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嫌な記憶を忘れさせるために上書きしましょう
しおりを挟むもう一つの宿屋は先ほどの宿屋より少々古めかくて小さな建物である。入り口の扉を叩くと宿主と他の護衛兵が顔を出し、すぐに奥の部屋へと通してくれた。
「ローガン様」
「ヴァイン!」
部屋に入るなり、ローガン様が私に抱きついてきた。顔は青ざめ、手指は震えている。待っている間もずっと怯えていたようだ。護衛兵たちは気を遣って出て行ったので、室内には私とローガン様の二人きりとなった。
「あの女は追い返しましたよ」
「ほ、ほんとうに……?」
「ええ。本当ですとも」
ビクビクしながら、しきりに部屋の出入り口を気にするローガン様。もしかしたら、ディアナ嬢の高笑いや喚き声がここまで聞こえていたのかもしれない。
「お借りしていた上衣を返しますね」
「あ、ああ」
私を王太子だと誤認させるため、この町に入る前に互いの上衣を交換しておいたのだ。ローガン様はいま私の上衣を羽織っているが、もう正体を偽る必要はない。
しかし、ローガン様は私の上衣を脱ごうとしなかった。
「ローガン様?」
「いや、その、もう少し借りていてもいいか?」
バツが悪そうに俯きながら、私の上衣の合わせ部分をぎゅうと掴んでいる。体がすくんで脱げないわけではない。不安をまぎらわせるために私の衣服を身につけていたいのだと悟り、思わず天を仰いだ。
「……どうぞ。気が済むまでお持ちください」
「すまん、助かる」
助かるのか。私の上衣で。本当にこの御方は。
そうこうしているうちに表が騒がしくなった。護衛兵が確認し、すぐ報告しにやってくる。
「修理を終えた馬車が到着しました」
「そうか、わかった」
報告を受け、私はローガン様に向き直った。
「どうしますか。この町で一晩休むか、馬車で王都を目指すか。どちらでも構いませんが」
ディアナ嬢は追い返した。あれだけ脅しておいたのだから、しばらくは大人しくしているはずだ。少なくとも今夜はもう来ないだろう。だが、ここはまだアヴェリシア侯爵領。完全に安全とは言い難い。ローガン様に判断を委ねたのだが、やはり答えは決まっていた。
「すまないが、一刻も早くここから離れたい」
「かしこまりました」
ローガン様の意志を皆に伝え、速やかに宿屋を引き払って出立する。護衛兵や馭者には申し訳ないが、とりあえずアヴェリシア侯爵領から出るまで頑張ってもらうことにした。
馬車の中では、隣に座るローガン様が私の腕を掴んで震えていた。いつもは堂々と振る舞っているのに、今はとてもか弱く見える。それほどまでに、ディアナ嬢に対して恐怖を感じていたのだ。いまだに執着され続けていると知り、更に恐ろしくなったのだろう。
夜の街道を走る馬車は、時折り石を撥ねて車体が揺れた。その度にローガン様の体を抱きかかえ、背中をさする。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまん」
先ほどから謝ってばかりだ。自分のせいで私や護衛兵、使用人たちに迷惑をかけていると思い込んでいるらしい。悪いのはアヴェリシア侯爵とディアナ嬢で、ローガン様は被害者だというのに。
「ローガン様、余計なことを考えていませんか?」
「え……?」
問いかけると、ローガン様はぽかんとした顔で私を見た。
「自分がうまく立ち回っていれば、うまく断っていればこんなことにはならなかったのでは? とか。過去の言動を悔いていませんか?」
「そ、それは」
「よろしいですか。頭のおかしな人間に合わせる必要はありません。こちらがどう言おうと、なにをしようと都合の良いようにしか受け取ろうとしないのですから。まともにやり合っていたら神経が擦り減るだけですよ」
今回、ディアナ嬢とは会話が成り立たなかった。自分の身に危険が及ぶと気付いた時にようやく話が通じるかと思ったが、やはり意味不明なことを喚くばかりだった。
理解できない生き物なのだから、ローガン様が反省や後悔をする必要はまったくないのである。
「数年ぶりにディアナ嬢の姿を見て、声を聞いて、思い出してしまったんだ。あの日、彼女が俺の私室に入り込んだ時のことを」
頭を抱えるローガン様。記憶の片隅に追いやり、忘れかけていたトラウマを掘り起こされてしまったのだ。再び忘れるためには何年もかかることだろう。
「では、考えられないようにしましょうか」
「ヴァイン……?」
無意識のうちに嫌なことを考えてしまうのなら、別のことで上書きしてしまえばいい。
私はローガン様の肩を掴み、自分のほうへと向かせた。戸惑いながらも見つめ返してくるローガン様の目は潤み、涙がこぼれそうになっている。唇を寄せて涙を舐めとると、反射で目が閉じられた。そのまま顔を傾け、唇同士を重ねる。軽く触れ合うだけの口付けを経て、ローガン様の体からわずかに力が抜けた隙をついて口内に舌を挿入した。
「ンッ……」
苦しげな息を漏らされたので、少しだけ唇を離して呼吸を整える時間を与えた。
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