21 / 44
あの人と、どんな関係でしたか?
しおりを挟む
夕方の光が、ブラインドの隙間からオフィスに射し込んでいた。
経理部のフロアは少しずつ人が減り始め、静けさが戻りつつある。
その一角、阿波座凛のデスク前に立つ谷町光は、左手で軽くシャツの袖をまくりながら、小さく息を吐いた。
凛は目の前の書類をめくる手を止めず、パソコンの画面と紙面を交互に確認している。
だが、その動きにはいつものような迷いのなさがなかった。
指の動きが妙に遅く、ペンを取る手もぎこちない。
「……ちょっとだけ、いいですか」
光の声は普段よりも一段低い。
落ち着いた響きの中に、かすかな不安が混じっていた。
凛は応えない。
目線を上げることなく、ほんのわずかに眉を寄せる。
「今日、会ってたあの会計士の人。平野さん」
光の言葉に、凛の指先が止まる。
ページをめくりかけたまま、手が動かない。
「……何か気になることでも?」
凛の声は平静を装っていた。
けれど、少しだけ掠れたその音に、光は小さく口を結んだ。
「俺、見たんです。チーフとあの人のやり取り。
いつもと違うっていうか、他の人には見せない顔で、接してましたよね」
凛は静かに書類の端を整えながら、視線を画面に戻す。
「業務上の関係があっただけです。以前、彼はこの会社に在籍していたこともあるので」
「だけ?」
光の言葉が、少しだけ尖る。
だが、それは怒りではなく、戸惑いのにじんだ響きだった。
「“業務上の関係があっただけ”って、そんなに他人行儀に言うなら、
むしろ何かあったって、言ってるようなもんじゃないですか」
凛は顔を上げなかった。
ただ、机の端に置いた書類を何度も揃え直す指先が、その内心を語っていた。
「……あなたに関係のある話ではないと思います」
凛のその言葉は、淡々としていた。
けれど、光にとっては、その淡白さがむしろ苦しかった。
「俺が、凛さんを好きじゃなかったら。
たぶんそうだったかもしれません。
でも今は、そうじゃない」
凛はようやく、静かに顔を上げた。
光の目を、まっすぐに見た。
その瞬間、何かが空気の中で切り替わった。
光はその視線に、一瞬怯んだように見えたが、すぐに立て直す。
声を落とし、少しだけ笑うように言った。
「……嫉妬とか、そういうんじゃないです。
でも、気になるんですよ。
自分が知らない凛さんを、他の人が“知ってる”っていうのが」
凛はその言葉に、口を開きかけて、言葉を引っ込めた。
目線だけが、再び机上へと落ちる。
「平野さんと、何かあったんですね。
恋人だった、とか……付き合ってた、とか」
その直球の言葉に、凛は少しだけ息を止めた。
だが、否定もしなかった。
「……過去の話です」
「でも、消えてはいない。今も、その記憶は凛さんの中にある」
光はそう言いながら、机に片手を置いた。
指先が震えてはいない。
けれど、その声には誤魔化せない揺れがあった。
「凛さんが、俺にそれを話さないのは、
まだ整理がついてないからですか?
それとも、俺には“聞かせる価値がない”って、思ってるからですか?」
凛はその問いに、即答できなかった。
何も言えず、ただ視線を机の一点に落としたまま、黙っていた。
過去を話すことは、過去を“再び生かす”ことに近い。
そしてそれは、自分が過去のままであることを認めることでもある。
けれど、凛は思っていた。
もう、あの頃の自分ではない。
弱さを見せられなかった自分、感情を閉ざしていた自分。
そのすべてから、少しずつでも変わってきたのだと。
だからこそ――今、平野との過去を口にすることが、
どこかで“後退”になるような気がして、怖かった。
「……私は、もう過去の自分ではないと思いたい」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
光は少し驚いたように凛を見たが、すぐに頷いた。
「だったら、今の凛さんを、俺にもっと見せてください」
それだけを残して、光は静かに立ち去った。
後ろ姿はまっすぐで、だがその肩越しに見えた横顔は、少しだけ寂しそうだった。
残された凛は、ようやく肩から力を抜いて、椅子の背に体を預けた。
窓の外はもう夕闇に染まり始めている。
その色をぼんやりと見つめながら、凛はそっと目を閉じた。
過去と向き合うことは、思ったよりずっと難しい。
だが、それでも。
今、自分のそばに立ってくれる誰かがいる。
そう思えたことだけは、たしかに、救いだった。
経理部のフロアは少しずつ人が減り始め、静けさが戻りつつある。
その一角、阿波座凛のデスク前に立つ谷町光は、左手で軽くシャツの袖をまくりながら、小さく息を吐いた。
凛は目の前の書類をめくる手を止めず、パソコンの画面と紙面を交互に確認している。
だが、その動きにはいつものような迷いのなさがなかった。
指の動きが妙に遅く、ペンを取る手もぎこちない。
「……ちょっとだけ、いいですか」
光の声は普段よりも一段低い。
落ち着いた響きの中に、かすかな不安が混じっていた。
凛は応えない。
目線を上げることなく、ほんのわずかに眉を寄せる。
「今日、会ってたあの会計士の人。平野さん」
光の言葉に、凛の指先が止まる。
ページをめくりかけたまま、手が動かない。
「……何か気になることでも?」
凛の声は平静を装っていた。
けれど、少しだけ掠れたその音に、光は小さく口を結んだ。
「俺、見たんです。チーフとあの人のやり取り。
いつもと違うっていうか、他の人には見せない顔で、接してましたよね」
凛は静かに書類の端を整えながら、視線を画面に戻す。
「業務上の関係があっただけです。以前、彼はこの会社に在籍していたこともあるので」
「だけ?」
光の言葉が、少しだけ尖る。
だが、それは怒りではなく、戸惑いのにじんだ響きだった。
「“業務上の関係があっただけ”って、そんなに他人行儀に言うなら、
むしろ何かあったって、言ってるようなもんじゃないですか」
凛は顔を上げなかった。
ただ、机の端に置いた書類を何度も揃え直す指先が、その内心を語っていた。
「……あなたに関係のある話ではないと思います」
凛のその言葉は、淡々としていた。
けれど、光にとっては、その淡白さがむしろ苦しかった。
「俺が、凛さんを好きじゃなかったら。
たぶんそうだったかもしれません。
でも今は、そうじゃない」
凛はようやく、静かに顔を上げた。
光の目を、まっすぐに見た。
その瞬間、何かが空気の中で切り替わった。
光はその視線に、一瞬怯んだように見えたが、すぐに立て直す。
声を落とし、少しだけ笑うように言った。
「……嫉妬とか、そういうんじゃないです。
でも、気になるんですよ。
自分が知らない凛さんを、他の人が“知ってる”っていうのが」
凛はその言葉に、口を開きかけて、言葉を引っ込めた。
目線だけが、再び机上へと落ちる。
「平野さんと、何かあったんですね。
恋人だった、とか……付き合ってた、とか」
その直球の言葉に、凛は少しだけ息を止めた。
だが、否定もしなかった。
「……過去の話です」
「でも、消えてはいない。今も、その記憶は凛さんの中にある」
光はそう言いながら、机に片手を置いた。
指先が震えてはいない。
けれど、その声には誤魔化せない揺れがあった。
「凛さんが、俺にそれを話さないのは、
まだ整理がついてないからですか?
それとも、俺には“聞かせる価値がない”って、思ってるからですか?」
凛はその問いに、即答できなかった。
何も言えず、ただ視線を机の一点に落としたまま、黙っていた。
過去を話すことは、過去を“再び生かす”ことに近い。
そしてそれは、自分が過去のままであることを認めることでもある。
けれど、凛は思っていた。
もう、あの頃の自分ではない。
弱さを見せられなかった自分、感情を閉ざしていた自分。
そのすべてから、少しずつでも変わってきたのだと。
だからこそ――今、平野との過去を口にすることが、
どこかで“後退”になるような気がして、怖かった。
「……私は、もう過去の自分ではないと思いたい」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
光は少し驚いたように凛を見たが、すぐに頷いた。
「だったら、今の凛さんを、俺にもっと見せてください」
それだけを残して、光は静かに立ち去った。
後ろ姿はまっすぐで、だがその肩越しに見えた横顔は、少しだけ寂しそうだった。
残された凛は、ようやく肩から力を抜いて、椅子の背に体を預けた。
窓の外はもう夕闇に染まり始めている。
その色をぼんやりと見つめながら、凛はそっと目を閉じた。
過去と向き合うことは、思ったよりずっと難しい。
だが、それでも。
今、自分のそばに立ってくれる誰かがいる。
そう思えたことだけは、たしかに、救いだった。
71
あなたにおすすめの小説
【完結】君の穿ったインソムニア
古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。
純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。
「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」
陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。
染まらない花
煙々茸
BL
――六年前、突然兄弟が増えた。
その中で、四歳年上のあなたに恋をした。
戸籍上では兄だったとしても、
俺の中では赤の他人で、
好きになった人。
かわいくて、綺麗で、優しくて、
その辺にいる女より魅力的に映る。
どんなにライバルがいても、
あなたが他の色に染まることはない。
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
【完結】ネクラ実況者、人気配信者に狙われる
ちょんす
BL
自分の居場所がほしくて始めたゲーム実況。けれど、現実は甘くない。再生数は伸びず、コメントもほとんどつかない。いつしか実況は、夢を叶える手段ではなく、自分の無価値さを突きつける“鏡”のようになっていた。
そんなある日、届いた一通のDM。送信者の名前は、俺が心から尊敬している大人気実況者「桐山キリト」。まさかと思いながらも、なりすましだと決めつけて無視しようとした。……でも、その相手は、本物だった。
「一緒にコラボ配信、しない?」
顔も知らない。会ったこともない。でも、画面の向こうから届いた言葉が、少しずつ、俺の心を変えていく。
これは、ネクラ実況者と人気配信者の、すれ違いとまっすぐな好意が交差する、ネット発ラブストーリー。
※プロットや構成をAIに相談しながら制作しています。執筆・仕上げはすべて自分で行っています。
平凡な男子高校生が、素敵な、ある意味必然的な運命をつかむお話。
しゅ
BL
平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。
基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。
一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。
それでも宜しければどうぞ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる