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第一章 何もかもが嫌になった瞬間 一、ストレス
しおりを挟む「藪押君、今日は何時に行けるんだ。Mさんがずっとお待ちかねだぞ、今さっき、怒りの電話をもらったんだ。早く急いでくれ」
「ええっと、出社次第すぐに向かいますので・・・・・・」
「藪押君、十時からのIさんの商談、ちょっと変わってくれないか。俺は、他に廻らなくてはならない家があってね。君、その時間帯はいつも空いてるだろ。
とにかく、早く出社してくれよ。今、何処にいるんだ?」
適当に相槌を打ち、電話を切った。
ちょっと待ってくれよ。Iさんって、あの難しい人だろ。すぐにキレるっていう。
また電話。
「おい、一週間前の事故処理はどうなっているんだ。今お客さんの苦情が届いているんだ。きっちりと回答してくれないと困るんだよ。いつまで待たせてるんだ。ったく」
あからさまな舌打ち。とにかくこいつはねちっこい。
「済いません。その件は・・・・・・」
「忘れてたのか? バカ野郎」
・・・・・・。これ以上は、何も言えない。火に油を注ぐだけだ。電話を切る。
「ナビ、いつ取り付けてくれるんだよ。お前、今日までに何とかするっていってただろ。忘れてたんじゃないのか」
「それは・・・・・・お客様。ちゃんと予約さえとってくれれば、整備の者が取り付けますので、先ずは、いつ、何時になさいますか?」
ちゃんと言ったのに・・・・・・。
いつでもいいですが、くれぐれも予約を入れて下さい、と。
ったく、誰だ、こいつに繋いだのは。
「最初から言えよ、そうゆうことは。お前、最初、いつでもいいって言ってただろ。だから俺は予約をとらなかったんだ。お前の責任じゃないか。違うか?」
「すみません」
電話を切る。
「どうしてくれるんだ? 俺の愛車?」
ひっきりなしにかかってくる。チッ。
「何か言ったか?」
「いえ。ですから、事故の影響で、元通りには復元できませんよ」
―先週は、まさにストレスの堪る、なんとも運の悪い週だった。
月曜日は定休日で、仕事が休みということもあったが、あまりの疲労に、何所かへ出かける気力もなく、家でずっと休んでいた。もっともパートナーがいるわけでもなく、用事もない。フウッ。溜息が漏れる。
その日は記録的な猛暑で、名古屋市で四十・三度を記録した日だった。
今年は太平洋高気圧とチベット高気圧、フェーン現象などの影響で、県内の各地で猛暑となった。熱中症で緊急搬送される人が相次ぎ、死亡者も出ている。
「二十日午前八時頃、愛知県名古屋市の国道十九号交差点 代官町で、軽自動車など二台が正面衝突する事故がありました。
名古屋市消防車によると、男女五人が搬送され、うち乗用車の男女三人が意識不明の重体となっております」
平成十四年式、走行距離十四万キロの排気量二千五百CCの車体色シルバーメタリックのクラウンの車内にその男はいた。
まるでぜんそく患者のようなエンジン音を発するその愛車は今にも停まりそうだ。
それよりも、いつにもまして今日はエアコンの調子が悪かった。
最初のうちは吹出口から冷たい風が出ていたのだが、数分前から生ぬるい風が出るようになってきた。
そんな車早く手放し、新しい車に買い替えればいいではないか、と思うかもしれない。それでも、もしかしたら、この車に愛着があって手放さないのだろうか。
男はラジオのチャンネルを捻る。
「名古屋市代官町で発生した事故の為、国道十九号線は、現在、通行止めとなっております」
「くそっ」
男は舌打ちをした。
クラウンが完全に停車した。
それと共にエアコンも機嫌を損ねたようだ。
どうやら故障したらしい。冷たい風が出なくなってしまったようだ。
エアコンの冷媒ガスが減ってきているのかもしれない。車内と車外を繋ぐ配管内の冷媒ガスを循環させることによって車内温度を下げる役割があるのだが・・・・・・。
それともコンプレッサーの故障か。臭いは気にならないので、エアコン内部のフィルターに生えるカビではないだろう。
気温は朝だというのに三十度を超え、この炎天下の車内温度はゆうに四十度を超えているはず。
背中、脇の下から汗が滲み、額からは滝のような汗が流れている。ネクタイを緩め、風通しを良くしようとするが、どうにも暑かった。窓を開けるが、風は来ず。
排気ガスの喉を焼くような熱風が染みるだけだ。ハンドルから手を放し、両手で必死に仰いでみるが、涼しくならない。なるわけがない。
このいいようもない閉塞感に、息苦しさを感じずにはいられなかった。
そこかしこから流れ出る大量の汗。
喉が焼けるように乾いてきた。
なんで今日に限ってペットボトルを持って来なかったのだろう、と後悔する。
黒のレイバンサングラスを外し、目元をタオルで汗を拭った。
耳元で不快な音を感じた。ぶ~んという蚊の飛ぶ音が鬱陶しいほどに耳に入ってきた。
耳の穴に指を突っ込み、グルグルと廻した。今度は反対側の耳からも音がまとわりつく・・・・・・。
バチーンという鼓膜を破くのではないかという音を発し、左手でビンタをした。
ジーンとする己の左耳。繍色に変化した。
後頭部をマットレスに打ち付けてやった。
二度、三度と打ち付けた後、少しは冷静になり、それで両手で顔を摩った。
「ったく、朝から、なんて日だ」
しかも一週間の始まりの火曜日に。
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