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ヨレたスーツと、支える背中──榊圭吾、関西支社時代~あの頃の“課長”は、まだ何も語らなかった
ガラス越しに、見惚れた
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時計の針が十九時を回っていた。
社内の明かりはところどころ消え始めていて、オフィス全体に静かな気配が満ちていた。
蛍光灯の音も心なしか控えめに聞こえる。資料をまとめた封筒を抱えた佐倉は、自席を離れ、帰宅の準備に入っていた。
ロビーへ向かう途中、ふと足が止まる。
視線の先にあるのは、社屋の一角に設けられた喫煙所。ガラス越しに、薄ぼんやりと人影が見えた。
榊だった。
ひとりきりの空間に、ゆっくりと体を傾け、壁にもたれかかるように立っている。
シャツの袖は肘までまくり上げられ、皮膚の色がそこだけわずかに赤く見えた。
ポケットから煙草を取り出す動作は慣れたもので、指先に挟まれた一本を口元へ持っていく。
その一連の動きが、なぜだかやけに丁寧に映った。
小さな火花が灯る。
ライターの火に照らされた榊の指先は、節立っているのに細く、まるでどこかの画面の中から抜け出してきたようだった。
指の骨格、タバコをくわえる唇の形、吐き出される煙の流れまでが、妙に静かで、妙に綺麗だった。
目が離せなくなっていた。
佐倉はガラスの向こうにいるその人を、まるで初めて見るような気持ちで見つめていた。
榊の顔は、いつもはどこかくたびれて見えていた。
朝の通勤時には髪が跳ねていることも多く、スーツは皺が寄っていて、ネクタイの位置がずれていることもある。
だから「営業課長」という肩書きにしてはずいぶんと脱力した印象だった。
けれど、今。
その横顔をこうして静かに見ていると、まるで印象が違っていた。
顔の輪郭は思っていたよりもシャープで、頬骨のあたりに陰影が浮かぶ。
睫毛は意外に長く、伏せた目元は切れ長で、光を受けているわけでもないのに色を持っているように見えた。
顎のラインもすっきりしていて、頬にほんのり残る無精髭さえ、妙に色っぽさを添えていた。
「あれ、課長って……こんな顔してたんや」
思わず、心の中でそう呟いていた。
誰にも気づかれない位置で、ただ火を灯して煙草を吸う。
それだけのことなのに、その姿があまりにも自然で、あまりにも美しかった。
ガラス越しに見る榊は、決して「見せる人」ではなかった。
でも、見られていないと思っているその瞬間こそが、いちばん榊らしい気がした。
疲れているのは確かだった。
長時間の会議、書類のチェック、部下の相談に付き合い、終業時刻を過ぎても席を立たなかった姿が思い出される。
けれど、その疲れを隠すでもなく、背負い込むでもなく、ただ体のどこかに置いているような、そんな感じがした。
それが榊の“強さ”なのかもしれない。
指先から伸びた煙が、ゆらゆらと天井へ昇っていく。
ガラス越しの明かりに照らされて、淡い輪郭を残しながら散っていく。
その向こうで、榊の瞳がふとこちらに向くように見えて、佐倉はとっさに目を逸らした。
ばれた、と思った。
でも、見つかったとしても、それを咎めるような人ではないとも思った。
そう思えることが、少し苦しくもあり、少しあたたかくもあった。
胸の中で、なにかがざわついていた。
人として、上司として、尊敬していた。
それは今でも変わらない。
でも、それだけではない何かが、自分の中で静かに形を取りはじめていた。
目で追ってしまう。
見惚れてしまう。
この人が笑えば、自分も嬉しくて、疲れた顔をしていると、無性に何かしてあげたくなる。
ただ“支えられている”だけじゃなくなっている。
むしろ、自分がこの人の隣に立ちたいと思っている。
そんな感情が、知らぬ間に芽を出していた。
榊が煙草を消す気配が見えた。
その指が、灰皿の縁で軽く震える。
佐倉はエレベーターの前から離れ、ゆっくりと喫煙所へと向かった。
自分でも、どうしたいのか、うまく言葉にはできなかった。
ただ、今は少しでも近くにいたかった。
この背中を、ガラス越しじゃなく、隣から見てみたかった。
そしてそのとき、ようやく気づいた。
これはもう、「かっこいい人やなあ」なんて軽い言葉じゃ足りない。
その想いに、名前をつけるには、もう少し時間が必要だった。
社内の明かりはところどころ消え始めていて、オフィス全体に静かな気配が満ちていた。
蛍光灯の音も心なしか控えめに聞こえる。資料をまとめた封筒を抱えた佐倉は、自席を離れ、帰宅の準備に入っていた。
ロビーへ向かう途中、ふと足が止まる。
視線の先にあるのは、社屋の一角に設けられた喫煙所。ガラス越しに、薄ぼんやりと人影が見えた。
榊だった。
ひとりきりの空間に、ゆっくりと体を傾け、壁にもたれかかるように立っている。
シャツの袖は肘までまくり上げられ、皮膚の色がそこだけわずかに赤く見えた。
ポケットから煙草を取り出す動作は慣れたもので、指先に挟まれた一本を口元へ持っていく。
その一連の動きが、なぜだかやけに丁寧に映った。
小さな火花が灯る。
ライターの火に照らされた榊の指先は、節立っているのに細く、まるでどこかの画面の中から抜け出してきたようだった。
指の骨格、タバコをくわえる唇の形、吐き出される煙の流れまでが、妙に静かで、妙に綺麗だった。
目が離せなくなっていた。
佐倉はガラスの向こうにいるその人を、まるで初めて見るような気持ちで見つめていた。
榊の顔は、いつもはどこかくたびれて見えていた。
朝の通勤時には髪が跳ねていることも多く、スーツは皺が寄っていて、ネクタイの位置がずれていることもある。
だから「営業課長」という肩書きにしてはずいぶんと脱力した印象だった。
けれど、今。
その横顔をこうして静かに見ていると、まるで印象が違っていた。
顔の輪郭は思っていたよりもシャープで、頬骨のあたりに陰影が浮かぶ。
睫毛は意外に長く、伏せた目元は切れ長で、光を受けているわけでもないのに色を持っているように見えた。
顎のラインもすっきりしていて、頬にほんのり残る無精髭さえ、妙に色っぽさを添えていた。
「あれ、課長って……こんな顔してたんや」
思わず、心の中でそう呟いていた。
誰にも気づかれない位置で、ただ火を灯して煙草を吸う。
それだけのことなのに、その姿があまりにも自然で、あまりにも美しかった。
ガラス越しに見る榊は、決して「見せる人」ではなかった。
でも、見られていないと思っているその瞬間こそが、いちばん榊らしい気がした。
疲れているのは確かだった。
長時間の会議、書類のチェック、部下の相談に付き合い、終業時刻を過ぎても席を立たなかった姿が思い出される。
けれど、その疲れを隠すでもなく、背負い込むでもなく、ただ体のどこかに置いているような、そんな感じがした。
それが榊の“強さ”なのかもしれない。
指先から伸びた煙が、ゆらゆらと天井へ昇っていく。
ガラス越しの明かりに照らされて、淡い輪郭を残しながら散っていく。
その向こうで、榊の瞳がふとこちらに向くように見えて、佐倉はとっさに目を逸らした。
ばれた、と思った。
でも、見つかったとしても、それを咎めるような人ではないとも思った。
そう思えることが、少し苦しくもあり、少しあたたかくもあった。
胸の中で、なにかがざわついていた。
人として、上司として、尊敬していた。
それは今でも変わらない。
でも、それだけではない何かが、自分の中で静かに形を取りはじめていた。
目で追ってしまう。
見惚れてしまう。
この人が笑えば、自分も嬉しくて、疲れた顔をしていると、無性に何かしてあげたくなる。
ただ“支えられている”だけじゃなくなっている。
むしろ、自分がこの人の隣に立ちたいと思っている。
そんな感情が、知らぬ間に芽を出していた。
榊が煙草を消す気配が見えた。
その指が、灰皿の縁で軽く震える。
佐倉はエレベーターの前から離れ、ゆっくりと喫煙所へと向かった。
自分でも、どうしたいのか、うまく言葉にはできなかった。
ただ、今は少しでも近くにいたかった。
この背中を、ガラス越しじゃなく、隣から見てみたかった。
そしてそのとき、ようやく気づいた。
これはもう、「かっこいい人やなあ」なんて軽い言葉じゃ足りない。
その想いに、名前をつけるには、もう少し時間が必要だった。
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