Sugar and salt

月那

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Sugar and salt

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 日下くさかエンジニアリング株式会社。
稔の勤務先であるそこは、主に電気施設の設計とそのメンテナンスを行っている会社である。
創立は二十年前と、さほど長い歴史を持つ会社ではないが、昨今の技術進化に伴って需要は少なくないため、県内においては割と有名な企業となっている。
稔の入社は二年前。
大学卒業が近付いた頃就職浪人が決定し、とりあえず派遣会社に登録だけでも済ませておいた結果、最初の派遣先である日下エンジで急遽部署の増設があり、設計の技術士としての資格を有していた稔に入社のお誘いがかかったのである。
運良く就職できた稔は、それ以来正社員として設計部設計課に勤務している。
「おい、時田君ちょっと」
 OAブースでCADとにらめっこしていた稔に課長が声を掛けた。
気分屋で有名な設計課長は仕事こそできるものの、その人間性で社内でも屈指の扱いにくい上司として有名で。
「ここ、ここ。この配管図ね、中山君に聞いてちょっとやってみてくれないか」
 まだ一から図面を描かせてもらえる程のレベルではない稔だが、流石に二年も図面と向かい合っているだけあり、課長や中山主任の軽い指示のみで殆どの設計をさせてもらえるくらいにはなっている。
少しずつでながらも自分の図面という物を世に出せるのは気持ちがいいもので、仕事が面白くなってきた頃なのだ。
「お、これは結構あれだね。うん、とりあえず簡単に描いてみるとこんな感じね」
 課長の近くに席のある主任に鉛筆描きで軽く図を描いてもらい、それを自分なりに資料を見ながら完成させていく。
勿論資料捜しからが仕事である。
自社ビルを持つ本社と違い、雑居ビルの八階九階を間借りしているという設計部。
特に稔のいる九階は、会社の中でも二つの部署が雑居しているフロアでもあり、資料のある書籍資料室は隣のメンテナンス部維持保全課、通称メンテ部を通過しなければならない。
 稔は足早にメンテ部を通り抜けて資料室に入った。
メンテ部が苦手なわけではない。
仲のいい友人や同期の連中が何人かいて、実際話しかけられたらメンテの連中と座り込んで話をすることも多々ある。
が、しかし。
「ただいまー。すげー涼しー、天国だー。もー、車ん中サウナっすよー。すげー暑かったー」
 どたどたと安全靴でフロアに入ってくる、少年と言ってもいいくらいにまだ幼さを残している彼は、メンテナンス部の今村武人-いまむらたけと-。
現場作業を終えて帰ってきた彼は、そう言うなりつなぎを脱ぎ始めた。
「おかえり。元気がいいのはいいことだけど、もうちょっと静かにしな」
 資料を捜し終えてメンテ部を通過しようとしていた稔がそんな風に注意すると、
「あ、うん。ごめん」
 小さく返した武人の目が、自分を見ていないのに気付いて辛くなる。
 これが、嫌なんだ。
 稔は小さく溜息をついて、OAブースの自分の席へと戻る。
両手に抱えていたファイルをどさりとサイドテーブルに置くと、大きく息を吐いた。
こんなこと、何度繰り返しているだろう。
同じフロアにその人がいるということが、どれだけ感情を揺るがすか。
一言が、視線が、表情が、稔を取り込む。
ただ一つの“好き”という感情の渦に。
「明日も外っすかー?」
 OAブースというメンテ部から最も離れた場所にある、しかもパーテイションに区切られたスペースであるというのに、彼のその声ははっきりと稔の耳に届く。
そんな時、人間の耳が取捨選択しているという事実を痛いほど感じるのだ。
 フロア内は確かにうるさいとは言えない。
設計部はおとなしくデスクやパソコンに向かう業務が基本であるため、静かにするのが当然である。
しかし、電話やFAXの通信音、プリンターやプロッターが作動する音など、決して静寂とは言えないフロア内である。
ましてやこれだけの物や距離によって遮断されているのだから、ここまではっきり聞こえてくる方がおかしいのだ。
事実、彼以外の人間が発する会話など殆ど聞こえてきはしない。
 なのに。
なのに、である。
こんなにもその存在感が、稔にだけは痛いほど伝わってくる。
――もう、一年以上たつのに。
 苦しかった。
姿が見えるから、声が聞こえるから。
忘れられないのだ。
だって、彼は自分を避けない。
普通に話しかけるし、普通に接する。
そう、それはもう誰に対する態度とも変わらない態度で。
だから余計に辛い。
何もなかったように、何もなかった頃に戻ったような錯覚を稔に与える。
 物理的な距離のあまりの近さに、感情としてのそれがどれだけ離れてしまったのか未だに掴めないでいるのだ。
 いっそ全く会えなければ。会わなければ。
そうすれば忘れることだってできるかもしれないのに。
実際彼が現場に出てフロアにいない時――一日の大半がそうである――稔の意識が彼へと向かうことはない。
少なくともその間は忘れているのだ。
しかし一度彼がその姿を見せ、声を聞かせると、もう流れは止まらなくなる。
上から下へと水が流れるように、意識がそっちに流れる。
彼の一挙手一投足へと全神経が向かう。
 何が苦しいと言って、それほどに苦しいことはない。
切ないなんてかわいらしいものではない。
狂ってしまうのではないかと思えるくらいに、意識が彼を求めるのだ。
それも、無意識という自分の手に負えない意識が。
本来の稔が持つ集中力を殆どないものにしてしまうその想い。
いっそ、消し去れるものなら消し去りたい。
「稔さん、本社から電話ですよ」
 資料を睨みながら完全に意識を武人に向けていた稔は、後輩である梶谷に言われて漸く我に返る。
軽く頭を振って意識を戻し、笑顔を作るとすぐ側にあった内線を取った。
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