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第5話 まだ壊れてない場所
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目が覚めると、部屋の空気がどこか昨日までと違って感じられた。
布団の中でしばらく動けずにいたが、カーテン越しの鈍い光が、もうすぐ朝だと教えてくれる。
昨日、あの約束をした夜から、胸の奥がそわそわしたままだった。
隣では美咲が静かに眠っている。浅い呼吸と、寝返りを打つ音だけが部屋に響く。
目を閉じて、昨夜のことを何度も思い返した。
――「……僕と結婚してくれませんか」
まるで他人事みたいだった。でも、あの時の気持ちは本物だった。
ぼんやりと天井を眺めていると、美咲がゆっくり起き上がる。
「……もう朝だね」
俺は「うん」とだけ答えた。
2人で並んで朝食の準備をする。パンと卵を皿に乗せ、コーヒーを淹れる。こんな朝が、もう何度あるか分からない。
テーブルの上は、昨日よりずっと整えられている。誰がやったわけでもなく、自然とそうなっていた。
「今日、白川さんたちが来るんだっけ?」
美咲がコーヒーをかき混ぜながら言う。
「ああ。……式の準備だって」
自分の口から“式”という言葉が出るのが、まだ少しだけ気恥ずかしかった。
朝ごはんを食べ終える頃、玄関のチャイムが鳴る。時間ぴったりだ。
ドアを開けると、白川と黒瀬が並んで立っていた。
白川はいつもの、崩れない柔らかな笑みを浮かべている。黒瀬も、前よりは少しだけ緊張が和らいで見えた。
「おはようございます。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
白川は、頭を下げる。その仕草が、今のこの世界では不自然なほどきれいだった。
美咲と顔を見合わせ、俺も「よろしくお願いします」とだけ返した。
靴を履きながら、ふと窓の外を見る。
雲が分厚く広がっていて、街全体が薄暗いままだ。
遠くで、また救急車のサイレンが鳴っていた。
今日が、“何か大きく変わる日”になる気がしてならなかった。
◇
チャペルへ向かう道すがら、街の“変わり果てた姿”が次々と目に飛び込んでくる。
歩道のアスファルトは、所々で陥没し、水たまりが濁ったまま乾いていない。
電柱に貼られた選挙ポスターが、誰にも剥がされぬまま色褪せ、風でちぎれそうに揺れている。
向かいのマンションの窓には、誰かの“助けて”という紙が貼られたまま。
数日前にはなかった“立入禁止”の黄色いテープが、新しい落書きで隠されている。
道端に置かれた古いピアノには、いつの間にか弦だけが剥き出しになり、
誰も触れぬまま、静かに錆びついている。
どこからか、焦げたプラスチックの匂いが微かに流れてきた。
風の中に、人の声はない。ただカラスの鳴き声だけが響く。
美咲は俺の腕を掴み、ゆっくりと歩を進める。
「……なんだか、全部が止まっちゃったみたいだね」
その言葉の通り、
かつてあった“日常の音”が、まるごとどこかへ消えてしまった気がした。
ただ、白川と黒瀬だけは、どこまでもまっすぐ前を向いて歩いていく。
その背中を見つめながら、俺も歩幅を合わせる。
進むほどに、
“もう戻れないんだ”という実感だけが、じわじわと胸に染みてきた。
◇
チャペルの扉を開けた瞬間、
俺も美咲も、一歩だけ足を止めてしまった。
外の世界はすべてが色褪せて、荒れ果てていたはずなのに――
この空間だけは、まるで“昨日までの世界”の断片が、奇跡的に残っているみたいだった。
バージンロードには、しっかりとアイロンのかかった白布。
割れ残ったステンドグラスから差し込む光が、床に細かな模様を落としている。
椅子はひとつひとつ、まっすぐに並び、ホコリひとつ見当たらない。
祭壇には、ドライフラワーと野草を束ねたブーケ。
中央のスポットライトが静かに灯っていて、天井まで温かい明かりが届いている。
美咲が、息を呑んだように囁いた。
「……本当に、ここだけ別世界みたいだね……」
俺も、言葉が出なかった。
正直、こんな状況で、これほど“整えられた美しさ”を目の当たりにするとは思っていなかった。
白川と黒瀬は、当たり前のように準備を続けている。
祭壇の角度を直し、ロウソクを並べ、スマホスピーカーの音を一度だけチェック。
白川の手は一切の無駄がなく、黒瀬も指示を聞き逃さない。
二人の背中を見ていると、
この人たちは本当に“ここだけは壊させない”つもりなんだ、と実感した。
美咲が俺の腕を軽くつかむ。
「……なんか、夢みたいだね」
俺は、小さく頷いた。
“失われていく世界の中で、
こんなにも“守られている場所”があるなんて――”
そう思った時、
初めて、自分たちが「本当に式を挙げるんだ」と実感できた気がした。
布団の中でしばらく動けずにいたが、カーテン越しの鈍い光が、もうすぐ朝だと教えてくれる。
昨日、あの約束をした夜から、胸の奥がそわそわしたままだった。
隣では美咲が静かに眠っている。浅い呼吸と、寝返りを打つ音だけが部屋に響く。
目を閉じて、昨夜のことを何度も思い返した。
――「……僕と結婚してくれませんか」
まるで他人事みたいだった。でも、あの時の気持ちは本物だった。
ぼんやりと天井を眺めていると、美咲がゆっくり起き上がる。
「……もう朝だね」
俺は「うん」とだけ答えた。
2人で並んで朝食の準備をする。パンと卵を皿に乗せ、コーヒーを淹れる。こんな朝が、もう何度あるか分からない。
テーブルの上は、昨日よりずっと整えられている。誰がやったわけでもなく、自然とそうなっていた。
「今日、白川さんたちが来るんだっけ?」
美咲がコーヒーをかき混ぜながら言う。
「ああ。……式の準備だって」
自分の口から“式”という言葉が出るのが、まだ少しだけ気恥ずかしかった。
朝ごはんを食べ終える頃、玄関のチャイムが鳴る。時間ぴったりだ。
ドアを開けると、白川と黒瀬が並んで立っていた。
白川はいつもの、崩れない柔らかな笑みを浮かべている。黒瀬も、前よりは少しだけ緊張が和らいで見えた。
「おはようございます。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
白川は、頭を下げる。その仕草が、今のこの世界では不自然なほどきれいだった。
美咲と顔を見合わせ、俺も「よろしくお願いします」とだけ返した。
靴を履きながら、ふと窓の外を見る。
雲が分厚く広がっていて、街全体が薄暗いままだ。
遠くで、また救急車のサイレンが鳴っていた。
今日が、“何か大きく変わる日”になる気がしてならなかった。
◇
チャペルへ向かう道すがら、街の“変わり果てた姿”が次々と目に飛び込んでくる。
歩道のアスファルトは、所々で陥没し、水たまりが濁ったまま乾いていない。
電柱に貼られた選挙ポスターが、誰にも剥がされぬまま色褪せ、風でちぎれそうに揺れている。
向かいのマンションの窓には、誰かの“助けて”という紙が貼られたまま。
数日前にはなかった“立入禁止”の黄色いテープが、新しい落書きで隠されている。
道端に置かれた古いピアノには、いつの間にか弦だけが剥き出しになり、
誰も触れぬまま、静かに錆びついている。
どこからか、焦げたプラスチックの匂いが微かに流れてきた。
風の中に、人の声はない。ただカラスの鳴き声だけが響く。
美咲は俺の腕を掴み、ゆっくりと歩を進める。
「……なんだか、全部が止まっちゃったみたいだね」
その言葉の通り、
かつてあった“日常の音”が、まるごとどこかへ消えてしまった気がした。
ただ、白川と黒瀬だけは、どこまでもまっすぐ前を向いて歩いていく。
その背中を見つめながら、俺も歩幅を合わせる。
進むほどに、
“もう戻れないんだ”という実感だけが、じわじわと胸に染みてきた。
◇
チャペルの扉を開けた瞬間、
俺も美咲も、一歩だけ足を止めてしまった。
外の世界はすべてが色褪せて、荒れ果てていたはずなのに――
この空間だけは、まるで“昨日までの世界”の断片が、奇跡的に残っているみたいだった。
バージンロードには、しっかりとアイロンのかかった白布。
割れ残ったステンドグラスから差し込む光が、床に細かな模様を落としている。
椅子はひとつひとつ、まっすぐに並び、ホコリひとつ見当たらない。
祭壇には、ドライフラワーと野草を束ねたブーケ。
中央のスポットライトが静かに灯っていて、天井まで温かい明かりが届いている。
美咲が、息を呑んだように囁いた。
「……本当に、ここだけ別世界みたいだね……」
俺も、言葉が出なかった。
正直、こんな状況で、これほど“整えられた美しさ”を目の当たりにするとは思っていなかった。
白川と黒瀬は、当たり前のように準備を続けている。
祭壇の角度を直し、ロウソクを並べ、スマホスピーカーの音を一度だけチェック。
白川の手は一切の無駄がなく、黒瀬も指示を聞き逃さない。
二人の背中を見ていると、
この人たちは本当に“ここだけは壊させない”つもりなんだ、と実感した。
美咲が俺の腕を軽くつかむ。
「……なんか、夢みたいだね」
俺は、小さく頷いた。
“失われていく世界の中で、
こんなにも“守られている場所”があるなんて――”
そう思った時、
初めて、自分たちが「本当に式を挙げるんだ」と実感できた気がした。
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