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8 千穂先輩……!
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週明けの月曜日、私は重たい足を引きずるようにして出社した。財布のなかには北条さんから預かったカードキーが入っているが、社に入るまえに財布から上着の内ポケットに移しておいた。今日どこかで彼に会ったとき、あのカードを返してくれと言われたらすぐに返却しようと思って。
でもいつ会いに行けばいいのだろう。広報部の私が用もなく建設事業部に行くのは目立ってしまうし、大勢の目の前で御曹子に声を掛けるなんて私の性格上、無理である。
よく考えたら、北条さんには秘書が付いているはずだ。彼に会うためには、まず秘書を通さなければならないわけだ。何の御用ですかと訊かれたらどう答えるべきなのか。
うだうだ悩んでいる内に昼になり、私は鞄からお弁当を取り出した。隣のデスクの千穂先輩はだいたい社員食堂を利用しており、今日も席を外している。私が弁当を食べ終わる頃に千穂先輩は戻ってきて、ぐっと顔を寄せて私の耳元でささやいた。内緒話をするかのように。
「恩田、悪いんだけど缶コーヒー買ってきてくれない? お金渡すからさ」
「……はぁ、いいですよ。ちょうど私も例のアレを飲みたいなと思ってましたし」
いつもは自分で買ってくるのに、どうして今日は私に頼むんだろう。不思議に思ったが、先輩から小銭を受け取って席を立つ。
「あ、スマホも持ってった方がいいよ。きっと使うと思う」
「はぁ?」
訳が分からずボケッとしてると、千穂先輩は私の上着のポケットにスマホを突っ込んだ。じゃあよろしく、と言われて廊下に出る。なんでスマホがいるんだろう。飲み物を買うだけなら、小銭でいいんじゃないの?
あまりモタモタしていたら休憩時間が終わってしまうので、私は戸惑いつつも自販機のある場所へ向かった。私が好きなドリンクは少し離れた場所にあり、マイナーなメーカーのためか買い求める人も少ない。いちごミルク美味しいのに。
たどり着いたその場所にはやはりひと気がなかった。自分が好きなドリンクが売れ残っているというのは寂しいものだ。どうかこの自販機が、私の退職時まで残っていますように。祈りを込めつつ小銭を入れようとしたが、後ろから伸びてきた誰かの手に先を越された。
「あれ? ちょっと、誰よ」
「どれが飲みたいんだ?」
ほぼ真上から、つい最近なんども聞いた声がする。振り仰ぐとやはりそこには嫌味なほど整った顔があり、爽やかないい香りが私の鼻をくすぐった。長い腕のなかに閉じ込められたような状況に動揺し、頬が熱くなる。私はなにを一人で赤くなってるんだろう。
「……いちごミルクを、飲もうと思ったんです」
呟くように言うと、北条さんはボタンを押して出てきたいちごミルクを私に手渡した。お礼を言って受けとったが、ようやく自分が千穂先輩にはめられたことを悟る。顔色は赤から青に変わったかもしれない。
(千穂先輩……! 私をこの人に会わせるために、お使いを頼んだんですかあぁ)
きっと社食で北条さんに頼まれたんだろう。お陰で御曹子に会いに行くという無謀なミッションをせずに済んだが、なにかしっくり来ないものを感じる。
北条さんは缶コーヒーを買ってから私に向き合った。
「武藤さんは話の分かるいい人だな。きみが懐くのも道理だと思った」
「そうですね、とても頼りになるいい先輩です。ここに私を呼んだのは土曜日の件ですか?」
御曹子と二人きりで密会なんて、誰かに見られたらえらい事だ。特に女性社員の目が怖いので、早々に話を切り出した。北条さんは片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で缶をくるくると弄んでいる。
「そうだよ。待ってたけど、なかなか恩田さんが来ないからさ。僕から広報部に行っても良かったけど、きみは喜ばないかと思って……。僕との同棲は納得してくれた?」
「……ええ。熟考した結果、お世話になるのがベストだと思い至りました。でも会社の人には内緒にしたいんです。あまり大ごとにならないように出来ませんか?」
カードキーを返せといわれなかった事に、私は少しばかり安堵していた。今さら母と叔母にやっぱり同棲は無理でしたと説明するのはつらすぎる。
「人事部には僕から連絡しておくから、きみは何もしなくていいよ。人事部だって、北条の跡取りが同じ会社の女性と同棲するのは隠そうとするだろう。そんなに心配しなくても大丈夫だ」
「良かった、安心しました」
「じゃあ連絡先の交換をしようか」
北条さんは抜け目ない動きでスマホを出した。なんでだろう。仕事で取り引きをしているような気分になる。この人と一緒にいると、流れるような展開に付いていくのが精一杯というか……。
しかしここまで来て、引くわけにはいかない。同居を決めた以上、連絡先を交換したほうが何かと便利だろう。私は胸に渦巻く対抗心を無理やり抑えつけてスマホを操作した。
「実はもう引越しの手続きは頼んであるんだ。今週の土曜、昼過ぎに業者が行くと思うから、予定を空けておいてくれ」
「え……。分かりました、空けておきます」
何なんだろう、この手際の良さは。仕事が出来る人と言うのは皆こういうものなのか。その前に、どうして私の住所を知ってるのか……。ああ、星野のおじ様から聞いたのかな。
呆気に取られる私に北条さんは「じゃあ土曜に」と言い、長い脚で優雅に廊下を歩いていく。一歩の幅が広いせいか、あっという間に背中が見えなくなった。
「私も戻らなきゃ……。あ、その前に」
千穂先輩に頼まれていた缶コーヒーを忘れるところだった。チャリン、と鈴のような音を立てて小銭が吸い込まれていく。
缶コーヒーを持って自分のデスクに戻ると、千穂先輩は両手を合わせて私に謝罪した。
「ごめん! 恩田を売るような真似して」
「大丈夫ですよ、先輩を恨んだりしてません。むしろ面倒ごとを減らしてもらったんだから、感謝してます」
はめられたと知った時には少しショックだったが、今はありがたい事だったと理解している。私から北条さんに会いに行くのは無理だったし、御曹子から会いに来られるのも抵抗があった。
「本当に知り合いじゃないの? 先週から怒涛の展開じゃない。あ、それとも恩田に一目ぼれかな」
「そういうんじゃないです。ここでは話しにくいので、また別の場所で説明しますから」
「オッケー。じゃあ帰りにカフェに寄ろうよ。お詫びに奢ったげる」
「いいですよ」
一日の業務を終えた帰り際、青木課長に引っ越す予定だと報告した。他の社員には住所を内密にして欲しいと話すと、複雑そうな表情で「茨の道だろうが頑張れ」とエールを送られた。
確かに自分が茨に突っ込んでいる自覚はある。どうか穏便な人生を送れますようにと祈らずにはいられない。
でもいつ会いに行けばいいのだろう。広報部の私が用もなく建設事業部に行くのは目立ってしまうし、大勢の目の前で御曹子に声を掛けるなんて私の性格上、無理である。
よく考えたら、北条さんには秘書が付いているはずだ。彼に会うためには、まず秘書を通さなければならないわけだ。何の御用ですかと訊かれたらどう答えるべきなのか。
うだうだ悩んでいる内に昼になり、私は鞄からお弁当を取り出した。隣のデスクの千穂先輩はだいたい社員食堂を利用しており、今日も席を外している。私が弁当を食べ終わる頃に千穂先輩は戻ってきて、ぐっと顔を寄せて私の耳元でささやいた。内緒話をするかのように。
「恩田、悪いんだけど缶コーヒー買ってきてくれない? お金渡すからさ」
「……はぁ、いいですよ。ちょうど私も例のアレを飲みたいなと思ってましたし」
いつもは自分で買ってくるのに、どうして今日は私に頼むんだろう。不思議に思ったが、先輩から小銭を受け取って席を立つ。
「あ、スマホも持ってった方がいいよ。きっと使うと思う」
「はぁ?」
訳が分からずボケッとしてると、千穂先輩は私の上着のポケットにスマホを突っ込んだ。じゃあよろしく、と言われて廊下に出る。なんでスマホがいるんだろう。飲み物を買うだけなら、小銭でいいんじゃないの?
あまりモタモタしていたら休憩時間が終わってしまうので、私は戸惑いつつも自販機のある場所へ向かった。私が好きなドリンクは少し離れた場所にあり、マイナーなメーカーのためか買い求める人も少ない。いちごミルク美味しいのに。
たどり着いたその場所にはやはりひと気がなかった。自分が好きなドリンクが売れ残っているというのは寂しいものだ。どうかこの自販機が、私の退職時まで残っていますように。祈りを込めつつ小銭を入れようとしたが、後ろから伸びてきた誰かの手に先を越された。
「あれ? ちょっと、誰よ」
「どれが飲みたいんだ?」
ほぼ真上から、つい最近なんども聞いた声がする。振り仰ぐとやはりそこには嫌味なほど整った顔があり、爽やかないい香りが私の鼻をくすぐった。長い腕のなかに閉じ込められたような状況に動揺し、頬が熱くなる。私はなにを一人で赤くなってるんだろう。
「……いちごミルクを、飲もうと思ったんです」
呟くように言うと、北条さんはボタンを押して出てきたいちごミルクを私に手渡した。お礼を言って受けとったが、ようやく自分が千穂先輩にはめられたことを悟る。顔色は赤から青に変わったかもしれない。
(千穂先輩……! 私をこの人に会わせるために、お使いを頼んだんですかあぁ)
きっと社食で北条さんに頼まれたんだろう。お陰で御曹子に会いに行くという無謀なミッションをせずに済んだが、なにかしっくり来ないものを感じる。
北条さんは缶コーヒーを買ってから私に向き合った。
「武藤さんは話の分かるいい人だな。きみが懐くのも道理だと思った」
「そうですね、とても頼りになるいい先輩です。ここに私を呼んだのは土曜日の件ですか?」
御曹子と二人きりで密会なんて、誰かに見られたらえらい事だ。特に女性社員の目が怖いので、早々に話を切り出した。北条さんは片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で缶をくるくると弄んでいる。
「そうだよ。待ってたけど、なかなか恩田さんが来ないからさ。僕から広報部に行っても良かったけど、きみは喜ばないかと思って……。僕との同棲は納得してくれた?」
「……ええ。熟考した結果、お世話になるのがベストだと思い至りました。でも会社の人には内緒にしたいんです。あまり大ごとにならないように出来ませんか?」
カードキーを返せといわれなかった事に、私は少しばかり安堵していた。今さら母と叔母にやっぱり同棲は無理でしたと説明するのはつらすぎる。
「人事部には僕から連絡しておくから、きみは何もしなくていいよ。人事部だって、北条の跡取りが同じ会社の女性と同棲するのは隠そうとするだろう。そんなに心配しなくても大丈夫だ」
「良かった、安心しました」
「じゃあ連絡先の交換をしようか」
北条さんは抜け目ない動きでスマホを出した。なんでだろう。仕事で取り引きをしているような気分になる。この人と一緒にいると、流れるような展開に付いていくのが精一杯というか……。
しかしここまで来て、引くわけにはいかない。同居を決めた以上、連絡先を交換したほうが何かと便利だろう。私は胸に渦巻く対抗心を無理やり抑えつけてスマホを操作した。
「実はもう引越しの手続きは頼んであるんだ。今週の土曜、昼過ぎに業者が行くと思うから、予定を空けておいてくれ」
「え……。分かりました、空けておきます」
何なんだろう、この手際の良さは。仕事が出来る人と言うのは皆こういうものなのか。その前に、どうして私の住所を知ってるのか……。ああ、星野のおじ様から聞いたのかな。
呆気に取られる私に北条さんは「じゃあ土曜に」と言い、長い脚で優雅に廊下を歩いていく。一歩の幅が広いせいか、あっという間に背中が見えなくなった。
「私も戻らなきゃ……。あ、その前に」
千穂先輩に頼まれていた缶コーヒーを忘れるところだった。チャリン、と鈴のような音を立てて小銭が吸い込まれていく。
缶コーヒーを持って自分のデスクに戻ると、千穂先輩は両手を合わせて私に謝罪した。
「ごめん! 恩田を売るような真似して」
「大丈夫ですよ、先輩を恨んだりしてません。むしろ面倒ごとを減らしてもらったんだから、感謝してます」
はめられたと知った時には少しショックだったが、今はありがたい事だったと理解している。私から北条さんに会いに行くのは無理だったし、御曹子から会いに来られるのも抵抗があった。
「本当に知り合いじゃないの? 先週から怒涛の展開じゃない。あ、それとも恩田に一目ぼれかな」
「そういうんじゃないです。ここでは話しにくいので、また別の場所で説明しますから」
「オッケー。じゃあ帰りにカフェに寄ろうよ。お詫びに奢ったげる」
「いいですよ」
一日の業務を終えた帰り際、青木課長に引っ越す予定だと報告した。他の社員には住所を内密にして欲しいと話すと、複雑そうな表情で「茨の道だろうが頑張れ」とエールを送られた。
確かに自分が茨に突っ込んでいる自覚はある。どうか穏便な人生を送れますようにと祈らずにはいられない。
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