心に傷を負った男

中野拳太郎

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十六、

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 寒い夜だった。室内にいてもそれを感じる。気温の低下により、外には白いものがちらほらと舞い始めていた。
 ジム内にある二台のストーブをガンガンにつけていても体は温まらない。
 練習生の吐き出す息で、窓が真っ白に曇ってはいたが、それでも体が冷えている、そんな気がした。

 無口になっているというより、誰とも喋らなくなっていた。
 人と話すことが煩わしい。練習量を減らしているが、疲れのピークを追いやることはできない。
 
 英二はふらつきながら体重計に乗った。ろくなものを口にしていないが、まだ六十三キロある。
 辛いのはこの減量だけではない。帰国後、自分本来の動きができなくなってしまったことだ。
 初の世界戦のプレッシャー、あるいはプライベートの中の未だ見えない敵との戦い、その恐怖から精神的にも追い詰められていた。

 そんな中、ジムに顔を出すと眩いばかりのカメラのフラッシュに曝された。
 その光を遮るようにして手で隠すが、それでも眩しい。今までストイックに練習し、マスコミから逃れてきたが今日予定される公開練習だけは、マスコミをシャットアウトできない。

「調子はどうですか?」
 記者がすかさずインタビューに持ち込んでくるが、それに答えることなく、黙ったままその記者の顔も見ない。
 次にTV局の人間がカメラで、英二の顔をアップにし、下から舐めるようにして撮ってくるが、それも無視した。

「このところ調子が悪いと訊いているのですが」

「減量は順調ですか?」

 カメラのフラッシュがうっとうしかった。それを横で見ていた神谷がやむを得ず、間に入った。

「済みません。公開練習は予定通り行ないますが、質問の方は控えて下さい。今が一番疲れのピークですから」

 そして神谷は周りにいるマスコミを遠ざけてから、英二に訊く。

「体重は?」

「六十三キロです」

「まだまだだな」
 そして、神谷は小声で囁くようにして、
「今日のパートナーは一階級下の六回戦ボーイに頼んでいる。軽く流すだけでいいぞ。公開スパは形だけでいいからな」
 と言った。

 英二はバンテージを巻き終え、ストレッチをしながらリング上を見た。

 相手の男は既に臨戦態勢が整っていた。

 次にその周辺に視線をやると、三人のアメリカ人が目に付いた。
 二人は黒人で、一人が白人だ。チャンピオン陣営の偵察だ。
 ようやく体が暖まってきたので、リングに登り、シャドーボクシングをした。軽く足を使い、フッワークをする。
 それからジャブ、リードを出していき、左、右と返すが、何かがおかしかった。全体のバランスが悪い。こんなことは今までになかったことだ。三ラウンドのシャドーを終え、リングを一旦降りた。

「オーケー。用意してくれ」
 神谷が合図を送った。
 既に相手のボクサーは、ヘッドギアとグローブをはめて、先にリングに登っていたが、リング下の英二は、顔にワセリンを塗られ、ゆっくりと準備に取り掛かる。身体が重い、そんな風に感じた。

「三ラウンドだ」
 神谷が、英二の尻を叩いてリングに登らせた。
 
 スパーリングが行なわれ二分が過ぎると、リング下がいやに騒々しくなってきた。

「体が重いな」

「どうしたんだ」

「いつもと違うじゃないか」

「ベタ足で、まったくフットワークを使っていない。いつもの華麗なるフットワークが成りを潜めているじゃないか」

「あ、パンチもらっちゃったよ」

「まただ。ダメだなこりゃ。減量失敗か?」

 記者たちも、ジム内にいつもと違った風が吹いていることに気づき、ざわめき始めた。

 一ラウンド終了のゴングが鳴った。英二は自分のコーナーに戻るが、それを待ち受けるセコンド陣営も調子が上がらない。
 バランスが悪いし、タイミングも合わない。なにより呼吸が苦しい。自分の思い通りにいっていないからだ。一体、どうなっているんだ?

「どうした?」
 神谷が早速、心配顔を向けた。
「動けないのか?」

 コーナーに立ったままの姿勢で、いつになく荒い息遣いをしていた。そんな中。

「どうしたのかなあ」
 リング下から女の声が耳に入った。
「まるで精彩がない」
 聞いたことのある声。東海スポーツの女だ。

「そうだね。いつもの中西ではない」

 その女と目が合った。

「それに顔色もよくないなあ」

「よく見ているな。ヘッドギアつけているのに」

「今、ちらっと見えたんです。なんか視点が合ってない、っていうのか」

 気付くと、二ラウンド目のゴングが鳴った。

 彼女はいつ頃からあんな風に、俺の近くにいるのか。
 最近か、いや、かなり前からのような気がする。いかん、いかん、そんなことはどうでもいいことだ、なぜ気になる? 考えるな、今はこのスパーリングに集中しろ。英二は頭を振って前へ出た。

「どうしたのかしら?」

 また同じ言葉だ。今、彼女はどんな顔をしているんだろう。思いっ切り右のフックを振り回した。

「まったく冷静さがない」

 空振りだ。相手が外にいるということは、俺が中に入ってしまったのか?

「ええ。リング中央で、そこで六回戦ボーイと打ち合っている。これじゃ、アメリカ陣営も驚いてるよ」

 どうしたんだ? 彼女が言うように、まるで自分じゃないみたいだ。
 そんな中、その相手が出した右ストレートをもらい、顔面に衝撃を受けた。顔が後ろに吹き飛ばされた。
 信じられなかった。こんな相手に―。普段なら寸前のところで、ダッキングで避けれたじゃないか。
 なぜいつもの動きができない。次のパンチは、なんとか後ろへステップバックでダメージを殺したが、何たる様だ、自分でそう腹の中で罵った。
 こんなはずじゃない。こんなはずじゃ。頭に血が昇り、パンチが大振りになった。
 ダメだ,ダメだ。自分の動きが何者かによって封じ込められようとしている。
 俺の邪魔をしている者は・・・・・・。そんなことを考えると、あいつの顔が脳裏に浮かんだ。妹と楽しそうに笑う奴の顔が・・・・・・。

 ガッーン! 

 今度は下から顎に衝撃を受け、顎から首筋を通って頭の芯に響いた。
 危うく倒れるところを、ロープを掴んで踏ん張った。こんなところで倒れるわけにはいかない。なんとか体勢を整え、返しの右フックを振るったが、相手の方がそれをダッキングで避けてしまった。
 英二はバランスを崩し、前のめりに一歩、二歩とつんのめってしまった。
 ヤバい、完全に相手の内側に入ってしまった。今まで積み上げてきた経験、それに自信やプライド、それらまやかしのガラス細工が粉々に砕け散っていくようだった。

 丁度その時、視界にアメリカ陣営が入った。彼らが笑顔を交え、仲間同士で何やら話している画像が脳裏を埋め尽くす。そして、上から右が飛んできた。

 英二はうずくまって、頭を抱えるようにガードを固めた。脳内に響き渡る拳の衝撃。そして、ここで画像が停止した。それからはどうやってスパーリングをこなしたのかわからない。

 いつもの動きには、ほど遠かった。弱い、俺はこれ程までに弱い人間だったのか・・・・・・。
 その散々たるスパーリングを終え、リングから降り、柔軟体操もせずに座り込み、溜息交じりにバンテージを解いた。こんなんじゃ、勝てない。もう、駄目かもしれない・・・・・・。

「どうしたんですか?」
 いの一番に彼女が訊いてきた。

 そんな彼女の顔をしばらく見つめた。普通の記者とは違うな、そう思った。何が違うのかと言えば、それは定かでないが・・・・・・。

「まるで精彩がなくて」
 彼女は言った。
「いつもと違ったよ」

 しばらく彼女の瞳を見ていたが、それに耐えられなくなり、目を反らし、
「女にはわからない」
 と答えた。

 パンチの影響か、まだ脳内がぐしゃぐしゃに何かが、そう、無数の小さな虫、蟻がうようよと、合っているようだった。頭の中がミシミシと軋み出した。

「何が、ですか?」

「君にボクシングのことが、だよ」

「そんなことないです。私は相手の試合のビデオも見たし、あなたの今までの試合だって、傍らで見てきました」

「そんなことくらいでボクシングのことを理解できるのであれば、誰だってチャンピオンになれる」
 激しい頭痛に襲われた。誰か、この真っ黒な蟻の集団を蹴散らせてくれ。
「女っていうのはちょっと学習したからって、すぐに何かを会得した気でいやがる」

「全て会得したとは思っていないけど、でもそれなりにボクシングのことが少しはわかったような気がするの。
 ボクサーの辛さや過酷なところなんかを。それにサンドバックを何も考えず、一心不乱に打っていると、気分がすっーと気持ちが良くて。
 ま、これは私の解釈だから、おいといて。とにかくボクサーの試合前の心境は大切よ。
 今のあなたのような精神的不安定な状態では、本番で力を出し切ることなど先ず出来ないわ」

 彼女の瞳が、俺の目を包み込むようにして見ているような気がした。自分のこのどうしょうもない気持ちを見透かされたようで落ち着かない。

「あなたの今日の動き、いつもと違ってたわ。だから肉体的にも、精神的にも参っていることが私にはわかるの。それが心配なのよ」

 脳内に、先程までいた無数の蟻が静まると、我に返り、その後、頭が混乱した。この女は一体何が言いたい?
 俺のことが心配? 英二は頭を振り、俯いた。上を向くとまだ眩みそうだった。

「少し、黙っていてくれないか」
 英二は俯いたままそう呟いた。
「そうだよ。君が言うように、俺は今疲れているんだ。だから今はそっとしておいてくれ」

 勝田が、綾乃に近づいていく。
「もうやめないか」
 勝田は、彼女の耳元で囁いた。
「中西選手はとてもナーバスなんだから」

「わかります。ただ私は、そんな中西さんがちょっと心配になって」

「君が心配する必要はないだろ。だからムキになるな」

 ようやく英二は立ち上がった。少し立ち眩みを感じたが歩けないことはない。

「ああ、ちょっと待って」

 振り返った。まだ頭が重い。

「最後に一つだけ」
 綾乃は言った。
「後藤義信という男を知っている?」

 後藤義信、あの男だ。すぐに脳裏に蘇った。さっきのスパーリングでも奴の顔が浮かんだ。
 今、俺の頭の中にある悩みの種。奴は今、何処にいて、何をしている?
 気になる。そして、俺に何をしようと・・・・・・。なぜ、警察に捕まらない?
 警察は一体、何をしているんだ。

 英二は、肩を竦めてから歩き出した。今は、もう、何も喋りたくない。

「あなたは、その男のことで悩んでいるのよー」

 一瞬立ち止まるが、そのまま立ち去った。
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