転生しても推しが尊い!〜京橋くんとの学園ライフが尊死案件〜オタクでよかった、君に出会えたから

中岡 始

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日中、働くオタクは語らない

午前九時を過ぎたばかりのオフィスは、まだ全体にどこかぼんやりした空気が漂っていた。蛍光灯の白い光、プリンターの小さな駆動音、パソコンを立ち上げるクリック音。それぞれが一つの楽器のように重なりながら、朝のルーティンを静かに進めていく。

天満悠翔は、フリーアドレスのデスクの一つに腰を下ろし、PCを立ち上げながらルーティンどおりに一日を始めた。身に着けているのはごく標準的なビジネススーツ。灰色がかったネイビーのジャケットと、無地のブルーのネクタイ。Yシャツの袖口はぴしりとアイロンが効いていて、まるで制服のように整っていた。

だが、その見た目とは裏腹に、彼の頭の中ではすでに違う世界が静かに動いていた。

今日のデスクの位置は、窓側から三番目。角度的にちょうど西陽が午後には差し込みやすく、彼のお気に入りの場所だった。ノートPCを起動させ、業務用メールを確認しながら、ふと指が止まる。スケジュール欄の余白に、走り書きのように小さな文字を入れる。

「第9巻 p.146再読」

それだけで、午前中の憂鬱が少しだけ和らぐ。

周囲では同僚たちが「昨日のドラマ見た?」とか「昼どうする?」と小さく会話を始めている。誰もが互いに疲れを悟られないように笑い、やりすごすように生きている。その輪の中に、悠翔は自然に入り込まない。入れないわけではないが、敢えてそうしている。

「天満さん、おはようございます」

横から声がかかる。広報チームの新入社員だ。彼は少しだけ顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

「おはようございます。今日も寒いですね」

それだけのやり取り。にこりとしたその笑顔には一切の無駄がなかったが、深く踏み込ませない雰囲気を纏っていた。相手の新入社員は、一拍遅れて「あ、はい…」と答え、席に戻っていった。

悠翔は、心の中で小さく息をついた。誰かと話すのは嫌いではない。むしろ、こうして関わりがあることそのものに感謝している。けれど、そのまま「第9巻の“剣を置いても、誇りは捨てない”って台詞、やばくなかったですか」などと口走ってしまったら、きっと全てが崩れてしまうような気がしていた。

仕事は淡々と進む。入力作業、資料の確認、取引先とのメールのやり取り。業務上のやり取りは的確で、相手からも信頼されている。けれど、誰一人として、彼が退勤後の時間をどのように過ごしているかは知らない。

正午を少し回った頃、デスクにパンの袋を置いた。チョコチップ入りの小さなパンが二つ。飲み物は白湯。電子レンジの音も使わず、静かに開封し、静かに咀嚼する。

昼休みの間、彼の心はまた別の場所にいた。

レオ様、あのときの顔…泣きそうだった。でも、泣かなかった。誰にも見せなかった。その背中、今でも思い出せる。

…もし、自分があの場にいたら、何ができたんだろう

スマホを取り出すことはしなかった。業務中である以上、ルールは守る。ただ、脳裏には鮮やかに、あのシーンのコマが再生されていた。

ページをめくる指の重さ、紙の匂い、セリフが綴られるフォントの丸みまでも。

あの瞬間、レオ様はひとりじゃなかった。

そして、悠翔もまた、その場にいたような錯覚を何度も経験していた。

午後の会議が始まる頃には、完全にスイッチを切り替えていた。メモは綺麗に整っており、要点は短く、わかりやすくまとめられている。発言を求められたときも、的確に要件を伝えることができる。

誰も、彼の頭の片隅に“剣を置いても誇りは捨てない”という台詞が響いていることには気づかない。  
それが、彼の中の信条になっていることも。

会議が終わると、同僚が軽く肩を叩いてくる。

「天満さんってさ、いつも静かだけど、仕事はきっちりしてるよね。真面目っていうか、なんか……影がある感じ?」

その言葉に、悠翔はまたあの笑顔を見せた。

「ありがとうございます。昔から、話すのがあんまり得意じゃなくて」

それは本音ではあったが、すべてではなかった。

本当は話したいことが山ほどある。レオ様の台詞の裏に込められた信念、クロードの不器用な忠誠、カイの絶望とユーモア、そして全20巻を貫くあの静かな絆。

でも、それを口にした瞬間、自分の中の世界が壊れてしまいそうな気がして、今日も黙っていた。

夕方五時が近づくと、徐々に社内はざわつき始める。定時退社を目指す声が聞こえる。悠翔はといえば、既に退勤処理を済ませ、静かに席を立っていた。

コートを羽織る動作も、鞄を持つ姿も、全てが控えめで美しかった。身だしなみに乱れはなく、しかしどこか“透明な膜”を纏っているような、近づきすぎると反射して見えなくなってしまうような雰囲気をまとっている。

誰にも見えない、心の奥の光を抱えたまま、彼はオフィスをあとにする。

レオ様、今日は…何度もあなたの言葉を思い出していました。  
それだけで、今日一日を生き延びることができました。

そう心の中で呟きながら、彼は駅へと向かっていった。何事もなかったように。  
けれどその胸の内には、誰にも語られない、ひとつの物語の続きを宿したまま。  
“推し”と共に今日を生きた、無音の一日が、静かに過ぎていった。
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