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恋の相手はたったひとりでいい~ヨレヨレ課長とエリート部下、恋人になったあとがいちばんむずかしい
隠すんじゃなくて、ちゃんと付き合ってるって思いたい
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玄関の鍵を閉める音が、いつものようにひとつ響いた。
陽翔が靴を脱いで廊下を進むと、すでに部屋の中では榊がスーツの上着を脱ぎ、ソファに腰を落としていた。ネクタイは中途半端に緩められたまま、ワイシャツのボタンは一つ多く外されている。そんなふうに脱力した姿を見慣れてしまった自分に、ふと気づく。
テレビをつけた榊は、リモコンを膝に乗せたまま、ニュース番組をぼんやりと眺めていた。内容を追っているのか、それともただ画面を見ているだけなのかはわからない。
陽翔はため息をひとつつきながら、キッチンへと向かった。
冷蔵庫の中には、昨日買った豚肉と、野菜室にはしなびかけたキャベツとニンジン。味噌汁の残りは、ギリギリ一杯分。炒め物と卵焼きを足せば、まあなんとかなるだろうと、手際よく準備を始める。
包丁の音が、トントンと規則的に響く。その音に自分の心を落ち着けるように、野菜を刻み、フライパンに油を引く。肉が焼ける音が立ち上がると、香ばしい匂いが部屋に満ちてきた。
それでも、心のもやは晴れなかった。
陽翔は、背中越しに榊の様子をうかがった。彼は相変わらずテレビに目を向けている。何かに集中しているようで、でも何も考えていないようでもあった。
自分は今、恋人と暮らしているはずだった。
けれど、それが本当に“恋人らしい時間”なのかと問われれば、答えに詰まる。
皿に料理を盛り付け、テーブルに並べた。
「ごはん、できました」
そう声をかけると、榊はゆるく体を起こし、ソファから立ち上がった。
「うまそうやな、今日のん。キャベツ、ええ匂いや」
「適当です。冷蔵庫の余り物ですし」
「そんなんでも、俺はありがたいで」
榊は椅子に腰を落とし、箸を手に取った。
陽翔も向かいに座り、遅れて箸を持つ。
食事中、榊は特に会話をせず、もくもくと食べていた。
たまに「これ、味濃いめやな」とか「卵、甘くない方が好きやで」など、気の抜けたコメントを挟むだけだった。
そのどれもが悪気のない言葉で、それが余計に陽翔の心を揺らした。
「……課長」
箸を置いて、陽翔は声を出した。
榊が顔を上げる。目の奥に眠気が残っているような、相変わらずの鈍さ。
「俺、課長と隠れて付き合いたいわけじゃないんです」
榊の動きが、わずかに止まった。
箸を握ったままの手が、空中で止まり、そのまましばらく動かなかった。
「……隠してるんやない。大事にしてるだけや」
少しして、榊はそう言った。低くて、どこか遠くを見るような声だった。
「誰かに何か言われたり、変に詮索されたりするのが嫌で……お前に嫌な思いさせたないから、や」
その言葉は、たしかに榊なりの優しさだった。
けれど、陽翔の心には、微かに届ききらなかった。
「でも、それじゃ俺は、“隠されてる”って思ってしまいます」
声が震えていた。自分でも、どこからそんな感情が湧いてきたのか、よくわからなかった。
「俺は、もっと……ちゃんと“恋人”になりたいんです」
言い終えた瞬間、榊が視線をこちらに向けた。目と目が合う。
いつものように淡々とした目だった。けれど、その奥に、ほんの少し戸惑いが浮かんでいた。
「……お前、そういうとこ、ほんま真っ直ぐやな」
榊はぽつりとつぶやいた。
「真っ直ぐって、悪いことですか」
「いや。せやから俺、惹かれたんやろな。……でも、俺はそんなに器用やないからな」
その言葉は、榊自身への言い訳にも聞こえた。
陽翔は、口を閉じた。これ以上は言わない方がいいと、どこかで思っていた。
けれど、本音をぶつけられたことには、少しだけ安心している自分もいた。
食事を終えて、食器を片付けたあと、ふたりはソファに並んで座った。
テレビの音が部屋に流れていたが、どちらも内容は頭に入っていなかった。
時間だけが、静かに流れていった。
寝室の灯りを消し、ベッドに入ったのは、それからしばらくしてだった。
横になっても、陽翔の目はなかなか閉じなかった。天井を見つめながら、考えがぐるぐると回る。
榊の隣にいるのは、居心地がいい。
でも、その居心地の良さが、時に不安を呼ぶ。
もっと言葉が欲しい。もっと確信が欲しい。
恋人になったのに、どこかでまだ、踏み込めていない気がする。
「……誰に見せたいんじゃなくて、誰にも見せたくないんだ」
ぽつりと、口の中で言ってみる。
榊と一緒にいる時間。それを誰かに証明するためではなく、誰にも見せたくない。
その思いが、自分の中に根を張っていることに気づいた。
隣からは、安定した寝息が聞こえてくる。
その音に耳を澄ませながら、陽翔は静かに目を閉じた。
翌朝。会社のエレベーターホールに貼り出された掲示板を見て、足が止まる。
「関西支社より、佐倉奏太 異動のお知らせ」
そこに記された名前を見て、陽翔はほんの一瞬、息を呑んだ。
榊が昔いた支社。
そこで働いていた“佐倉奏太”という名前に、心がざわつく。
新たな風が吹く予感が、静かに背筋を走った。
陽翔が靴を脱いで廊下を進むと、すでに部屋の中では榊がスーツの上着を脱ぎ、ソファに腰を落としていた。ネクタイは中途半端に緩められたまま、ワイシャツのボタンは一つ多く外されている。そんなふうに脱力した姿を見慣れてしまった自分に、ふと気づく。
テレビをつけた榊は、リモコンを膝に乗せたまま、ニュース番組をぼんやりと眺めていた。内容を追っているのか、それともただ画面を見ているだけなのかはわからない。
陽翔はため息をひとつつきながら、キッチンへと向かった。
冷蔵庫の中には、昨日買った豚肉と、野菜室にはしなびかけたキャベツとニンジン。味噌汁の残りは、ギリギリ一杯分。炒め物と卵焼きを足せば、まあなんとかなるだろうと、手際よく準備を始める。
包丁の音が、トントンと規則的に響く。その音に自分の心を落ち着けるように、野菜を刻み、フライパンに油を引く。肉が焼ける音が立ち上がると、香ばしい匂いが部屋に満ちてきた。
それでも、心のもやは晴れなかった。
陽翔は、背中越しに榊の様子をうかがった。彼は相変わらずテレビに目を向けている。何かに集中しているようで、でも何も考えていないようでもあった。
自分は今、恋人と暮らしているはずだった。
けれど、それが本当に“恋人らしい時間”なのかと問われれば、答えに詰まる。
皿に料理を盛り付け、テーブルに並べた。
「ごはん、できました」
そう声をかけると、榊はゆるく体を起こし、ソファから立ち上がった。
「うまそうやな、今日のん。キャベツ、ええ匂いや」
「適当です。冷蔵庫の余り物ですし」
「そんなんでも、俺はありがたいで」
榊は椅子に腰を落とし、箸を手に取った。
陽翔も向かいに座り、遅れて箸を持つ。
食事中、榊は特に会話をせず、もくもくと食べていた。
たまに「これ、味濃いめやな」とか「卵、甘くない方が好きやで」など、気の抜けたコメントを挟むだけだった。
そのどれもが悪気のない言葉で、それが余計に陽翔の心を揺らした。
「……課長」
箸を置いて、陽翔は声を出した。
榊が顔を上げる。目の奥に眠気が残っているような、相変わらずの鈍さ。
「俺、課長と隠れて付き合いたいわけじゃないんです」
榊の動きが、わずかに止まった。
箸を握ったままの手が、空中で止まり、そのまましばらく動かなかった。
「……隠してるんやない。大事にしてるだけや」
少しして、榊はそう言った。低くて、どこか遠くを見るような声だった。
「誰かに何か言われたり、変に詮索されたりするのが嫌で……お前に嫌な思いさせたないから、や」
その言葉は、たしかに榊なりの優しさだった。
けれど、陽翔の心には、微かに届ききらなかった。
「でも、それじゃ俺は、“隠されてる”って思ってしまいます」
声が震えていた。自分でも、どこからそんな感情が湧いてきたのか、よくわからなかった。
「俺は、もっと……ちゃんと“恋人”になりたいんです」
言い終えた瞬間、榊が視線をこちらに向けた。目と目が合う。
いつものように淡々とした目だった。けれど、その奥に、ほんの少し戸惑いが浮かんでいた。
「……お前、そういうとこ、ほんま真っ直ぐやな」
榊はぽつりとつぶやいた。
「真っ直ぐって、悪いことですか」
「いや。せやから俺、惹かれたんやろな。……でも、俺はそんなに器用やないからな」
その言葉は、榊自身への言い訳にも聞こえた。
陽翔は、口を閉じた。これ以上は言わない方がいいと、どこかで思っていた。
けれど、本音をぶつけられたことには、少しだけ安心している自分もいた。
食事を終えて、食器を片付けたあと、ふたりはソファに並んで座った。
テレビの音が部屋に流れていたが、どちらも内容は頭に入っていなかった。
時間だけが、静かに流れていった。
寝室の灯りを消し、ベッドに入ったのは、それからしばらくしてだった。
横になっても、陽翔の目はなかなか閉じなかった。天井を見つめながら、考えがぐるぐると回る。
榊の隣にいるのは、居心地がいい。
でも、その居心地の良さが、時に不安を呼ぶ。
もっと言葉が欲しい。もっと確信が欲しい。
恋人になったのに、どこかでまだ、踏み込めていない気がする。
「……誰に見せたいんじゃなくて、誰にも見せたくないんだ」
ぽつりと、口の中で言ってみる。
榊と一緒にいる時間。それを誰かに証明するためではなく、誰にも見せたくない。
その思いが、自分の中に根を張っていることに気づいた。
隣からは、安定した寝息が聞こえてくる。
その音に耳を澄ませながら、陽翔は静かに目を閉じた。
翌朝。会社のエレベーターホールに貼り出された掲示板を見て、足が止まる。
「関西支社より、佐倉奏太 異動のお知らせ」
そこに記された名前を見て、陽翔はほんの一瞬、息を呑んだ。
榊が昔いた支社。
そこで働いていた“佐倉奏太”という名前に、心がざわつく。
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