望月沙織のほんとうのこと

山田シルベストレ

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第6章 解剖台の上の彼女

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私は今、彼女の目を見つめている。
解剖台の上で開かれた、望月沙織の身体。

胸部から腹部にかけてY字に切開され、内臓が露出している。
手袋をした私の指先が、彼女の肋骨の下に滑り込む。
これが最後の記録となる。

私の名は綾部誠一郎。東京都監察医務院に勤める法医学者だ。15年間でおよそ3,000体を解剖してきた。
殺人被害者、自殺者、事故死、不審死…様々な死体を見てきた。

しかし、今日解剖している彼女は特別だ。いや、「特別」という言葉では足りない。
この女性は、私の人生を変えた。そして今、私はこの手で彼女の身体に潜む秘密を暴こうとしている。

全ては3週間前、一通の書類が私のデスクに置かれたことから始まった。
身元不明の女性遺体。推定年齢25~30歳。霞ヶ浦の湖畔で発見された。死因不明。

いつもなら他の監察医に回されるところだったが、その日は私しか出勤していなかった。
解剖室に運ばれてきた遺体袋を開いたとき、私は動揺を隠せなかった。

彼女は見覚えのある顔だった。
小学校の同級生、望月沙織。
二十年ぶりの再会は、冷たい死体となった彼女との対面だった。

しかし、これが本当に沙織なのか確信はなかった。二十年という歳月は人の記憶を曖昧にする。
確かに似ているが、断言はできなかった。

それに、身元不明遺体と分類されていた。指紋も歯科記録も照合できていない。
私は個人的な感情を抑え、プロフェッショナルとして解剖を始めた。

外表からは死因を特定できない。溺死の可能性もあるが、肺には異常な量の水はない。
中毒死を疑ったが、初期検査では毒物は検出されなかった。

そして、体内から異物が見つかった。
胃の中に、プラスチック製の小さな容器。開けると、中には人間の指の爪と思われるものが5枚。
DNA鑑定の結果、それぞれ異なる人物のものだった。

さらに驚くべきことに、小腸からは人毛の束が見つかった。これも別の人物のものだ。
他にも複数の微小な人間の組織片が体内の様々な場所から発見された。
皮膚の切片、耳たぶの断片、眉毛…それらは全て、彼女自身のものではなかった。

最も不可解だったのは、これらが消化されずに保存されていたことだ。
カプセルや特殊な保存処理が施されていた。
通常、こうした遺体は司法解剖となり、警察の事件として捜査されるところだ。

しかし、遺体の状態から既に死後72時間以上経過していると判断され、しかも明らかな外傷がなかったため、単なる変死体として処理された。

私はこの異常な発見を報告書に記載したが、上司はあまり興味を示さなかった。

「精神疾患の可能性があるな。珍しいケースだが、異食症の一種かもしれん」

そう言って、死因は「不明」としたまま、ケースは通常の流れで処理されることになった。

しかし、私は納得できなかった。なぜ彼女は他人の体の一部を飲み込んでいたのか。
そしてそれは、小学校時代の記憶と何か関係があるのか。



解剖後、私は休暇を取り、個人的に調査を始めた。
まず、彼女の身元確認を進めた。遺体の指紋から、この女性が本当に望月沙織であることが確認できた。

彼女は実在し、東京のIT企業に勤めていたが、3か月前から失踪していた。
会社の同僚によれば、彼女は突然姿を消したという。

次に、小学校時代の記録を調べた。当時の同級生にも連絡を取った。
そこで思い出したのは、奇妙な一連の「事故」だった。

小学校6年間で5人のクラスメイトが不審な形で命を落としたり、行方不明になったりしていた。
当時はバラバラの偶発的な事故と見なされていたが、今思えば不自然な点が多い。

そして、彼ら全員に共通していたのは、望月沙織と何らかの接点があったことだ。

田中君は校庭で遊んでいて転倒、頭を強く打って死亡。
佐藤さんは林間学校で行方不明になり、一週間後に山中で遺体で発見された。
鈴木君は学校帰りに用水路に転落して溺死。
山田さんは家の窓から転落して重傷を負い、後遺症が残った。
そして伊藤さんは単なる失踪で、遺体は今も見つかっていない。

彼らの死亡状況を調べると、ある共通点が浮かび上がった。全員の体から何かが失われていた。
田中君の左手小指の爪が一枚なくなっていた。佐藤さんの耳たぶの一部が切除されていた。
鈴木君の遺体からは一房の髪が切り取られていた。
山田さんの入院中、何者かが彼女の前腕から皮膚を一部切り取った形跡があった。

これらは当時、事故後の損傷、あるいは動物による食害と考えられていた。
だが今、彼女の胃の中から発見された「コレクション」と照らし合わせると…。

思い出した。私自身も、彼女と関わりがあった。
小学校5年生の時、彼女が校庭の隅で何かをしているのを見つけた。

近づくと、彼女は小さな動物の死骸を解剖していた。
まるで研究するかのように、小さな器官を取り出し、ビニール袋に入れていた。

彼女に気づかれたが、私は彼女を告げ口しなかった。
彼女はその時、奇妙な笑みを浮かべ、「ありがとう、誠一郎」と言った。

次の日から、彼女は私に優しく接するようになった。ランチを分けてくれたり、宿題を手伝ってくれたりした。
そして時々、「誠一郎は特別」と囁いた。

当時は意味が分からなかった。しかし今思えば、彼女は私を「選んでいた」のかもしれない。




さらに調査を進めるため、彼女が最後に住んでいたアパートを訪ねた。
警察の捜査はとうに終わっていたが、家主の協力で内部を見ることができた。

表面上は普通の女性の部屋だった。整理された本棚、清潔なキッチン、シンプルな家具。
しかし、法医学者としての経験から、私は微細な痕跡を探した。

壁紙の裏に何か隠されていないか。床下に秘密の空間はないか。
そしてついに、クローゼットの奥に隠された二重底を発見した。
中には一冊のノートと数十のビニール袋。

ノートには「採取記録」と題され、誰から、何を、いつ採取したかが克明に記録されていた。
最初のページには、小学校時代の同級生の名前と「採取物」のリスト。

『田中(爪)—6/12採取—運動能力向上に効果あり』
『佐藤(耳たぶ)—9/3採取—聴覚鋭敏化に成功』
『鈴木(髪)—12/5採取—言語能力向上に効果なし』
『山田(皮膚)—2/18採取—美肌効果確認』
『伊藤(欠損)—3/30採取—記憶力増強に顕著な効果』

そして、最近の記録。

『三宅健太(爪・髪)—会社の同僚。細胞適合性良好。理想的な候補。』
『長沢美香(指先)—元上司。意志の強さを吸収。』
『坂上貴久(体液)—理性を乗り越えた欲望の深さを吸収。』
『山本里奈(皮膚片)—地下鉄で遭遇。若さの吸収に期待。』


袋には、様々な「採取物」が保存されていた。
爪、髪、皮膚片…どれも乾燥剤と共に密封され、ラベルが貼られていた。
私はこれらを証拠として警察に提出すべきか迷った。しかし、このノートの内容はあまりにも非現実的だった。

彼女が異常な精神の持ち主だったことは間違いないが、警察はこれを単なる妄想と片付けるだろう。
何より、彼女はもう死んでいる。事件として立件する意味があるのか。
私は証拠を持ち帰り、自分で分析することにした。




それから2週間、私は休暇を延長し、彼女の残した記録を詳細に調査した。
ノートには彼女の「理論」も記されていた。

彼女は、人間の体の一部を特殊な方法で摂取することで、その人物の特性や能力を自分のものにできると信じていた。一種の共感魔術のような思想だ。

私は彼女が「採取」したという人物たちの消息を調べた。
三宅健太は1ヶ月前から行方不明。会社に退職届が届き、アパートからは引っ越していた。

長沢美香は自宅で首吊り自殺。遺書はなかった。

山本里奈は精神病院に入院中。極度の被害妄想と恐怖症で、常に「彼女が来る」と叫んでいるという。

坂上貴久は行方不明。彼の元妻によれば、女装した不適切な行為で家庭と職場を追われたという。

全員が死亡または行方不明。そして彼らの消息が途絶える直前、全員が望月沙織と接触していた。
恐ろしい一致だ。しかし、彼女はもう死んでいる。

解剖台の上で、私によって内臓まで調べられ、縫い合わされて冷凍庫に収められている。
念のため、坂上貴久についても調査を進めようとしたが、手がかりはなかなか掴めなかった。

彼の元妻は「貴久は狂ったように『彼女』の名前を口にしていた」と証言したが、それ以上の情報はなかった。
一時は精神科医のカウンセリングも受けていたらしいが、詳細は医師の守秘義務に阻まれた。

結局、現実的な結論を出さざるを得なかった。
望月沙織は重度の精神疾患を患っており、妄想に基づいて猟奇的な行為を行った挙句、自殺したのだ。

彼女に接触した人々は、彼女の病的な影響を受けたか、単なる偶然の犠牲者だったのだろう。
それでも、すっきりしない何かが残っていた。



調査を終えて3週間後の夜、私は疲れた心を癒すために久しぶりに銀座のバーに足を運んだ。
暗めの照明の下、カウンターでマティーニを飲みながら、望月沙織のことを考えていた。
彼女が残した謎は、私の頭から離れなかった。

「このお席、よろしいですか?」

柔らかい声に顔を上げると、隣に座ろうとしている人物がいた。
一瞬、言葉を失った。

そこにいたのは女装した中年男性だった。
派手な化粧と長いウィッグ、女性物の服を着ているが、男性であることは明らかだった。

「ど、どうぞ」

私は戸惑いながらも答えた。都会の夜ともなれば、様々な人がいる。差別的な態度を取るつもりはなかった。
男性はありがとうと微笑んで隣に座り、バーテンダーにウイスキーをオーダーした。

「初めて見る顔ですね」

彼が自然な調子で話しかけてきた。
優雅で女性的な仕草だが、声には確かに男性の低さが残っている。

「あ、ええ。たまに来るくらいで」

差し障りない返事をしながら、私は彼の顔を観察した。整った顔立ちだが、40代半ばだろうか。
化粧の下に人生の重みが見える。

「私はここの常連なんですよ。毎週金曜には必ず来るんです」

彼は優雅にグラスを手に取った。その仕草には妙な魅力があった。

「そうですか」

私は相槌を打ちながら、どこか引っかかるものを感じていた。
この人の話し方や仕草が、どこか見覚えがある。

「お仕事は何をされているんですか?」

「まぁ…医療従事者で…」

「まあ、素敵なお仕事」

彼の目が一瞬輝いた。その表情が、遠い記憶を呼び起こす。

「あなたは?」

「私は普通のサラリーマンよ」

彼は少し悲しげに微笑んだ。

「昼間はスーツを着た男性として働いて、夜だけ本当の自分になるの」

彼は少し体を寄せた。ほのかな香水の香りが鼻をくすぐる。

「でも今夜はラッキーね。素敵な方と隣り合わせになれて」

通常なら、このような露骨な接近に警戒するところだが、不思議なことに私は嫌悪感を覚えなかった。
むしろ、彼の仕草や話し方に、どこか懐かしさを感じた。

会話が進むにつれ、その感覚はさらに強まった。彼の目の動き、口元の緩み方、首を傾げる角度。
それらが重なって、ある人物の姿が浮かび上がってくる。遠い昔の記憶に中にいる…望月沙織。

「失礼ですが、お名前は?」

「貴久よ。坂上貴久」

ハッとした。彼は私が探していた人物だった。
しかし、それを知っていることを明かすわけにはいかない。

「綾部と言います。綾部誠一郎です」

「誠一郎…素敵なお名前ね」

彼の口から自分の名前が発せられた瞬間、奇妙な感覚が走った。
その言い方。名前を呼ぶ抑揚。記憶の中の沙織と全く同じだった。

時間が進むにつれ、さらに不思議なことが起きた。

初めは単なる女装した中年男性に過ぎなかった彼が、次第に魅力的な存在に思えてきた。
化粧の下の男性的な顎のラインでさえ、独特の魅力を放っているように感じられる。

彼の笑い方、グラスを持つ指の動き、髪を掻き上げる仕草。それら全てが官能的に映り始めた。
私自身、男性に性的魅力を感じた経験はない。それなのに、彼に対する欲望が胸の奥で膨れ上がっていく。

「誠一郎さん、こんな時間に食事はまだでしょう?」

「ええ、まだです」

「よかったら、一緒にいかがかしら?この近くに美味しい店があるの」

通常なら断るところだが、私の口からは「ぜひ」という言葉が漏れていた。

彼との会話は不思議なほど弾んだ。まるで長年の友人であるかのように。
彼は私の話に熱心に耳を傾け、時に鋭い質問を投げかける。その知性と洞察力に、さらに惹かれていった。
食事の後、彼はさらに提案した。

「夜はまだ若いわ。このまま別れるのは惜しいわね」

彼の目が意味ありげに私をとらえる。

「ホテルでゆっくりお話してみない?」

常識的には断るべき誘いだ。しかし、私の中の何かが彼に引き寄せられていく。
理性など意味をなさない、強い衝動に駆られていた。

「行きましょう」

私は自分でも驚くほど自然にその誘いを受け入れていた。




ホテルの部屋に入ると、彼は豹変した。
あの優雅な仕草は影を潜め、代わりに現れたのは圧倒的な存在感だった。

「誠一郎…待っていたのよ」

その声は完全に沙織のものだった。
彼は私の頬に手を当て、唇を近づけてきた。

初めは戸惑ったが、その唇が触れた瞬間、全ての抵抗が溶けていった。
熱く、甘く、そして支配的なキスに、私の理性は完全に崩壊した。

彼の手が私の体を巧みに愛撫する。その技術は素人のものではなかった。
何百、何千もの経験を積んだかのような正確さと感覚で、私の全身の神経を刺激していく。

女装した中年男性との行為。それは明らかに背徳的で倒錯している。
しかし、それゆえにさらなる快楽をもたらした。禁断の実を味わう官能。

彼は私の体を自在に操った。時に優しく、時に激しく。
快感の波が幾重にも重なり、私はかつて味わったことのない恍惚の境地へと導かれた。

絶頂の瞬間、彼の瞳の奥に別の人格を見た気がした。沙織の面影。彼女の冷たく計算された視線。

「誠一郎、あなたは私のもの…」

耳元で囁かれたその言葉に、私は完全に屈服した。




それから数ヶ月が経過した。
私と貴久の関係はさらに深く、濃密なものへと変わっていった。

昼間の私は、相変わらず冷静沈着な法医学者だ。白衣を身にまとい、メスを手に死者の謎を解き明かす。
同僚たちは私の変化に気づいていない。ただ、「綾部が最近妙に生き生きしている」と噂する者もいるようだ。
表の顔と裏の顔を使い分けることで私には不思議な活力が漲っている。

そして夜。仕事を終えた私の体は、既に貴久を求めて疼き始めている。
彼からの一通のメッセージだけで、下腹部に熱が集まり、思考が曇る。

「今夜は八時。いつものホテル。待ってるわ」

その言葉だけで、私の中の何かが解き放たれる。
初めての夜から三ヶ月。もう20回以上会っているだろうか。
回数を重ねるごとに、私たちの関係は歪んだ形へと進化していった。

「誠一郎…」

ホテルの部屋に足を踏み入れた瞬間、甘い香りと共に貴久の声が耳元に届く。
今夜も彼は完璧な女装で私を迎えた。

長いウィッグに緋色のドレス。化粧が施された顔は、薄暗い照明の中で妖しく輝いている。
身体は明らかに男性なのに、その所作、声色、たたずまいのすべてが女性的だ。
そのギャップこそが、私の理性を狂わせる。

「貴久…」

その名を呼ぶだけで、私の中の理性が溶けていく。
彼は優雅に近づき、私の頬に触れる。その指先が肌を辿る感触だけで、電気が走ったように体が震える。

「待っていたわ。一日中、あなたのことを考えていたの」

彼の唇が私のものを覆う。
最初は優しく、やがて激しく。口内に侵入してくる彼の舌が、私の全てを支配していく。

彼の手が私の体を這い回る。シャツのボタンを外し、肌を晒していく。
それは医者として死体を解剖する時の手順と奇妙に似ている。
だが、貴久の手による「解剖」は、死ではなく、極限の生を引き出す。

「今夜はどんな遊びがいい?」

彼の囁きに、私の中で何かが切れる。

「縛って…」

恥ずかしげもなく口にした言葉。初めて彼と過ごした夜には想像もできなかった嗜好だ。
今の私は、あらゆる倒錯を受け入れている。いや、望んでいる。

貴久は微笑み、バッグから赤い縄を取り出す。
その手つきは熟練したもので、私の体を芸術作品のように縛り上げていく。

締め付けられる感覚。自由を奪われる心地よさ。そして何より、自分の全てを彼に委ねる安堵感。
私は自分を責めた。なぜこんな関係に溺れるのか。

なぜ女装した男性との倒錯的な性愛にここまで魅了されるのか。
答えは簡単だった。
そこには言葉では表現できない悦びがあるからだ。

貴久の手が私の体の隅々まで撫で回す。その指先は魔術師のように、私の全ての感覚を呼び覚ます。
彼の唇が肌を這い、時に優しく、時に痛みを伴うほど強く吸い付く。

首筋、胸元、腹部…その全てが性感帯へと変わっていく。
縄で縛られた私の体は、彼の思うがままだ。抵抗することも逃げることもできない。
あるのは完全な受容と服従。

「誠一郎…あなたは特別」

貴久の声と沙織の声が重なって聞こえる。彼の奥に潜む彼女の存在。
それを感じるたびに、恐怖と共に背徳的な興奮が湧き上がる。

彼女は消え去りそうな遠い昔の思い出だ。それに彼女は死んでいる。
解剖台の上で、私の手によって内臓まで晒された遺体だ。

それなのに、彼女は今…貴久を通して私を支配している。
その思考さえも、奇妙な高揚感を呼び起こす。

貴久の愛撫は次第に過激さを増していく。痛みと快楽の境界線が曖昧になるほどの行為。
それでも私は彼にすべてを委ねる。彼が与えるものなら、痛みさえも甘美な贈り物だと感じられるのだ。

「もっと…」

懇願する私の声は、自分のものとは思えない。昼間の冷静沈着な法医学者はどこへ行ったのか。
ここにいるのは、彼の全てを欲しがる一人の獣だ。

そしてついに、彼が私の中に入ってくる。男性同士の結合。常識からすれば異常な行為。
しかし、その瞬間の快感は言葉を超える。

体が裂かれるような痛み。そして奥深くから湧き上がる官能。
それらが混ざり合い、意識が霞んでいく。

「誠一郎…私の…私のもの…」

律動が加速する中、再び彼の声が二重に聞こえる。貴久の声と、その奥に潜む沙織の囁き。

「永遠に…私のもの…」

絶頂の瞬間、幻のように沙織の姿が見える。貴久の後ろに立ち、私を見下ろす彼女。
満足げな微笑みを浮かべた彼女の表情。それは幻覚なのか、それとも…。

考える暇もなく、強烈な波が私を包み込む。全身の神経が一斉に発火し、意識が白く染まっていく。
それは生と死の境界を行き来するような、崇高な感覚だった。

「ああ…」

言葉にならない呻き声と共に、私は絶頂の渦に飲み込まれる。
そして訪れる深い虚脱感。疲れ果てた体と、奇妙な高揚感が残る心。

貴久は優しく縄をほどき、私の汗ばんだ体を拭ってくれる。
その仕草は愛に満ちている。これもまた、至福の時間だ。

「愛してるわ、誠一郎」

彼の言葉が胸に突き刺さる。愛。それは本当の感情なのか、沙織が言っているの。
答えは知らなくていい。ただ、この瞬間の官能だけを受け入れればいい。

やがて貴久は眠りに落ちる。その横顔は安らかで美しい。化粧が少し崩れ、男性の素顔が覗く。
その二面性が、また私の心を掴んで離さない。

窓から差し込む月明かりの中、私は考える。

この関係は異常だ。倒錯している。そして何より、沙織による支配の一環だ。
それでも、私はこの関係を絶つことができない。いや、絶ちたくない。

貴久との時間は、私の人生で最も濃密で官能的な体験だ。
それはもはや性的快楽を超えた、魂の交歓とも言える瞬間。

彼の腕の中にいると、世界の全てが正しい場所に収まるように感じる。
その感覚は、どんな論理や道徳よりも強く私を縛り付ける。




ある夜、貴久は普段より物憂げな様子で私に告白した。

「実は、私には支配者がいるの」

「支配者?」

「ええ。彼女が私に命じたのよ。あなたを誘惑するように」

私の心臓が早鐘を打った。

「彼女って…?」

「望月沙織よ。覚えている?」

その名前を聞いた瞬間、全身が凍りついた。

「彼女はね、病気だったの。急性の血液疾患。半年前に診断されて、余命わずかだって言われたわ」

貴久の声には本物の悲しみが滲んでいた。

「彼女は長い間、あなたに興味を持っていたの。小学校の頃からね。あなたが彼女の秘密を知っていて、それでも誰にも言わなかった。特別な存在だったのよ」

「でも、彼女はもう…」

「ええ、死んでしまった。自ら命を絶ったのよ。でもその前に、私に命じたの。『誠一郎を支配して』ってね」

彼の目から涙がこぼれた。

「私は彼女の忠実な僕だった。彼女に完全に心を支配されていたの。そして今度は、彼女の代わりに私があなたを支配している」

貴久の告白は、私の中で様々な感情を呼び起こした。恐怖、怒り、悲しみ…そして奇妙な解放感。

「彼女の最後の願いを果たすために、私はあなたを誘惑した。そしてあなたは見事に罠にかかった」

今やあなたは私のもの。そして私を通じて、彼女のもの。
その言葉に恐怖を感じるべきだったが、奇妙なことに安堵感さえ覚えた。

「彼女の言葉を借りれば、『完全な支配』ね」

貴久は微笑んだ。

「あなたは今、彼女の計画通りに動いているのよ」

そして貴久は私の耳元で囁いた。

「時々、彼女の声が聞こえるの。『誠一郎は順調?』って」

その言葉に、背筋に冷たいものが走った。
そして夜、貴久と抱き合っているうちに、私にも時々聞こえたような気がした。
か細い笑い声。望月沙織の笑い声。

「誠一郎…あなたは私のもの…永遠に…」

貴久はそれを聞いているのだろうか?それとも、私の妄想なのか?
もはやそれを判断する能力さえ失われていた。私は完全に彼女の網に絡め取られているのだ。

解剖台の上で死んだはずの彼女が、今も私の心の中で生き続けている。
それが彼女の最後の勝利なのだろう。




今、私は再び彼女の遺体と向き合っている。
解剖台の上で開かれた、望月沙織の身体。胸部から腹部にかけてY字に切開され、内臓が露出している。
手袋をした私の指先が、彼女の肋骨の下に滑り込む。

今回の再解剖は、正式な許可を得たものではない。
深夜、誰もいない検査室で、私は独断で彼女の遺体を再び調べているのだ。

何を探しているのか、自分でも分からない。それでも、私は彼女の体内を隅々まで探る。
そして、左の肋骨の裏側に、小さな異物を発見した。

金属製の小さなカプセル。開けると中には紙切れが一枚。
そこには一行だけ、彼女の筆跡で書かれていた。

『見つけてくれてありがとう、誠一郎。これで私たちは永遠に繋がった』

その瞬間、背後から足音がした。
振り返ると、そこには貴久が立っていた。化粧も女装もしていない素顔の彼。

「彼女は言ってたわ。あなたならきっと見つけてくれるって」

彼は静かに微笑んだ。沙織の笑顔そのままに。
そして彼の後ろから、もう一人の人影が。
女性だった。いや、女性に見える何か。

薄暗い検査室の光の中で、彼女—それ—は確かに沙織の顔をしていた。
しかし、それは生きているはずのない彼女だった。
解剖台の上では、彼女の遺体が今も横たわっている。

「誠一郎…待っていたわ」

幻影のように揺らめく彼女の姿。貴久の後ろから現れたかと思うと、次の瞬間には私の傍らに立っていた。

「怖がらないで。これが私の本当の姿」

彼女の声が頭の中に直接響く。

「私の体は死んだけど、意識は残ったの。あなたと貴久の中に…」

恐怖で声が出ない。これは幻覚なのか、それとも…
貴久が私に近づき、両手で私の顔を包み込んだ。

「彼女の言う通り、誠一郎。私たちは永遠に彼女とつながるの」

そして、解剖台の上の遺体が、ゆっくりと目を開いた。
もう抵抗する気力はなかった。

私は完全に彼女のものとなるだろう。望月沙織の物語の、最後の一ページとして。
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