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ヨレたスーツと、支える背中──榊圭吾、関西支社時代~あの頃の“課長”は、まだ何も語らなかった
恋にならなかったから、こんなに残る
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翌朝、支社の空気は妙にすっきりしていた。
窓の外では、春の風が少しだけ強く吹いていた。
街路樹の若葉が揺れて、陽の光を反射してきらきらしている。
季節は変わり目を迎えていた。
佐倉はいつも通り、八時半前には自席についた。
パソコンを立ち上げ、受信ボックスに届いたメールをひとつずつ開く。
それは昨日までと変わらない作業で、今日も変わらずに始まる業務だった。
けれど、どこかで何かが違うと、身体がうっすらと感じ取っていた。
斜め前のデスクが、妙に静かだった。
当たり前だ。そこに座るはずの人間は、もうこの支社にはいない。
誰もがわかっていながら、あえて話題にせずに朝を迎えていた。
廊下を行き交う足音も、会話のトーンも、微妙に落ち着いていて、
それがむしろ、榊の不在を明確に際立たせていた。
佐倉は書類を片手にふと立ち上がり、給湯スペースへと足を運んだ。
湯を注ぐ間、目に入ったのは、戸棚の隅にぽつんと残されたひとつの湯呑みだった。
白地に緑のラインが入った、取っ手のない素朴な器。
それは、榊が毎朝使っていたものだった。
使い込まれて、縁がほんの少し欠けている。
それなのに、誰よりも丁寧に洗われ、きちんと水を切って置かれていた。
佐倉は、その湯呑みをそっと手に取った。
手のひらのなかにぬくもりはなかったけれど、器の軽さが、逆に存在の重さを思い出させた。
しばらくじっと見つめて、それからゆっくりと、棚の奥に戻した。
そこに置かれたまま、もう使われることのない器。
でも、捨てられることもない、それは「在った記憶」そのものだった。
佐倉は、自分の胸の奥にぽつりと灯った気持ちを、そのまま受け止めていた。
言えなかったことは、たくさんある。
笑ってくれてありがとうとか、
背中を押してくれてありがとうとか、
黙って見ていてくれてありがとうとか、
全部まとめて「好きでした」って言いたかった。
けれど、結局何ひとつ口にできなかった。
それでも、後悔はしていなかった。
――言えへんかったこと、後悔はしてへん。
そう自分に言い聞かせたとき、不思議と胸がすっと軽くなった。
たぶん、好きって言ってしまったら、この気持ちは終わってしまったと思う。
きれいに締めくくられて、いつか「昔のこと」として整理されてしまったかもしれない。
けれど、言わなかったからこそ、
言えなかったからこそ、
その想いはどこにも行かず、ずっとここに残っている。
榊の不在が、記憶の中で彼をより鮮やかにしていた。
歩きながら話す背中、
タバコに火をつける長い指、
「まあまあや」と笑ってくれた声、
どれもが、胸の奥に澄んだままで沈んでいる。
――恋にならなかったから、こんなに残るんやと思う。
モノローグの中でその言葉が浮かんだとき、佐倉はようやく笑えた。
この気持ちは、恋にならなかった。
だけど、そのぶん、もっと大切にしまっておける気がした。
佐倉は給湯スペースを出て、自席に戻った。
画面には、営業課の引き継ぎスケジュールが開かれていた。
そこに並ぶ日付は、すべて「榊課長のいない日々」だった。
だけど、そのどれもが、きっとちゃんと続いていく。
彼がいた時間を知っているからこそ、進める未来がある。
背筋を伸ばして、キーボードに手を置く。
榊が最後に言った「もっとええ男になれ」という言葉が、胸の奥で静かに灯っていた。
もう一度、あの湯呑みを棚にしまった手の感触を思い出しながら、佐倉は前を向いた。
窓の外では、春の風が少しだけ強く吹いていた。
街路樹の若葉が揺れて、陽の光を反射してきらきらしている。
季節は変わり目を迎えていた。
佐倉はいつも通り、八時半前には自席についた。
パソコンを立ち上げ、受信ボックスに届いたメールをひとつずつ開く。
それは昨日までと変わらない作業で、今日も変わらずに始まる業務だった。
けれど、どこかで何かが違うと、身体がうっすらと感じ取っていた。
斜め前のデスクが、妙に静かだった。
当たり前だ。そこに座るはずの人間は、もうこの支社にはいない。
誰もがわかっていながら、あえて話題にせずに朝を迎えていた。
廊下を行き交う足音も、会話のトーンも、微妙に落ち着いていて、
それがむしろ、榊の不在を明確に際立たせていた。
佐倉は書類を片手にふと立ち上がり、給湯スペースへと足を運んだ。
湯を注ぐ間、目に入ったのは、戸棚の隅にぽつんと残されたひとつの湯呑みだった。
白地に緑のラインが入った、取っ手のない素朴な器。
それは、榊が毎朝使っていたものだった。
使い込まれて、縁がほんの少し欠けている。
それなのに、誰よりも丁寧に洗われ、きちんと水を切って置かれていた。
佐倉は、その湯呑みをそっと手に取った。
手のひらのなかにぬくもりはなかったけれど、器の軽さが、逆に存在の重さを思い出させた。
しばらくじっと見つめて、それからゆっくりと、棚の奥に戻した。
そこに置かれたまま、もう使われることのない器。
でも、捨てられることもない、それは「在った記憶」そのものだった。
佐倉は、自分の胸の奥にぽつりと灯った気持ちを、そのまま受け止めていた。
言えなかったことは、たくさんある。
笑ってくれてありがとうとか、
背中を押してくれてありがとうとか、
黙って見ていてくれてありがとうとか、
全部まとめて「好きでした」って言いたかった。
けれど、結局何ひとつ口にできなかった。
それでも、後悔はしていなかった。
――言えへんかったこと、後悔はしてへん。
そう自分に言い聞かせたとき、不思議と胸がすっと軽くなった。
たぶん、好きって言ってしまったら、この気持ちは終わってしまったと思う。
きれいに締めくくられて、いつか「昔のこと」として整理されてしまったかもしれない。
けれど、言わなかったからこそ、
言えなかったからこそ、
その想いはどこにも行かず、ずっとここに残っている。
榊の不在が、記憶の中で彼をより鮮やかにしていた。
歩きながら話す背中、
タバコに火をつける長い指、
「まあまあや」と笑ってくれた声、
どれもが、胸の奥に澄んだままで沈んでいる。
――恋にならなかったから、こんなに残るんやと思う。
モノローグの中でその言葉が浮かんだとき、佐倉はようやく笑えた。
この気持ちは、恋にならなかった。
だけど、そのぶん、もっと大切にしまっておける気がした。
佐倉は給湯スペースを出て、自席に戻った。
画面には、営業課の引き継ぎスケジュールが開かれていた。
そこに並ぶ日付は、すべて「榊課長のいない日々」だった。
だけど、そのどれもが、きっとちゃんと続いていく。
彼がいた時間を知っているからこそ、進める未来がある。
背筋を伸ばして、キーボードに手を置く。
榊が最後に言った「もっとええ男になれ」という言葉が、胸の奥で静かに灯っていた。
もう一度、あの湯呑みを棚にしまった手の感触を思い出しながら、佐倉は前を向いた。
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