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第7章 発見されし“書”と誤解のはじまり
語録が歩きはじめる
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朝のギルド支部は、どこか静まり返っていた。
人がいないわけではない。むしろ出勤してくる職員たちや、冒険者たちで、廊下も談話室もそれなりに賑わっている。
だが、全体に妙な落ち着きがあった。空気に、ある種の緊張というか、“構え”が感じられた。
その理由は、支部の中央ホール、壁の掲示板にあった。
かつては討伐依頼の貼り紙や、装備点検の注意喚起などが貼られていたスペースの一角に、
最近になって自然発生した新しいコーナーがあった。
《今週のグチの言葉》
その見出しの下に、印刷された一文が、魔導紙の上に丁寧に掲示されている。
今週の言葉は、これだった。
《“その件、考えておきます”は実質の終了フレーズ》
書体はくっきりと読みやすく、背景にはほんのりと銀の装飾が施されている。
無駄な飾りはなく、簡潔で、率直。
にもかかわらず――いや、だからこそかもしれない。
その一文が放つ圧力に、人々は足を止め、無言で見つめていた。
「……沁みるな」
誰かが、ぽつりとつぶやいた。
若手の記録係、サムが、手元の紙を持ち上げる。
彼は毎朝、“グチの言葉”を掲示板の下で音読するという、完全に自発的な任務を買って出ていた。
「読み上げます。今週のグチの言葉、
“その件、考えておきます”は実質の終了フレーズ、とのことです」
一拍の間を置いて、彼は付け加えた。
「……この言葉は、発言者にその気がないことを、暗に周囲に伝えるために使用されることが多いとの意。
なお、返事をもらえる可能性は、おおよそ三%未満とされます」
周囲の職員や冒険者たちは、口にこそ出さないものの、皆が同じ表情をしていた。
少し目を伏せ、短く頷き、息を吐く。
完全な同意。痛すぎるほどの共感。
だが、そこに皮肉ではない、ある種の救いすら漂っていた。
ひとりひとりが、そこから何かを受け取り、再確認するように、無言で自分の持ち場へと戻っていく。
書類を抱えた職員は机に向かい、装備を整えた冒険者は依頼受付へと向かう。
特別な合図も指示もない。ただ“読んだ”というだけで、空気が変わる。
田所は少し離れた廊下の影から、その様子を見ていた。
手には、いつものように折り畳んだ資料。だがそれは今朝の作業予定ではない。
彼が見ているのは、自分の書いた“どうでもいい愚痴”が、人々の動きを変えている光景だった。
一度も本気で誰かに届けようと思って書いたことはなかった。
ただ、疲れた心が書きたくなっただけ。
何かを伝えたいというより、吐き出すことでバランスを保っていた文章たち。
それが今、まるで教訓のように扱われている。
それも、“段取り信仰”とまで呼ばれ始めた流れの一部として。
そばに立っていたリゼットが、掲示板を見つめながら口を開いた。
「……これはもう、もはや“実務詩”と呼ぶべきものです」
田所は反射的に言葉を返しかけて、途中で止まった。
実務詩。
その語感のあまりのしっくりさに、否定の言葉を見失った。
確かに、これは美しい詩ではない。誰かを鼓舞する名言でもない。
けれど、現場にいる者たちにとって、確かに“刺さる”言葉だった。
だから、詩と呼ばれても、何も言えなかった。
田所は、ゆっくりと両手で顔を覆った。
「……俺の恥が……文化になってる……」
額に手を当てたまま、ため息のような声が漏れる。
だがその声音には、怒りや悲しみはなかった。
困惑と諦め、そして少しの笑いが混じっていた。
「いや、でも……あの言葉、本当に刺さってるんですね」
リゼットの声には、感心が混じっていた。
「“考えておきます”――あれは、会議における最も虚無的な応答の一つ。
私も過去に何度となく言われ、そして言ってきました。
……認めたくありませんが、真理です」
田所は返事をせず、掲示板を一度だけ見つめ、そっと背を向けた。
今週の言葉。
来週も、誰かが選んで貼るのだろう。
そして誰かが読んで、少しだけ気を引き締めて、また自分の場所へ戻っていくのだろう。
それは、決して派手な力ではない。
けれど、静かに広がる影響力が、確かにそこにあった。
段取りとは、目立たないが、確かに世界を回す。
それを、田所だけが分かっていたわけではなかった。
もはや、それは田所の“意図”を超えた場所で、人々の心の一部になりつつあった。
人がいないわけではない。むしろ出勤してくる職員たちや、冒険者たちで、廊下も談話室もそれなりに賑わっている。
だが、全体に妙な落ち着きがあった。空気に、ある種の緊張というか、“構え”が感じられた。
その理由は、支部の中央ホール、壁の掲示板にあった。
かつては討伐依頼の貼り紙や、装備点検の注意喚起などが貼られていたスペースの一角に、
最近になって自然発生した新しいコーナーがあった。
《今週のグチの言葉》
その見出しの下に、印刷された一文が、魔導紙の上に丁寧に掲示されている。
今週の言葉は、これだった。
《“その件、考えておきます”は実質の終了フレーズ》
書体はくっきりと読みやすく、背景にはほんのりと銀の装飾が施されている。
無駄な飾りはなく、簡潔で、率直。
にもかかわらず――いや、だからこそかもしれない。
その一文が放つ圧力に、人々は足を止め、無言で見つめていた。
「……沁みるな」
誰かが、ぽつりとつぶやいた。
若手の記録係、サムが、手元の紙を持ち上げる。
彼は毎朝、“グチの言葉”を掲示板の下で音読するという、完全に自発的な任務を買って出ていた。
「読み上げます。今週のグチの言葉、
“その件、考えておきます”は実質の終了フレーズ、とのことです」
一拍の間を置いて、彼は付け加えた。
「……この言葉は、発言者にその気がないことを、暗に周囲に伝えるために使用されることが多いとの意。
なお、返事をもらえる可能性は、おおよそ三%未満とされます」
周囲の職員や冒険者たちは、口にこそ出さないものの、皆が同じ表情をしていた。
少し目を伏せ、短く頷き、息を吐く。
完全な同意。痛すぎるほどの共感。
だが、そこに皮肉ではない、ある種の救いすら漂っていた。
ひとりひとりが、そこから何かを受け取り、再確認するように、無言で自分の持ち場へと戻っていく。
書類を抱えた職員は机に向かい、装備を整えた冒険者は依頼受付へと向かう。
特別な合図も指示もない。ただ“読んだ”というだけで、空気が変わる。
田所は少し離れた廊下の影から、その様子を見ていた。
手には、いつものように折り畳んだ資料。だがそれは今朝の作業予定ではない。
彼が見ているのは、自分の書いた“どうでもいい愚痴”が、人々の動きを変えている光景だった。
一度も本気で誰かに届けようと思って書いたことはなかった。
ただ、疲れた心が書きたくなっただけ。
何かを伝えたいというより、吐き出すことでバランスを保っていた文章たち。
それが今、まるで教訓のように扱われている。
それも、“段取り信仰”とまで呼ばれ始めた流れの一部として。
そばに立っていたリゼットが、掲示板を見つめながら口を開いた。
「……これはもう、もはや“実務詩”と呼ぶべきものです」
田所は反射的に言葉を返しかけて、途中で止まった。
実務詩。
その語感のあまりのしっくりさに、否定の言葉を見失った。
確かに、これは美しい詩ではない。誰かを鼓舞する名言でもない。
けれど、現場にいる者たちにとって、確かに“刺さる”言葉だった。
だから、詩と呼ばれても、何も言えなかった。
田所は、ゆっくりと両手で顔を覆った。
「……俺の恥が……文化になってる……」
額に手を当てたまま、ため息のような声が漏れる。
だがその声音には、怒りや悲しみはなかった。
困惑と諦め、そして少しの笑いが混じっていた。
「いや、でも……あの言葉、本当に刺さってるんですね」
リゼットの声には、感心が混じっていた。
「“考えておきます”――あれは、会議における最も虚無的な応答の一つ。
私も過去に何度となく言われ、そして言ってきました。
……認めたくありませんが、真理です」
田所は返事をせず、掲示板を一度だけ見つめ、そっと背を向けた。
今週の言葉。
来週も、誰かが選んで貼るのだろう。
そして誰かが読んで、少しだけ気を引き締めて、また自分の場所へ戻っていくのだろう。
それは、決して派手な力ではない。
けれど、静かに広がる影響力が、確かにそこにあった。
段取りとは、目立たないが、確かに世界を回す。
それを、田所だけが分かっていたわけではなかった。
もはや、それは田所の“意図”を超えた場所で、人々の心の一部になりつつあった。
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