残業100時間で恋に落ちるとは聞いてません~その手を取ってしまえば、もう後戻りはできない

中岡 始

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第9章:未完成のままで、はじめよう

内示出ました。東京です

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会議室のドアが閉まると同時に、空気がひとつ、区切られたような気がした。

「天城、お前には期待してるぞ。東京のチームも若返り図ってるし、ちょうどいい時期だ」

そう言って、課長が軽く背中を叩いた。

陸は微笑んで頷いた。反射的に出た笑みだった。  
声も自然に出たつもりだった。

「ありがとうございます。……頑張ります」

それで会話は終わった。  
あとは定例報告と、人事移動の通知。  
出世ルートと言われる東京本社の戦略部門。  
同期の中でも早い方だと、廊下で誰かがひそひそ声で言っているのが聞こえた。

陸は、一礼して会議室を出ると、自分の席へと戻った。

椅子に腰を下ろした瞬間、体のどこかが重たくなるのを感じた。  
別に疲れているわけじゃない。  
むしろ、もっと早くこうなるべきだとさえ、思っていた。

ただ、心の中に湧き上がったものは、達成感でも誇らしさでもなかった。

「東京かあ、すごいな」

向かいの席から長谷川が声をかけてきた。  
その隣では木原がコーヒー片手にうなずいている。

「いいやん、あっち行ったら仕事もさらに広がるし、接待とかも東京のが楽しそうやろ」

「うーん、俺やったら即決で行くなあ」

陸は曖昧に笑ってみせた。

「まあ……そうっすね。ありがたい話です」

それ以上は何も言えなかった。  
いや、言わなかった。  

玲の名前を口にすることも、  
大阪での生活が自分にとってどれだけ変化をもたらしたかも、  
誰にも説明できる気がしなかった。

午後の仕事は、思ったよりも手につかなかった。  
エクセルの数字は頭に入らず、報告メールの文面も何度も書き直した。  
ふと気づけば、カーソルが画面上で点滅を繰り返しているだけで、指が動いていない。

「……内示、か」

声に出してみても、その語感はどこか他人事だった。

定時を過ぎ、なんとか最低限のタスクを終えた頃には、フロアは静かになっていた。  
机の上の書類を軽く揃えて、PCを閉じ、コートを引っかけて立ち上がる。

足が、自動的に玲の事務所の方向を向くのを感じた。

だが、今日はそのまま駅へ向かった。  
何も考えずに乗った電車の中で、玲の顔が何度も浮かんだ。  
喫煙室で煙草をくゆらせる横顔。  
仮眠室で静かに眠っていたときの、少しあどけない寝顔。  
退職の日、段ボールに囲まれながら、「始まる」と言って笑った声。

気づけば、携帯電話を手にしていた。

玲にメッセージを送ろうとする指が止まる。  
何を書けばいいのかわからなかった。

“東京に行くことになった”  
その事実をただ伝えることが、こんなにも難しいとは思わなかった。

「行きます」と伝えることは、「離れる」と言うことだった。  
「選びます」と伝えることは、「そっちは選ばない」と言うことだった。

どちらの言葉も、今の陸には使えなかった。

部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。  
コートも脱がず、靴も中途半端に脱ぎかけのまま。

天井の灯りが薄く照らす中で、携帯の画面をもう一度開いた。

玲の名前をタップする。  
トーク履歴が表示される。  
「ロゴまだ決まってないけど」「インスタントコーヒー助かる」  
そんな短いやり取りの数々。

その中に、どれだけの時間を、言葉にしきれない思いを詰めてきたか。

「今のままでええんかな……」

呟いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。

東京という場所が、キャリアにとって重要なステージであることはわかっていた。  
陸自身、目指してきた道だった。

でも、今はその道が、ひどく遠くに感じた。

玲と過ごすあの事務所の午後。  
段ボールの山。未完成のロゴ。  
寄せ集めの椅子と、壊れかけた窓。

完璧からはほど遠い空間。  
けれど、自分の心が“ここにいたい”と願う場所だった。

指が再び動く。  
画面に何かを打とうとするが、やはり言葉にならない。

最後に画面を閉じて、ベッドの上に寝転んだまま天井を見上げた。

このまま何も変えずに過ごすか。  
それとも、自分の意思で動くか。

選ばなければいけないことはわかっていた。  
だが、今はまだ、そのどちらの選択も、重すぎて手に取れなかった。
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