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「推し」って、なんだったっけ
家の鍵を開けると、いつものように廊下の電気がふわりと灯った。母の優しい声が聞こえてくるかと思ったが、今日は仕事で遅くなると言っていた。リビングは静かだった。
制服のまま、鞄をソファに置いて、キッチンでコップ一杯の水を飲む。冷たい水が喉を通っていく感覚に、ようやく一日が終わったのだと実感する。けれど、胸の中のざわめきは、まだ終わる気配がなかった。
二階の部屋に戻り、ジャージに着替えた後、窓を開けてベランダに出た。夜風が頬を撫でる。空には雲が少なく、満天とはいかないまでも、ところどころに星が瞬いているのが見えた。
ベランダの手すりに肘をかけて、そっと空を見上げる。
遠い。どこまでも、手が届かない。けれど、確かにそこにあって、光っている。
まるで、前世の“推し”のようだった。
レオ様。あの世界の騎士。高潔で、強くて、美しくて、誰よりも優しくて。
触れられないからこそ、胸が締めつけられるほど好きになれた存在。
でも、今の“彼”は違う。
京橋蒼真。隣の席に座る、同じ教室で息をしている男子生徒。
笑う。喋る。ノートを貸してくれる。名前を呼んでくれる。
…違う。レオ様じゃない。でも、似ている。似すぎていて、時々見ていられなくなる。
でもそれは、レオ様を重ねているだけなのか?
それとも、彼自身を――“京橋蒼真”というひとりの人間を――見ているのか?
モノローグが静かに胸の奥から立ち上がる。
「この人を見てると、胸が苦しい。でも、それは……“推し”だから?」
問いを投げた瞬間、どこかで答えが出るのを期待していた。
でも、答えは沈黙の中に溶けたままだった。
悠翔は、小さく息を吸った。空気が、少し冷たい。
「…いや、ちがう気がする。でも、“ちがう”って思うことも、怖いんだ」
もし違うなら、これは何だ?
この胸の高鳴り。
名前を呼ばれたときの鼓動。
偶然、指先が触れたときの熱。
そして、なにスタに詩を投稿したあの夜、自分の中に灯った微かな灯り。
それはもう、“尊い”だけでは、説明がつかない。
でも、「好き」と呼ぶには、まだ怖すぎた。
言葉にした途端、何かが壊れてしまう気がして。
「推し」なら、崇めていられる。安全な距離がある。
でも「好き」なら、そこに「触れたい」という欲が生まれてしまう。
その線を越える勇気が、まだない。
怖いのは、届かなさじゃない。
“気持ちが届いてしまうかもしれない”という予感だった。
もし、彼が自分を見てくれていたら。
もし、自分のことをただのクラスメイト以上に思ってくれていたら。
そんな可能性を考えるたびに、胸の奥で何かがうずいた。
夜空の星は、変わらず遠くで瞬いていた。
でも、今の悠翔には、手が届かないその輝きよりも、
隣の席で笑っている一人の人間の存在の方が、
ずっと、ずっと重たく、温かく感じられた。
ふと、心の中で名前を呼んだ。
…京橋蒼真。
声には出さなかったけれど、その響きが胸の奥に確かに残った。
願わくば、この想いに名前がつけられる日が来ますように。
それが「好き」だとしても、「尊い」ままだとしても。
どちらでもいい。
ただ、自分の気持ちが、どこかにたどり着けますように。
そんな願いを、星に預けるようにして、悠翔は目を閉じた。
夜風がまた一度、頬を撫でていった。
それは、ほんの少しだけ、優しい風だった。
制服のまま、鞄をソファに置いて、キッチンでコップ一杯の水を飲む。冷たい水が喉を通っていく感覚に、ようやく一日が終わったのだと実感する。けれど、胸の中のざわめきは、まだ終わる気配がなかった。
二階の部屋に戻り、ジャージに着替えた後、窓を開けてベランダに出た。夜風が頬を撫でる。空には雲が少なく、満天とはいかないまでも、ところどころに星が瞬いているのが見えた。
ベランダの手すりに肘をかけて、そっと空を見上げる。
遠い。どこまでも、手が届かない。けれど、確かにそこにあって、光っている。
まるで、前世の“推し”のようだった。
レオ様。あの世界の騎士。高潔で、強くて、美しくて、誰よりも優しくて。
触れられないからこそ、胸が締めつけられるほど好きになれた存在。
でも、今の“彼”は違う。
京橋蒼真。隣の席に座る、同じ教室で息をしている男子生徒。
笑う。喋る。ノートを貸してくれる。名前を呼んでくれる。
…違う。レオ様じゃない。でも、似ている。似すぎていて、時々見ていられなくなる。
でもそれは、レオ様を重ねているだけなのか?
それとも、彼自身を――“京橋蒼真”というひとりの人間を――見ているのか?
モノローグが静かに胸の奥から立ち上がる。
「この人を見てると、胸が苦しい。でも、それは……“推し”だから?」
問いを投げた瞬間、どこかで答えが出るのを期待していた。
でも、答えは沈黙の中に溶けたままだった。
悠翔は、小さく息を吸った。空気が、少し冷たい。
「…いや、ちがう気がする。でも、“ちがう”って思うことも、怖いんだ」
もし違うなら、これは何だ?
この胸の高鳴り。
名前を呼ばれたときの鼓動。
偶然、指先が触れたときの熱。
そして、なにスタに詩を投稿したあの夜、自分の中に灯った微かな灯り。
それはもう、“尊い”だけでは、説明がつかない。
でも、「好き」と呼ぶには、まだ怖すぎた。
言葉にした途端、何かが壊れてしまう気がして。
「推し」なら、崇めていられる。安全な距離がある。
でも「好き」なら、そこに「触れたい」という欲が生まれてしまう。
その線を越える勇気が、まだない。
怖いのは、届かなさじゃない。
“気持ちが届いてしまうかもしれない”という予感だった。
もし、彼が自分を見てくれていたら。
もし、自分のことをただのクラスメイト以上に思ってくれていたら。
そんな可能性を考えるたびに、胸の奥で何かがうずいた。
夜空の星は、変わらず遠くで瞬いていた。
でも、今の悠翔には、手が届かないその輝きよりも、
隣の席で笑っている一人の人間の存在の方が、
ずっと、ずっと重たく、温かく感じられた。
ふと、心の中で名前を呼んだ。
…京橋蒼真。
声には出さなかったけれど、その響きが胸の奥に確かに残った。
願わくば、この想いに名前がつけられる日が来ますように。
それが「好き」だとしても、「尊い」ままだとしても。
どちらでもいい。
ただ、自分の気持ちが、どこかにたどり着けますように。
そんな願いを、星に預けるようにして、悠翔は目を閉じた。
夜風がまた一度、頬を撫でていった。
それは、ほんの少しだけ、優しい風だった。
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