残業100時間で恋に落ちるとは聞いてません~その手を取ってしまえば、もう後戻りはできない

中岡 始

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第8章:自分の足で歩くために

このままじゃ、俺、また壊れる

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喫煙室のドアが静かに開いたとき、冷たい光が床を横切った。

昼休みが過ぎたばかりの時間帯。  
社内にはまだ食事から戻らぬ人影があり、フロア全体が少しだけ緩やかに揺れている。  
だが、この小さな部屋の中には誰の気配もなかった。  
ただ窓がわずかに開けられていて、細く通る外気が、室内の空気をわずかに動かしていた。

玲は、無言のまま灰皿の前に立ち、煙草を一本取り出す。  
ライターの金属音がかすかに響き、火が灯る。  
白く細い煙が、静かに上昇していく。  
玲の手元が、わずかに震えていた。

ドアが再び開く音がして、陸が入ってきた。

彼は言葉を発しなかった。  
ただ缶コーヒーを手にし、玲の隣、壁際に背中を預ける。

無言の並び。  
だがその沈黙は、息苦しさをともなっていた。  
いつもの、安らぐような間ではなかった。

玲は視線を正面の窓の外に向けたまま、静かに口を開く。

「辞めようと思ってる」

その言葉は、ほとんど音にならないくらい低く、落ち着いていた。  
けれど、その一語一語が、確かな重みで空気を切った。

陸は一瞬だけ動きを止める。  
缶コーヒーを口元に運ぼうとした手が、途中で止まり、ゆっくりと元に戻る。

「……どういう意味ですか」

ようやく絞り出した声は、思ったよりも小さかった。  
玲は、答えるまでに少し間を置いた。  
煙草を唇から外し、灰皿に軽く灰を落とす。

「そのままの意味や」

「制作三課、退職ってことですか」

「うん」

短く返すその声音に、迷いはなかった。  
ただ、淡く乾いていた。

「俺な、ずっと思ってた」

玲は、煙の向こうを見つめながら続ける。

「逃げるのはあかん、って。途中で投げ出したら、また自分を嫌いになるって。  
せやから、なんとか持ちこたえてきた。……けどな」

風がまた吹き込み、煙草の煙をやさしく押した。  
玲の髪がふわりと揺れる。

「俺、ずっと“持ちこたえる”ばっかりやってて、気づいたら何も残ってへんかったんや」

陸は、胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。  
言葉が、出てこない。  
目の前の人間が、決して弱音を吐かないその人が、いま確かに“手放す”選択を口にしている。  
それが、どれだけの決意か。  
簡単に「そうですか」と返していい話じゃないことが、骨の奥まで伝わってきた。

「……だから、辞めるんですか」

陸の声もまた、乾いていた。

玲は頷く。

「逃げるんやなくて、自分で選びたい。  
逃げ癖とか、責任感とか、そういうの全部いったん脇に置いて……  
ただ、今度は、俺自身が決めた道を歩きたいだけや」

そして、少しだけ声の調子を落とす。

「このままやと、俺、また壊れる」

その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が変わった気がした。  
音もなく落ちていくような、沈みこむ感覚。  
陸の視界の端で、灰皿の中の煙草が静かに燃え尽きかけていた。

壊れる。  
その言葉は、玲の口から聞くにはあまりにも重すぎた。  
誰にも頼らず、常に自分で立ち、自分で選び、自分で責任を取ってきた人間が、  
その選択の先に“壊れる”という言葉を使うほどに、追い込まれていた。

陸は言葉を探した。  
けれど、出てくるのは「辞めないでください」とか、「それは間違ってます」とか、  
相手の選択を否定するような言葉ばかりだった。

それを言えば、きっと玲はまた、少しだけ笑って受け流す。  
あるいは、何も言わずに自分の意思を貫く。  
どちらにしても、そこに陸の気持ちを“置く余白”は残らない気がした。

だから、黙った。  
ただ隣に立ったまま、冷たい風の中で煙草の匂いを感じていた。

玲は、灰皿に煙草をもみ消す。  
そして、振り返らずに、ドアへ向かって歩き出す。

その背中が、ひどく静かだった。  
足音ひとつ立てずに、白い光の中へと溶けていく。

ドアが閉まったあとも、陸はその場を動けなかった。  
手の中の缶コーヒーはまだ温かい。  
けれど、胸の中はひどく冷たかった。

「壊れる」  
その一言が、何度も耳の奥で繰り返されていた。
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