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第2章 スキル?ありませんが、PCならあります
最後に残った“持ち物”
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待機室と呼ばれるその空間は、まるで修道院の書庫の一角のようだった。
石造りの壁には無地の布がかけられ、窓は小さく、外光がうっすらと差し込んでいる。
部屋の中央には古びた木製の長椅子と、無骨な机。
装飾らしきものは何もなく、ただ用途だけが前提になった簡素な造りだった。
田所は、その長椅子の端に腰を下ろしていた。
疲労感はあるが、どこか現実味に欠けている。
異世界に来て、若返って、能力もスキルもないと判定され、今はこうして静かな石の部屋にいる。
すべてがあまりに現実離れしていて、感情を挟む余地がなかった。
斜め向かいの席には、ひとりの女性が座っていた。
銀灰色の髪を高く束ね、藍色のローブをまとった細身の魔導士。
顔立ちは整っているが表情は乏しく、まるで冷気を纏うような静けさがあった。
彼女の名は、リゼット・ファルネラ。
魔導鑑定院に所属する高等記録官だと紹介された人物で、先ほどの鑑定の結果も、彼女の手で公式記録として保存されることになるらしい。
リゼットは小さな羽根ペンで手元の羊皮紙に文字を記していた。
滑らかな筆致だった。
音もなく記録が進む様子に、田所は「これも一種のスキルなんだろうな」と思った。
そのときだった。
部屋の隅から、ひとりの若い侍従が歩み寄ってきた。
手には、田所が転移時に所持していたらしいアイテム群がまとめられている。
封筒、ボールペン、薄手の革財布、そして――黒い長方形の板。
「これは…?」
青年が興味深そうに、その板を手に取ろうとした瞬間、田所が無意識に声を上げた。
「ちょっと、それは…触らないでもらえます?」
手を伸ばして、青年の動きを止めた。
反射的な行動だった。
田所自身、なぜそんなに強く反応したのか分からなかった。
けれど、あのパソコンにだけは、いま触れられたくなかった。
「…それ俺の、仕事道具なんで。たぶん今んとこ、これが俺の“唯一の能力”です」
田所はそう言って、黒い板をそっと受け取った。
軽く、ひんやりとした感触。
角のへこみ、キートップのかすれ、電源ボタンの微妙な押し心地。
間違いない。
それは彼が最後まで使っていた愛用のノートパソコン、VA16だった。
膝の上に置いて、ゆっくりと画面を開く。
蝶番の軋みが、やけに懐かしかった。
画面は薄く曇っているが、大丈夫。
まだ、動くだろう。
電源ボタンを押す。
心臓の鼓動がわずかに速くなる。
一秒、二秒。
やがて、ふわりと明かりが灯った。
冷たい起動音が、静寂のなかにかすかに響いた。
起動完了。
田所の顔に、ごくわずかな安堵の色が浮かぶ。
バッテリーの残量表示を見る。
6パーセント。
予想通りだった。
「…やっぱ、これがギリか」
そう呟いたのは、自分に対してだった。
この世界で充電できる保証はない。
この機械が動く時間は限られている。
だが、それでも。
まだ動く。
まだ、使える。
マウスパッドに指をすべらせ、画面を操作する。
無意識にWi-Fiを確認してしまったのは、癖だった。
「ネット? いや…つながらないっすよね、そりゃ」
呟きながら、スタートメニューからExcelを起動する。
次いでPowerPointも開く。
応答速度は少し鈍いが、問題なく動作する。
その瞬間、対面のリゼットが手の動きを止めた。
田所のディスプレイを、じっと見ている。
無表情のまま、だがその目に明らかな興味が宿っていた。
「…それは、文字の魔導具ですか」
リゼットの声は静かだったが、ほんのわずかに抑揚がある。
田所は彼女の視線を追い、画面を彼女のほうへ少し傾けた。
「これは、えっと…“作業用端末”っていう道具で。
文字や数字を記録したり、整理したり、まとめたり…まあ、いろいろできます」
「情報の…記録。図形も。これは、視覚転写?」
「まあ、そんな感じです。たぶん。
あと、たとえばこれ…」
田所はPowerPointを開いたまま、既存のスライドテンプレートを表示させた。
青いグラデーションの背景に、中央揃えのタイトル。
下には二段構成のテキストボックス。
会社説明資料のテンプレそのままだ。
「これに文字とか、図を入れると、いわゆる“資料”になります。人に説明するための」
「…これは、魔導印刷機に通せるのですか?」
「え?」
「紙に転写して、物理的に配布する手段は?」
田所は一瞬固まった。
まさか“配布資料”という言葉が、異世界で通じるとは思っていなかった。
いや、正確には“概念が通じている”ことに驚いたのだった。
「…紙は、まだ。インクも電源も…でも、なんとかします。というか、したいですね」
リゼットは、再びペンを動かし始めた。
先ほどまでと同じように見えて、微妙に筆圧が違う。
明らかに、何かを“記録している”手の動きだった。
田所は画面を閉じた。
まだ多くは話していない。
けれど、たしかに何かが始まった気がしていた。
それは、魔法でも剣でもなく、言葉と構造と“段取り”で成し遂げる何かの始まりだった。
石造りの壁には無地の布がかけられ、窓は小さく、外光がうっすらと差し込んでいる。
部屋の中央には古びた木製の長椅子と、無骨な机。
装飾らしきものは何もなく、ただ用途だけが前提になった簡素な造りだった。
田所は、その長椅子の端に腰を下ろしていた。
疲労感はあるが、どこか現実味に欠けている。
異世界に来て、若返って、能力もスキルもないと判定され、今はこうして静かな石の部屋にいる。
すべてがあまりに現実離れしていて、感情を挟む余地がなかった。
斜め向かいの席には、ひとりの女性が座っていた。
銀灰色の髪を高く束ね、藍色のローブをまとった細身の魔導士。
顔立ちは整っているが表情は乏しく、まるで冷気を纏うような静けさがあった。
彼女の名は、リゼット・ファルネラ。
魔導鑑定院に所属する高等記録官だと紹介された人物で、先ほどの鑑定の結果も、彼女の手で公式記録として保存されることになるらしい。
リゼットは小さな羽根ペンで手元の羊皮紙に文字を記していた。
滑らかな筆致だった。
音もなく記録が進む様子に、田所は「これも一種のスキルなんだろうな」と思った。
そのときだった。
部屋の隅から、ひとりの若い侍従が歩み寄ってきた。
手には、田所が転移時に所持していたらしいアイテム群がまとめられている。
封筒、ボールペン、薄手の革財布、そして――黒い長方形の板。
「これは…?」
青年が興味深そうに、その板を手に取ろうとした瞬間、田所が無意識に声を上げた。
「ちょっと、それは…触らないでもらえます?」
手を伸ばして、青年の動きを止めた。
反射的な行動だった。
田所自身、なぜそんなに強く反応したのか分からなかった。
けれど、あのパソコンにだけは、いま触れられたくなかった。
「…それ俺の、仕事道具なんで。たぶん今んとこ、これが俺の“唯一の能力”です」
田所はそう言って、黒い板をそっと受け取った。
軽く、ひんやりとした感触。
角のへこみ、キートップのかすれ、電源ボタンの微妙な押し心地。
間違いない。
それは彼が最後まで使っていた愛用のノートパソコン、VA16だった。
膝の上に置いて、ゆっくりと画面を開く。
蝶番の軋みが、やけに懐かしかった。
画面は薄く曇っているが、大丈夫。
まだ、動くだろう。
電源ボタンを押す。
心臓の鼓動がわずかに速くなる。
一秒、二秒。
やがて、ふわりと明かりが灯った。
冷たい起動音が、静寂のなかにかすかに響いた。
起動完了。
田所の顔に、ごくわずかな安堵の色が浮かぶ。
バッテリーの残量表示を見る。
6パーセント。
予想通りだった。
「…やっぱ、これがギリか」
そう呟いたのは、自分に対してだった。
この世界で充電できる保証はない。
この機械が動く時間は限られている。
だが、それでも。
まだ動く。
まだ、使える。
マウスパッドに指をすべらせ、画面を操作する。
無意識にWi-Fiを確認してしまったのは、癖だった。
「ネット? いや…つながらないっすよね、そりゃ」
呟きながら、スタートメニューからExcelを起動する。
次いでPowerPointも開く。
応答速度は少し鈍いが、問題なく動作する。
その瞬間、対面のリゼットが手の動きを止めた。
田所のディスプレイを、じっと見ている。
無表情のまま、だがその目に明らかな興味が宿っていた。
「…それは、文字の魔導具ですか」
リゼットの声は静かだったが、ほんのわずかに抑揚がある。
田所は彼女の視線を追い、画面を彼女のほうへ少し傾けた。
「これは、えっと…“作業用端末”っていう道具で。
文字や数字を記録したり、整理したり、まとめたり…まあ、いろいろできます」
「情報の…記録。図形も。これは、視覚転写?」
「まあ、そんな感じです。たぶん。
あと、たとえばこれ…」
田所はPowerPointを開いたまま、既存のスライドテンプレートを表示させた。
青いグラデーションの背景に、中央揃えのタイトル。
下には二段構成のテキストボックス。
会社説明資料のテンプレそのままだ。
「これに文字とか、図を入れると、いわゆる“資料”になります。人に説明するための」
「…これは、魔導印刷機に通せるのですか?」
「え?」
「紙に転写して、物理的に配布する手段は?」
田所は一瞬固まった。
まさか“配布資料”という言葉が、異世界で通じるとは思っていなかった。
いや、正確には“概念が通じている”ことに驚いたのだった。
「…紙は、まだ。インクも電源も…でも、なんとかします。というか、したいですね」
リゼットは、再びペンを動かし始めた。
先ほどまでと同じように見えて、微妙に筆圧が違う。
明らかに、何かを“記録している”手の動きだった。
田所は画面を閉じた。
まだ多くは話していない。
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