恋をあきらめた美人上司、年下部下に“推し”認定されて逃げ場がない~「主任が笑うと、世界が綺麗になるんです」…やめて、好きになっちゃうから!

中岡 始

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第6章『元恋人は職場の先輩』

名前を呼ばれただけで

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平日の朝のエントランスは、いつもより少し騒がしかった。  
秋の気配が深まる十月の風は冷たく、通勤客の背中にスーツの布地を擦らせていく。  
理玖はいつもより少し早めにビルに着いて、エレベーターの前でスマートフォンを確認していた。

今日の会議は午後から。午前中は部内の進捗整理だけだ。特に準備するものもない。  
それでも、どこか落ち着かない気分があった。

エレベーターの数字がゆっくり降りてくるのを眺めていたとき、不意に背後から声がした。

「理玖」

その一言で、視界がぐにゃりと揺れたような感覚に襲われた。

振り返る前に、心臓が一瞬で跳ねた。  
どうして、その声を覚えているのか。  
どうして、その響きが、体に直接触れるような感触になるのか。

ゆっくりと、理玖は振り向いた。

そこに立っていたのは、小田切誠だった。

変わっていない。  
少し髪が伸びていて、ジャケットの色合いがやわらかくなっていたくらいで、印象は以前とほとんど同じだった。

落ち着いた目元、静かな笑み。  
懐かしい、けれど決して温かくはない記憶の奥に沈んでいる、そのままの顔だった。

「久しぶりだな。…二年ぶり、かな」

理玖はすぐに言葉を返せなかった。  
のどが張りついたように、呼吸の仕方さえ忘れていた。

誠は、理玖の表情の変化に気づいているのか、いないのか。  
穏やかな口調のまま言葉を続ける。

「本社にしばらく来ることになって。経理の応援で。聞いてない?」

「……いや、初耳だ」

ようやく出た声は、わずかに掠れていた。

「そうか。まあ、突然だったからね」

誠は目線をそらし、エレベーターの表示を見上げた。  
数値はまだ十階を示している。

「元気にしてた?」

その言葉が、意外だった。

別れたあと、何の連絡もなかった。  
共通の知人に聞いても、誠は何も言っていなかった。  
そして理玖も、連絡を取ろうとはしなかった。取れなかった。

「まあ、なんとか」

その答えしか出てこなかった。

誠は「そっか」とだけ言って、小さく笑った。

エレベーターの扉が開く音がして、理玖が乗り込もうとしたとき、誠が一歩だけ前に出た。

「また、どこかで」

理玖は何も言わずにうなずいた。

扉が閉まりかけた瞬間、その向こうで誠がひとつだけ、ぽつりとつぶやいた。

「変わってないな」

それが何を意味するのか、解釈する余裕はなかった。

エレベーターの中、理玖は深く息を吐いた。  
心臓の鼓動がまだ少し速い。  
こめかみに汗のようなものがにじんでいる気がした。

名前を呼ばれただけなのに、こんなにも体が反応するなんて。  
もう過ぎたことだと思っていたのに。  
もう、忘れていたと思っていたのに。

…まだ、どこかで引きずっていたのか。

そう思った瞬間、情けなさが胸の奥を突いた。

もう平気だと、何度も言い聞かせてきた。  
他人として会っても動じないと、思い込んできた。  
でも、それはただの予防線だったのかもしれない。

階が上がるにつれ、頭の中が白くぼやけていく。

その頃、エレベーターホールの少し離れた位置に、大樹は立っていた。  
離れた場所から理玖と見知らぬ男のやり取りを目にしていた。

声までは聞こえない。  
けれど、理玖の表情。肩のわずかな硬さ。目の伏せ方。  
それらを読み取るには、大樹には十分だった。

誰かと話しているのに、どこか遠い。  
日常の中では見せない、意識のどこかにふたをしたような顔だった。

扉が閉まる瞬間、理玖の背中が見えた。  
立ち姿は変わらずに整っていて、それでも何かを飲み込んでいるような気配があった。

大樹は立ち尽くしたまま、扉の向こうを見つめていた。  
問いかけることも、割り込むこともできなかった。

けれど、確かに感じた。  
自分の知らない感情が、そこにあった。  
理玖の中には、まだ触れてはいけない何かがあるのだと。

それを知ってしまった瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ、冷えた。
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