オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始

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恋の相手はたったひとりでいい~ヨレヨレ課長とエリート部下、恋人になったあとがいちばんむずかしい

“課長に救われた日”の話

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午後の給湯室は、人の気配もまばらだった。ちょうど昼休憩のピークを過ぎた時間帯で、室内には電気ポットの再沸騰の音と、冷蔵庫の低い唸りだけが鳴っていた。

陽翔は、手に持ったマグカップを見つめながら、給湯機のボタンを押す。お湯が落ちる音に耳を澄ませながら、背筋を少し伸ばした。資料作成の合間に少しだけ気を緩めたくて、席を離れたばかりだった。

「こんにちは、橘さん」

後ろから声をかけられ、陽翔は肩を軽く揺らした。振り返ると、そこには見覚えのある顔――佐倉奏太が立っていた。

「佐倉さん。……どうも」

「今日、なかなか話すタイミングがなかったですよね。僕、まだちょっと緊張してて」

佐倉は、笑いながら紙コップを取り出し、陽翔の隣に立った。自然な距離感。まるで何年もここで働いていたような、そういう雰囲気を持っている。

「初日って、そんなもんですよ」

陽翔は努めて声を和らげた。  
榊との距離感が気になっている自分を、表に出さないように。

「ありがとうございます。……あ、そうだ」

佐倉はポットのお湯を注ぎながら、ふと思い出したように口を開いた。

「さっき課長のこと、ちょっと話しましたよね。僕、ほんとにお世話になったんです、支社時代」

陽翔は、マグカップを持ったまま、うなずいた。

「榊課長に?」

「ええ。僕、最初の頃、全然使えなくて。営業もうまくいかなくて、めちゃくちゃ落ち込んでた時期があって……今思えば、若かったなあって思うんですけど」

佐倉は照れくさそうに笑いながら、続けた。

「それでも、課長は一度も怒らなかったんです。“まあ、しゃーない”って、いつも笑ってくれて。ほんと、泣きそうでした、あのとき」

思い出を語る佐倉の横顔には、ほんの少し熱がこもっていた。

「他の上司なら、怒鳴られてもおかしくないミスだったんですよ。得意先に出す資料、全部日付間違ってて。クライアントに怒鳴られて、こっちは真っ青で……」

陽翔は、目の前のコーヒーをひと口すすった。  
少し熱い。それでも、佐倉の言葉の方が胸にじわりと染みてくる。

「でも課長、僕の代わりに頭下げて、帰りに言ってくれたんです。“最初は誰でもやらかす。お前が次どうするかや”って。それで救われたんですよ、僕」

佐倉の目は、どこか遠くを見ていた。給湯室の狭い空間に、そこだけぽっかりと過去が開いているようだった。

「それ以来、ずっと目標でした。あんなふうに、背中で守ってくれる上司になりたいって思って」

陽翔は、うなずきながらも、心の奥に小さな痛みを抱えていた。

そんな過去があったのか。  
榊が、誰かの人生を変えるほどの言葉をかけたことがあった。  
そういう“顔”があることを、初めて知った。

「……課長って、そういうとこ、変わらないんですね」

やっと絞り出せた言葉だった。

佐倉はうなずいた。

「そうですね。見た目は相変わらずヨレヨレですけど。でも、あの人って、なんていうか……芯があるというか。大雑把なようで、大事なとこだけは絶対に見逃さない人です」

そう言って、少しだけ視線を落とした佐倉が、静かに言葉を足した。

「俺、今でもあのときの背中、忘れられないんです」

静かな語調に、嘘はなかった。  
陽翔は、何も言えずにその言葉を受け止めた。

佐倉が語る榊は、包容力があって、温かくて、でもどこか距離のある男だった。  
近づけそうで、決して触れられないような、そんな存在。

それは、今の陽翔が見ている榊とは、少し違っていた。  
いや、きっと同じなのだ。ただ、自分はまだ、その面を見たことがないだけで。

知らなかった。  
榊の過去。  
誰かの人生に、あんなにも深く関わっていたこと。  
自分以外の人間の記憶の中で、あの人がどんなふうに生きていたのか。

「橘さんは、課長とは長いんですか?」

不意に聞かれて、陽翔は少し言葉に詰まった。

「……まあ、そこそこ」

「いいなあ。僕、また一緒に働けるなんて思ってなかったんです。緊張もしてますけど、楽しみでもあります」

佐倉の笑顔は、素直で、まぶしかった。

陽翔は曖昧に頷いて、カップの中のコーヒーを見つめた。

過去は変えられないし、取り戻せない。  
だけど、自分はこの人の“今”を、知っている。

その“今”を、ちゃんと知りたいと思った。  
けれど、同時に自分は、“榊圭吾という人間”のほんの一部しか知らないのだということを痛感していた。

佐倉が給湯室を出て行ったあと、陽翔はしばらくその場から動けなかった。

湯気の立つカップを見つめながら、自分の中に広がっていくざわめきを、黙って抱えたままだった。
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