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君が他人にモテるなんて、聞いてない〜ヨレ課長、初めてのモヤモヤ嫉妬
昇っていく背中に、さみしさを覚える夜
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時計の針が十九時を少し回っていた。オフィスには、空調の風が天井から静かに流れ、まばらなキーボードの音が低く響いていた。フロアの照明は自動調光の設定で徐々に明るさを落とし始めており、窓の外は群青から濃紺へと色を変えつつある。
残業組の社員たちはそれぞれの席で淡々と作業を続けている。立ち上がって資料をコピーに行く者、ヘッドセット越しに小さな声で会話する者。誰もが静かに、自分の仕事を片付けていた。
その中に、陽翔の姿があった。
彼はデスクのモニターに向かい、左手に資料、右手でマウスを操作しながら、明日の商談に備えた資料を最終確認している。シャツの袖は肘までまくり上げられ、ネクタイは昼よりもわずかに緩んでいた。机上には数枚の図表、タスクメモ、そして彼が愛用している細身の黒いペンが置かれている。
カタカタとキーを叩く音が、隣の島にまでかすかに届いていた。
その少し後ろ。島をひとつ挟んだ場所に、榊はいた。
彼もまた、手元の書類に目を通しているように見せていたが、実際には何度も同じ段落を読み返していた。資料の文字が目に入っているはずなのに、頭には残らない。意識は、前方の背中へと自然に引き寄せられていた。
スーツの上着を脱いだシャツ姿の陽翔。その背中は、数ヶ月前とは明らかに違って見えた。
姿勢がいいとか、筋肉のつき方がどうこうということではなく、そこにある“自信”のようなものが、背中に色濃くにじみ出ていた。
自分が見てきた橘陽翔は、もっと幼さを残していた気がする。
几帳面で、頑固で、何でも一人で抱え込むくせに不器用で、そして…どこか頼りなかった。
けれど今目の前にいるのは、資料の一行ごとに責任を刻み込みながら、明日という現場に備える“ひとりの営業担当”だった。
その成長が、嬉しくないはずがなかった。
心から、誇らしいと思っていた。
それでも、胸の奥にぽつりと、小さな穴のような感情が開いていた。
かつては、何か困ればすぐに「課長」と声をかけてきたその背中が、今はもう振り向かずに黙って歩き出そうとしているように見えてしまう。
そんな気がしただけかもしれない。
けれど、ふと唇が動いた。
声にするつもりなどなかったのに、言葉が漏れた。
「昇っていくなあ、お前。…ちょっとだけ、さみしなるわ」
それは、ごく小さな声だった。
誰にも聞かれないような、けれど確かに自分の胸から溢れ出た本音だった。
不思議なことに、陽翔の指がぴたりと止まった。
榊の視線はもう資料に戻っていた。いや、戻したふりをしていた。
気づかれたかもしれないと思うと、顔を向けるのが怖かった。
けれど、陽翔は椅子を回して、ゆっくりと振り向いた。
「……今、何か言いました?」
榊は一拍だけ間を置いて、静かに首を振った。
「んや、なんでもない。独り言や」
それ以上、陽翔は追及しなかった。
ただ、その目には微かに笑みの気配があった。
榊の言葉が、届いていないわけがなかった。
彼は、榊が感じているさみしさを、正確にはわからないかもしれない。
けれど、確かにそこに“何かがあった”ことは受け取っていた。
その証拠に、陽翔の目元はやわらかく緩み、頬の力がほんの少しだけ抜けていた。
それは、言葉を交わさなくても通じ合える者同士にしか持ち得ない空気だった。
榊は、視線を戻したまま、一度だけ息をついた。
その背中越しに、陽翔はもう一度、しっかりと彼の姿を見つめてから、また自分の作業に戻った。
カタカタと、再びキーボードの音が響き始める。
けれどその音は、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。
オフィスの灯りがゆっくりと夜の色に染まり始める頃、二人の間には言葉よりもあたたかな沈黙があった。
それだけで、今夜は十分だった。
残業組の社員たちはそれぞれの席で淡々と作業を続けている。立ち上がって資料をコピーに行く者、ヘッドセット越しに小さな声で会話する者。誰もが静かに、自分の仕事を片付けていた。
その中に、陽翔の姿があった。
彼はデスクのモニターに向かい、左手に資料、右手でマウスを操作しながら、明日の商談に備えた資料を最終確認している。シャツの袖は肘までまくり上げられ、ネクタイは昼よりもわずかに緩んでいた。机上には数枚の図表、タスクメモ、そして彼が愛用している細身の黒いペンが置かれている。
カタカタとキーを叩く音が、隣の島にまでかすかに届いていた。
その少し後ろ。島をひとつ挟んだ場所に、榊はいた。
彼もまた、手元の書類に目を通しているように見せていたが、実際には何度も同じ段落を読み返していた。資料の文字が目に入っているはずなのに、頭には残らない。意識は、前方の背中へと自然に引き寄せられていた。
スーツの上着を脱いだシャツ姿の陽翔。その背中は、数ヶ月前とは明らかに違って見えた。
姿勢がいいとか、筋肉のつき方がどうこうということではなく、そこにある“自信”のようなものが、背中に色濃くにじみ出ていた。
自分が見てきた橘陽翔は、もっと幼さを残していた気がする。
几帳面で、頑固で、何でも一人で抱え込むくせに不器用で、そして…どこか頼りなかった。
けれど今目の前にいるのは、資料の一行ごとに責任を刻み込みながら、明日という現場に備える“ひとりの営業担当”だった。
その成長が、嬉しくないはずがなかった。
心から、誇らしいと思っていた。
それでも、胸の奥にぽつりと、小さな穴のような感情が開いていた。
かつては、何か困ればすぐに「課長」と声をかけてきたその背中が、今はもう振り向かずに黙って歩き出そうとしているように見えてしまう。
そんな気がしただけかもしれない。
けれど、ふと唇が動いた。
声にするつもりなどなかったのに、言葉が漏れた。
「昇っていくなあ、お前。…ちょっとだけ、さみしなるわ」
それは、ごく小さな声だった。
誰にも聞かれないような、けれど確かに自分の胸から溢れ出た本音だった。
不思議なことに、陽翔の指がぴたりと止まった。
榊の視線はもう資料に戻っていた。いや、戻したふりをしていた。
気づかれたかもしれないと思うと、顔を向けるのが怖かった。
けれど、陽翔は椅子を回して、ゆっくりと振り向いた。
「……今、何か言いました?」
榊は一拍だけ間を置いて、静かに首を振った。
「んや、なんでもない。独り言や」
それ以上、陽翔は追及しなかった。
ただ、その目には微かに笑みの気配があった。
榊の言葉が、届いていないわけがなかった。
彼は、榊が感じているさみしさを、正確にはわからないかもしれない。
けれど、確かにそこに“何かがあった”ことは受け取っていた。
その証拠に、陽翔の目元はやわらかく緩み、頬の力がほんの少しだけ抜けていた。
それは、言葉を交わさなくても通じ合える者同士にしか持ち得ない空気だった。
榊は、視線を戻したまま、一度だけ息をついた。
その背中越しに、陽翔はもう一度、しっかりと彼の姿を見つめてから、また自分の作業に戻った。
カタカタと、再びキーボードの音が響き始める。
けれどその音は、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。
オフィスの灯りがゆっくりと夜の色に染まり始める頃、二人の間には言葉よりもあたたかな沈黙があった。
それだけで、今夜は十分だった。
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