残業100時間で恋に落ちるとは聞いてません~その手を取ってしまえば、もう後戻りはできない

中岡 始

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第8章:自分の足で歩くために

ここからが、始まりやと思う

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玲が制作三課のデスクに最後のデータを整理していたのは、午後三時を少し回った頃だった。  
メールの自動転送設定、共有フォルダの管理権限、紙の資料の処分先――細々とした作業が黙々と進んでいく。  
周囲の社員たちは、忙しさに追われながらも時折視線を向けてくるが、誰も声をかけはしなかった。  
玲がそういう人間であることを、もう皆がわかっていたからだ。

ただ、陸だけが違った。

ひとつ向こうのデスクから、ふと立ち上がって玲の席へと歩み寄ってくる。  
玲が振り向くより先に、段ボール箱をひとつ、そっと足元に置いた。

「これ、空いてました。使います?」

「……ありがとう」

それだけだった。  
でも、その言葉には以前よりも、ほんのわずかに体温が宿っていた。

陸は黙って、モニターの裏に並べられた本や資料を順に段ボールへ移していく。  
玲が細かな分類をしながら手を止めるたび、その手元の動きを目で追う。

玲は、指先の使い方ひとつとっても、どこか繊細だった。  
資料の角をぴたりと揃える様子や、ホチキスの向きを気にするしぐさ。  
そのすべてが、この人の“生き方”そのもののように思えた。

「……変な感じやな」

玲がぼそりと呟いた。

「自分の荷物、こうやってまとめてるのに、あんまり実感ないわ」

「たぶん、実感って、去ってから来るもんですよ」

陸は段ボールの隙間にクッション材を詰めながら答える。

「俺も前の部署、異動したとき、最後まで“来週また来る気で”片付けてました」

玲が、ふっと息を漏らして笑った。  
それは、ほんのわずかだったが、確かに笑顔だった。  
声にならないその笑みに、陸は目を細めた。

すべての荷物が収まり、デスクの上がからになる。  
玲は最後にモニターの電源を落とし、椅子の背もたれに手を添えた。

「この椅子、合わんかったな。腰、ずっと痛かった」

「言ってくださいよ、替えられたのに」

「それでも、自分で選んだもんやからな」

玲は小さく呟いてから、椅子をそっと押し戻した。

フロアを出るとき、数人の社員たちが立ち上がり、簡単なお辞儀を送ってくれた。  
玲も、静かに一礼を返す。  
それは感情の濃さではなく、関係の深さを示すようなやり取りだった。

陸は最後の段ボールを片手に、玲と一緒にエレベーター前へ向かった。  
誰もいない廊下。  
夕方の光が窓越しに差し込み、床にふたりの影を落とす。

エレベーターのランプが、静かに下から上がってくる。  
ふたりの間には、数センチの距離。  
それでも、肩がほとんど触れるほど近かった。

「……始まりますね」

陸がぽつりとつぶやいた。

玲は、わずかに頷いた。

その横顔に、はじめて“先を見る目”が宿っていた。  
過去に怯えず、未来に不安を抱えながらも、それでも歩こうとする人間の目。

そして、ほんのすこしだけ口元が緩んだ。  
それは玲にとって、精一杯の「前向き」だった。

カン、と軽い音を立ててエレベーターの扉が開く。  
中には誰もいない。

陸は無言のまま、段ボールを抱えたまま乗り込む。  
玲も続く。  
並んで立ったとき、ふたりの影が後ろに伸びて、エレベーターの奥へ吸い込まれていく。

扉がゆっくり閉まり始める。

その瞬間、玲が小さく息を吐くのが聞こえた。  
何かを手放し、何かを始めるような、その呼吸の音。

そして、音もなく扉が閉じた。

ここからが、ふたりの始まりだった。  
言葉ではなく、行動で、沈黙で、そして確かな決意で交わされた――  
そんな静かな第一歩。
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