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第9章:未完成のままで、はじめよう
ロゴ、まだ決まってへんけど
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木造の雑居ビル。その三階にある一室は、改装らしい改装もされずに使われていた。
床はすり減ったフローリングで、ところどころきしむ音がする。
壁はかつて白だったであろう色がくすみ、薄い黄土色に近くなっていた。
天井の蛍光灯は一本が点滅していて、まるで誰かが寝ぼけて瞬きを繰り返しているようだった。
大きな窓がひとつある。
窓枠の塗装は剥がれかけていて、開け閉めには力が要る。
だが、午後の日差しがよく入る。ビルの谷間から抜ける風が、古びたレースのカーテンをかすかに揺らしていた。
その部屋の中心に、ばらばらの机と椅子が三脚。
すべて中古品で、色も高さも統一されていない。
ひとつは金属脚の丸椅子、もうひとつは背もたれがギシギシと鳴る木製の回転椅子。
そして、その中央の机にだけ、新しいものがひとつあった。
銀色のノートパソコン。まだ保護フィルムの角がついたまま。
玲はそのパソコンに向かい、無言でモニターを見つめていた。
画面にはグラフィックソフトが開かれ、いくつかのロゴ候補が並んでいる。
フォントの試作、色の調整、配置バランス。
だが、いずれにもチェックは入っていなかった。
玲は腕を組み、椅子に浅く座り直す。
シャツの袖が肘までまくり上げられており、煙草のケースがすぐ手の届く場所に置かれていた。
ドアがノックもなく、軽く開いた。
「お邪魔します」
陸の声だった。
手にはコンビニの袋を提げている。袋からは、インスタントコーヒーの箱と、スティックシュガー、紙コップが少し顔を出していた。
玲はちらと視線を向け、少しだけ口元を動かした。
「それ、ありがたく使わせてもらうわ」
「さっき来る前に、買い足しました。こっちってカフェも微妙に遠いですし」
陸はそう言って、備えつけの棚の一角にコーヒーセットを並べはじめた。
その動作があまりに自然で、この場所に最初からいたかのようだった。
玲は煙草を一本取り出し、火をつける。
指先に乗った火が一瞬だけ光を反射し、そのまま静かに煙が立ち上る。
「……ロゴ、まだ決まってへんけど」
ぽつりと、玲が言った。
「それでも、ええんや。なんか、いまはこの“途中”が、ちゃんと自分のもんやって思えるから」
陸はふと手を止め、その言葉を反芻するように目を細めた。
「途中、ですか」
「せや。今までの俺、完成させることばっかり考えてた。
“納品できるか”とか、“通るか”とか、誰かの評価ばっかり気にして……
でも今は、途中のままのこの部屋も、未完成のロゴも、なんか全部悪くない気ぃしてて」
玲は煙草をくゆらせながら、視線を宙に滑らせた。
「完璧ちゃうけど、自分で選んだ。全部、自分の責任で、好きにやってええって、思えるだけで違うもんやな」
その言葉に、陸は静かにうなずく。
パソコンの画面越しに、白地に乗ったロゴの仮案がいくつも並ぶ。
どれもプロの目から見れば十分に美しいものだった。けれど、その中に“答え”はまだなかった。
「ロゴって、答えひとつじゃないですよね」
「うん。せやけど、どれか選ばなあかん。
でもな、たぶん今回は、“選びきらん自分”ごと、出してみてもええんちゃうかって思うてる」
玲の声は静かで、だが確かに芯を持っていた。
陸は、そんな玲の横顔をじっと見つめた。
弱さを隠すためでも、強さを誇るためでもない。
ただ、自分の足で立とうとする人の目。
その横顔に、どうしようもなく胸が熱くなるのを感じた。
玲が吸い込んだ煙を、細くゆっくりと吐き出す。
その煙が、差し込む午後の光に淡く溶けていった。
この場所に、何か特別なものがあるわけじゃない。
狭くて、古くて、誰も知らない部屋。
でも、いま隣にこの人がいて、ふたりでこの空間を作っていけるなら――
陸は思った。
“未完成でもええ、ここは、もう俺の居場所や”
誰にも言わずにそう呟いて、紙コップに湯を注ぐ音に耳を澄ませた。
床はすり減ったフローリングで、ところどころきしむ音がする。
壁はかつて白だったであろう色がくすみ、薄い黄土色に近くなっていた。
天井の蛍光灯は一本が点滅していて、まるで誰かが寝ぼけて瞬きを繰り返しているようだった。
大きな窓がひとつある。
窓枠の塗装は剥がれかけていて、開け閉めには力が要る。
だが、午後の日差しがよく入る。ビルの谷間から抜ける風が、古びたレースのカーテンをかすかに揺らしていた。
その部屋の中心に、ばらばらの机と椅子が三脚。
すべて中古品で、色も高さも統一されていない。
ひとつは金属脚の丸椅子、もうひとつは背もたれがギシギシと鳴る木製の回転椅子。
そして、その中央の机にだけ、新しいものがひとつあった。
銀色のノートパソコン。まだ保護フィルムの角がついたまま。
玲はそのパソコンに向かい、無言でモニターを見つめていた。
画面にはグラフィックソフトが開かれ、いくつかのロゴ候補が並んでいる。
フォントの試作、色の調整、配置バランス。
だが、いずれにもチェックは入っていなかった。
玲は腕を組み、椅子に浅く座り直す。
シャツの袖が肘までまくり上げられており、煙草のケースがすぐ手の届く場所に置かれていた。
ドアがノックもなく、軽く開いた。
「お邪魔します」
陸の声だった。
手にはコンビニの袋を提げている。袋からは、インスタントコーヒーの箱と、スティックシュガー、紙コップが少し顔を出していた。
玲はちらと視線を向け、少しだけ口元を動かした。
「それ、ありがたく使わせてもらうわ」
「さっき来る前に、買い足しました。こっちってカフェも微妙に遠いですし」
陸はそう言って、備えつけの棚の一角にコーヒーセットを並べはじめた。
その動作があまりに自然で、この場所に最初からいたかのようだった。
玲は煙草を一本取り出し、火をつける。
指先に乗った火が一瞬だけ光を反射し、そのまま静かに煙が立ち上る。
「……ロゴ、まだ決まってへんけど」
ぽつりと、玲が言った。
「それでも、ええんや。なんか、いまはこの“途中”が、ちゃんと自分のもんやって思えるから」
陸はふと手を止め、その言葉を反芻するように目を細めた。
「途中、ですか」
「せや。今までの俺、完成させることばっかり考えてた。
“納品できるか”とか、“通るか”とか、誰かの評価ばっかり気にして……
でも今は、途中のままのこの部屋も、未完成のロゴも、なんか全部悪くない気ぃしてて」
玲は煙草をくゆらせながら、視線を宙に滑らせた。
「完璧ちゃうけど、自分で選んだ。全部、自分の責任で、好きにやってええって、思えるだけで違うもんやな」
その言葉に、陸は静かにうなずく。
パソコンの画面越しに、白地に乗ったロゴの仮案がいくつも並ぶ。
どれもプロの目から見れば十分に美しいものだった。けれど、その中に“答え”はまだなかった。
「ロゴって、答えひとつじゃないですよね」
「うん。せやけど、どれか選ばなあかん。
でもな、たぶん今回は、“選びきらん自分”ごと、出してみてもええんちゃうかって思うてる」
玲の声は静かで、だが確かに芯を持っていた。
陸は、そんな玲の横顔をじっと見つめた。
弱さを隠すためでも、強さを誇るためでもない。
ただ、自分の足で立とうとする人の目。
その横顔に、どうしようもなく胸が熱くなるのを感じた。
玲が吸い込んだ煙を、細くゆっくりと吐き出す。
その煙が、差し込む午後の光に淡く溶けていった。
この場所に、何か特別なものがあるわけじゃない。
狭くて、古くて、誰も知らない部屋。
でも、いま隣にこの人がいて、ふたりでこの空間を作っていけるなら――
陸は思った。
“未完成でもええ、ここは、もう俺の居場所や”
誰にも言わずにそう呟いて、紙コップに湯を注ぐ音に耳を澄ませた。
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