなら、古代の遺跡に行ったなら、雪に覆われた白銀の大地に行ったなら。
一万年前に巡った世界の記憶が蘇ると同時に、その全てをエルと辿りなおしたくてたまらなくなった。
「エル。そなたは先ほど、旅がしたいと言っておったな」
「ああ。昔は冒険者になって、各地を巡るのが夢だったんだ。
家が代々騎士団長を務めていたから、俺も騎士になったがな。
それ自体は全く後悔してないが、知らない世界を見聞きするのはこの年になっても楽しくて仕方ない」
「では、我と共に世界を巡らぬか」
そう言うと、エルはしばらく黙り込んだあとに「いいのか?」と小さな声で尋ねてきた。
「グラナトムは、あの洞窟でコレクションを眺めて過ごすのが好きなんだろう。
俺も、あの洞窟で暮らすのはきらいじゃないんだ。
世界のことなら、精霊達からも聞けるし……無理はしなくていい」
「無理ではない。我は、エルと共に世界が見たいのだ。
嫌か?」
「……いいや」
返答は簡素だったが、その声は喜びに満ちていた。
エルの暖かな手が何度も我の首を撫でる。
一万年ぶりに巡る世界は、どのように変化しておるのだろう。
エルと共に巡ることを考えるだけで、楽しみだった。
夜の闇でもうっすらと輝く純白の鱗に血のように赤いガーネットの鎖を巻いた、強大で偉大なる古代竜だ。
一万年もの間続けてきた洞窟での穏やかな暮らしはここ最近がらりと変わったが、悪い気はしていない。
むしろ、心地よささえ感じている。
あの日以来、エルは馬を連れて時折エーデルシュタインへ足を運ぶようになった。
大体は日帰りのため、以前のように耐え切れぬほどの空虚さに悩まされることはない。
逆に、エルが持ちかえってくる様々な食材で作られる食事や、よい香りのハーブを散らした風呂が待ち遠しくてたまらなくなったほどだ。
中でもうまかったのは、先日エルが持ってきたチーズという黄色の塊を鍋で溶かし、白葡萄酒で伸ばしたものに串刺しの野菜や肉をつけて食べる料理だった。
熱くとろけたチーズはまろやかで、どの野菜や肉ともよく合うのだ。
その上、我の手では食材をうまくチーズにつけることは出来ぬからと、エルが手ずから串に刺した肉や野菜をチーズと絡めて食べさせてくれた。
エルは「腕が疲れたから、次にやるのは二、三年後くらいな」と言っておったから、その時が楽しみだ。
「―――それで、広場に立ち寄ったら吟遊詩人がいてな。
グラナトムが帝国を滅ぼしたときのことが歌になってたよ。
天が遣わした正義の使者、だってさ」
「どのような歌だったのだ? 我に聞かせてくれ」
「一度しか聞いてないから、完全に再現することは出来ないけど……」
そう言って、エルが小さく歌い始めた。
エルに飾った黒翡翠のアンクレットやオニキスのイヤリングが揺れるのを眺めながら、その歌に耳を傾ける。
独特の抑揚と曲が正しいのか、上手いのか、我には分からぬ。
だが、エルの落ち着いた歌声を聞くのは好きだ。この歌声なら、いつまででも聞いていられる。
以前エルにそう話したところ「いつまでもはさすがに無理だな」と笑われてしまったが。
エーデルシュタインから帰ってくると、エルはよく国や街で起きた出来事を我に話した。
その時のエルは、とても楽しそうだ。
それが嫌だというのではない。
ただ、エルが喜び、楽しんだ風景や音楽を我も見聞きできぬのが歯痒かった。
「エル」
エルの歌を聞き終えた後で声をかけると、濃い蒼の瞳が問いかけるように我を見上げた。
小さなつむじに鼻先をほんの少し触れさせて、再びその名を呼ぶ。
「どうしたんだ、グラナトム。今日はやけに甘えてくれるな」
「エル。我もそなたと同じものが見たい」
「同じ? エーデルシュタインに行きたいって事か?」
「エーデルシュタインでなくともよい。ただ、そなたと同じものを見て、聞いて、感じたいのだ」
我の言葉に、エルは笑って「そうか」と頷いた。
「なら、一緒にどこかへ出かけよう。
人が住む国には入れないだろうが、湖や山なら一緒に見られるだろう。
グラナトムの翼なら、いろんなところにいける。俺、一度旅をしてみたかったんだ」
あっさりと返された言葉に、それまでのもやもやとした感情など一気に離散してしまった。
そうであった。我には強靱なる翼があるではないか。
エルを乗せて、好きなところへ飛べばよい。
「どこへ行きたい。エル」
「そうだな……なら、海が見たい。
話には聞いたことがあるが、この目で見たことはないんだ。
吟遊詩人の歌によると、塩辛い水がどこまでも続いているんだろう? 一度、見てみたい」
「よかろう。では、我の背に乗るがよい」
既に日は最も高い位置からやや下に降りていたが、我の翼ならばここから海までそうそう掛かるまい。
日が暮れる前には、海を見せることが出来よう。
エルが乗りやすいよう身体をかがめると、エルは「ありがとう、グラナトム」と笑って我の背に乗った。
小さな身体は重みなど殆ど感じぬが、その微かな温もりは伝わってくる。
振り落とさぬよう注意しながら洞窟をでると、太陽の眩い陽射しが視界に飛び込んできた。
懐かしいものだ。昔は一日中、この太陽の下を飛んでおった。
「エル。しっかりと捕まっているのだぞ」
「ああ」
エルが我の首にしがみついたのを確認して、翼を広げた。
普段よりもやや遅めの速度で宙に舞い上がる。
「すごい、すごいな! 山があんなに小さく見える!」
そう言ったエルの声はいつもよりも明るく、幼子のように無邪気なものだった。
空気が冷たい、眼下の景色が豆粒のようだ、風の音が激しい、と我が当たり前のように感じていたことを興奮した様子で繰り返している。
うむ、エルにいわれてみれば確かに、地上よりも空気が冷たいのも、街や森が豆粒のように小さいのも、お互いに声を張り上げぬと聞き取れぬほど風の音が煩いのも、全てが不思議で新鮮に思えてくる。
「エル。前を見るがいい」
「前?」
何気なく感じていた空の景色を堪能しながら飛び続けること十分ほど。
眼下の風景にはしゃいでいるエルに声をかけて前を見るよう促すと、少しして歓声が上がった。
どうやら、目の前に広がる景色に気がついたようだ。
「あれが、海なのか……?」
「そうだ。せっかくだ、海の真上まで飛ぶぞ」
エルが風景を楽しめるようにゆっくりと翼を動かしているうちに、海の真上まで来た。
洞窟付近とは異なる、少々べたついた風が鱗を撫でる。
その時、エルが「すごいな」と声を漏らした。
「どこまでも、青が広がってる……」
「そうだ。そなたの瞳の色ともよく似ておろう」
「ああ。それに、風の匂いが独特だ」
「川や湖とは、成分が異なるからな。故に、住まう魚も違う。
エル。海の魚を捕ったら、料理してくれるか」
「もちろん。どんな魚がいるんだろうな」
エルがそう呟いた途端、すぐ下で魚が飛び跳ねた。
海に落ちる直前、その身にしっかりとかぎ爪を食い込ませる。
その際に一瞬バランスを崩しかけたほど、その魚は大きく重かった。
これならば、たくさんの料理が作れそうだ。
「こ……こんなに大きい魚、捕まえていいのか?
もしかして海の主的なものじゃ……」
「問題無かろう。我の記憶が正しければ、確かこれはテュンヌスという魚だったはずだ。
海の辺りを飛んでいると、稀に今のように飛び上がってくることがある」
「そうか……海の魚はでかいんだな」
海の魚はエルにとって相当衝撃的だったらしい。
感心した様子で身を乗り出し、我が掴んだテュンヌスを眺めていた。
確かに、川や湖ではこれほど大きな魚は滅多におらぬ。珍しがるのも頷ける。
「この魚なら、いろんな料理が試せそうだな」
「うむ。我はあれがよいぞ。
魚を使った、口の中が少々ぴりっとする赤いスープ」
「ああ、トマトスープな。
トマトはさっきエーデルシュタインで買ってきたし、それも作るか。
あとは香草焼きに……シンプルに塩だけで蒸すっていうのもいいな」
エルが上げる様々な料理の名前に、うずうずとした気持ちがこみ上げてきた。
それに気がついたのか、エルが「そろそろ帰るか」と我の首を撫でる。
「もうよいのか」
「ああ。海を見て、その空気の匂いや感触も充分満喫できたからな。
次は、海の魚がどんな味か確かめたい」
「我も同じ気持ちだ」
誰かと同じものを見聞きすることがこれほど楽しいことだと、今まで気がつかなかった。
雲よりも高い山の上まで行ったなら、一体エルはどのような反応を見せてくれるのだろう。
時間によって色の変わる湖に行ったなら、古代の遺跡に行ったなら、雪に覆われた白銀の大地に行ったなら。
一万年前に巡った世界の記憶が蘇ると同時に、その全てをエルと辿りなおしたくてたまらなくなった。
「エル。そなたは先ほど、旅がしたいと言っておったな」
「ああ。昔は冒険者になって、各地を巡るのが夢だったんだ。
家が代々騎士団長を務めていたから、俺も騎士になったがな。
それ自体は全く後悔してないが、知らない世界を見聞きするのはこの年になっても楽しくて仕方ない」
「では、我と共に世界を巡らぬか」
そう言うと、エルはしばらく黙り込んだあとに「いいのか?」と小さな声で尋ねてきた。
「グラナトムは、あの洞窟でコレクションを眺めて過ごすのが好きなんだろう。
俺も、あの洞窟で暮らすのはきらいじゃないんだ。
世界のことなら、精霊達からも聞けるし……無理はしなくていい」
「無理ではない。我は、エルと共に世界が見たいのだ。
嫌か?」
「……いいや」
返答は簡素だったが、その声は喜びに満ちていた。
エルの暖かな手が何度も我の首を撫でる。
一万年ぶりに巡る世界は、どのように変化しておるのだろう。
エルと共に巡ることを考えるだけで、楽しみだった。
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