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四、西嶋の死
しおりを挟む西嶋は、森川が持ってきたペットボトルの容器に入った水で、彩加の右肩の傷口を丁寧に洗浄した。
「痛みますか?」
彩加は、苦しげな顔をしながら、頷いた。
「大丈夫ですよ。傷は、それほど深くはありません」
西嶋が安心させるよう、優しく話しかけると、彩加は、ここで初めて自分の傷口を見た。
意外にも浅い傷口に、安堵の表情を浮かべた。
ガーゼを取り出し、それで止血した。テープで動かないようしっかりと止めて、西嶋は、これで一応の応急処置を終えた。
「有難うございます」
「いえ。この傷ならば、病院に行く必要もないでしょう」
西嶋は、立ち上がった。
「それで、俺はこれからどうすればいい?」
「俺たちから離れて、ゆっくりしていてくれればいい。とにかく、動かないでくれ。目障りだ」
藪押は言った。
「くれぐれもいっておくが、下手な真似だけはしないでくれよ。そうなれば、この拳銃を使わないといけなくなってくるから」
この部屋には、しばらく無音が広がっていた。この空間だけが、まるで時間が止まったかのように、誰も、何も喋らないし、動くこともなかった。
そんな時。
この廃墟に迷い込んだ鼠が、勢いよく走り去る様を見た時。
そんな何でもない時に、坂戸が痺れを切らしたように動き出した。どうやら気が付いたようだ。坂戸は頭を振りながら立ち上がった。そして、彩加を目にする。
「あ、彩加! 一体、どうしたんだ、その顔に、その右肩?」
はっきりと坂戸が狼狽しているのが分かった。
「一番恐れていたことが・・・・・。大事な彩加が傷つけられている。こんなことが、こんなことがー」
坂戸の声は、上ずっていた。
その後、新たに加わった二人の男を見た。
「あ、あなたたちは?」
「我々は北署の者です」
「刑事さんが・・・・・・」
坂戸は周囲に目をやった。
二丁の拳銃を持った藪押が彩加の肩を抱き、そして、北署の刑事を見下していた。
そのどうしようもない状況が、坂戸の目に映っていた。これでは、この状況を打破することなど無理だ。そう観念した。
もういやだ!
彩加のこんな姿を見ることは。いつもは彼女に助けられてばかりだったが、今、この時、俺は、彼女を守るんだ。守らなければならないんだー。
坂戸はいきなり走り出していた。
ウオオォォォォッッッ!
雄たけびを上げ、藪押に向かって突進していった。
もう藪押からの痛みに耐え忍ぶことも、黙って彩加がやられるところを見ることにも、耐えられなかった。
だから、この命と引き換えにしてでも、刺し違えてやる!
「坂戸さん!」
西嶋は止めた。
「今、動いたら駄目だ」
パン、パン、パーン! という乾いた破裂音がした。
この暗闇の中、銃声音が轟いた。
藪押には分かっていた。坂戸の動きが見えていたし、その動きをしっかりと把握していた。
「いやぁぁぁぁっっっ!」
彩加のこれ以上ない叫び声が聞こえた。
彩加は今にも飛び出し、坂戸の所に向おうとする。
坂戸は胸を撃ち抜かれ、血飛沫を上げ、後方に吹っ飛んでいった。
「海人、海人、海人!」
彩加は、必死で前に出ていこうとする。
「海人、いっちゃ嫌。私を置いていかないで! あなたにいかれたら、私どうしたらいいの」
「駄目だ。今動いたら」
それを森川が必至で止める。
藪押に、胸を撃ち抜かれた坂戸は床に崩れ、そのまま力なく操り人形の糸が抜かれたように、崩れ落ちていった。一瞬のことだった。
誰もが固唾を飲んで、黙り込む。目の前で起きたこの状況が信じられず、明は勿論、二人の刑事さえも動けずにいた。
だがしばらくすると、時間が再び動き出す。藪押が一丁の拳銃しか持っていないことに、西嶋が気付いたのだ。刑事は、いつ何時目を放してはならないし、気を抜いてもいけない。事件はいつだって動いているのだから。
素早く、西嶋は重心を低くし、藪押の左下に落ちている拳銃に向かって、飛びついていった。
森川も気づいた。
だが、それを目で追うことしかできなかった。自分の身体を呪った。こんな時に反応が遅れたことに。分かっていても体は動かなかった。西嶋のようには動けない。
森川は、ポケットの中にある小石を握りしめていた。だがそれだけだった。握りしめることしかできなかったのだ。経験がないからなのか。それともただ単に臆病だから、一歩を踏み出すのが遅れてしまったのか・・・・・・。
ここからならば、自分の方が、距離が近かかったのに・・・・・・。
だが、藪押はそれに反応した。反応してしまったのだ。格闘家の本能がそれを呼び覚ましたようだ。トリガーに手をやった。藪押がトリガーを引いた。
スローモーションのようにそれが森川の目に残像として焼付いていく ー。
流れる銃弾が西嶋の背中に命中すると、真っ赤な血が噴き出した。それからはあっという間だった。西嶋が力なく崩れていった。
「西嶋さん!」
森川が叫び声を上げながら、彼の元へと向かっていく。
この石ころを投げてさえいれば・・・・・・。もう少し状況が変わっていたのかもしれない。悔しかった。何で俺は、肝心な時に、動くことができないんだ。
「西嶋さん、起きて下さい。そんなの嘘でしょ。起きて下さいって。に、し、じ、ま、さーん!」
西嶋は、うつ伏せになって目を閉じていた。背中からは夥しいおびただ量の血が流れていた。
森川は、何とか助けようと懸命になっていた。ハンカチを取り出し、必死に傷口を塞いだ。
ど、ど、ど、どうしたらいい? 頭がパニックに陥った。しっかりしろ、俺は刑事なんだろ。
そんな時だ。
「陸・・・・・・」
西嶋から声が聞こえた。
「西嶋さん、西嶋さん何ですか?」
森川が西嶋に近づき、耳を傾けた。
小さな声だった。まるで息をしているような、それくれいの小さな声だった。それでも生きていることに、僅かながらも望みを持てた。
「麗娜、麗娜のことだ。あいつを・・・・・・頼んだぞ」
だが、西嶋の瞳は開かれることはなかった。
「あいつは、お前のことを本気で愛しているんだ」
「西嶋さん、そんなこと、今言わなくてもいいじゃないですか」
森川は、咽び泣いた。
「さっきまで、絶対に、認めない、って言っていたのに、何で今、そんなことを言うんですか。まるで・・・・・・」
「陸、俺は、本当は、ずっと前からお前のことを認めていたんだよー」
「うおっっっっ!」
森川は、人気を憚れず、獣のように雄叫びを上げて泣いていた。
もう、この溢れ出るこの感情を、誰も止めることはできなかった。
しばらくすると、この客間の中が静まり返っていた。
やがて、西嶋の呼吸音も止まるー。
彼の首が力なく、がくりと落ちた。
人の死というものを何回も見てきた。
だが、これ程までに悲しいことはない。
職場の上司として、刑事として、尊敬でき、ある種の憧れを抱いていた男でもあった。そんな西嶋が目の前で亡くなったのだ。
何もできなかった。
藪押との差は、俺の方が近かったんだ。それなのに、西嶋の方が先に気づき、動いていた。俺が先に気づいていれば、こんなことには、ならなかったー。
それに小石だって持っていた。それを投げていれば、薮押の動きを止めることができたのかもしれない。だけど、俺は、何もできなかった。
俺はずっと思っていた。
こんな大人になりたい、と。そして、何よりも愛する麗娜の父親なのだ。なにより、はっきりと、俺との仲を認めてもらいたかったー。
でも・・・・・・。
― ここで自棄を起こしてはいけない。
それは一番西嶋が嫌がることだ。
もはや刑事は、俺一人だけとなってしまった。
もう西嶋を頼ることもできない。
坂戸が死に、西嶋までもが死んだ。
自分がしっかりとしなくては。この場に残っている彩加と明の命も脅かされる。そんな時にこの俺が取り乱してしまえば、一体誰が二人を守るというのだ。考えろ。手立ては必ずある。
考えるんだ。
俺は刑事なんだ。
しっかりするんだー。
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