残業100時間で恋に落ちるとは聞いてません~その手を取ってしまえば、もう後戻りはできない

中岡 始

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第9章:未完成のままで、はじめよう

どっちに進んでも、たぶん間違いやない

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駅から少し歩いた場所にある喫茶店は、チェーン店のように整ってはいなかったが、どこか時間の流れが緩やかだった。  
木製のテーブルは年季が入っていて、メニュー表の角もくたりと丸まっている。  
それでも、店内は清潔で、穏やかなジャズが流れていた。

日曜の午後。  
客はまばらで、二人が座った窓際の席からは、曇りがちな空とくすんだビルの外壁が見える。

玲はノートパソコンを開き、テンキーで何かを打ち込んでいた。  
画面には請求書のテンプレート。  
テンプレートサイトでダウンロードしたままの形式が表示され、玲はその中の会社名を削除してから、躊躇いながら自分の名前を入力していた。

「如月玲」  
その文字を見つめて、しばらくカーソルを止める。

その様子を隣から眺めていた陸が、そっと口を開いた。

「自分の名前で仕事するって、どうですか」

玲は指を止めたまま、少しだけ眉を寄せた。

「……まだ慣れへん」  
「なんか、変な感じ。  
ずっと“会社の名前”に守られてたから、自分の名前が名刺に乗るって、思ったより怖いな」

「でも、それだけ自分で動けてるってことですよね」

玲は小さく息を吐いた。

「それがしんどいって思う時もあるけどな。  
全部、良くても悪くても“自分のせい”になるってことやから」

そう言いながら、玲は再びキーボードを叩いた。  
肩の動きがどこかぎこちない。  
背筋を真っ直ぐに保ってはいるが、それは緊張を隠すための姿勢のようにも見えた。

陸は、温かいカフェオレのカップを手の中で転がしながら、口を開こうとして、閉じた。

東京異動の話が喉元まで出かかっていた。  
でも、今言うべきか迷っていた。  
玲の立ち上がりを、支えたいと心から思っていた。  
そして、自分がその一部でいられることが嬉しかった。

だからこそ、躊躇いが生まれる。

玲のこの静かな時間を、壊してしまうかもしれない。  
そう思うと、言葉が鈍くなった。

「……なんか、難しいな」

玲がぽつりと呟いた。

「何がですか」

「決めること、っていうのは、いつも簡単にはいかんもんやなって。  
やりたい気持ちがあっても、迷いが消えるわけやないし」

カップを持つ指先が、かすかに震えていた。

「俺、もっと早くに動けばよかったって、何回も思ってきたけど……  
ほんまは、誰かに“どっちでもええよ”って言うてもらいたかったんやと思う」

陸は、手にしたカップの重さを確かめるように持ち直した。

「それって……決めたことを笑わん人がいるって、ことですか」

玲は少しだけ口元を緩めた。

「せやな。どっちに進んでも、たぶん間違いやないって思わせてくれる人がいたら、もっと楽やったんかも」

その言葉が、胸に響いた。  
それは、玲の後悔のようでもあり、希望のようでもあった。

そして、陸はふと思った。

今、俺はその言葉の“答え”になれるやろか。

笑わない。  
否定しない。  
どこへ向かっても、隣にいられる自分でいたい。

カップを置き、テーブル越しに玲の横顔を見つめた。  
視線の先には、未完成の請求書がまだ開かれていた。

「どっち選んでも、たぶん間違いやないって、俺も思いますよ。  
選んだあとのことを、どう過ごすかやって思うし」

玲は反応を返さず、ただ小さくうなずいた。

外は相変わらず曇っていた。  
空の色も、街の風景も、派手なものは何もなかった。

でも、カップの中のコーヒーが少しだけ温かかったように、  
ふたりの間には、確かに熱のようなものがあった。

それは、恋と呼ぶにはあまりにも静かで、  
でも、一緒に歩いていくことを想像させるような、  
そんな柔らかい気配だった。
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