誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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欲望で、あの夜をなぞるように

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金曜の夜、ホテルのロビーは静かだった。
週末の活気が始まるには少し早く、けれど平日よりはざわつきが残っていた。
フロントの奥から聞こえる低い話し声と、エレベーターの開閉音が、薄く響いている。
香りのない空調と、磨かれた大理石の床。無機質な光が、楷の靴底に影を落としていた。

彼女はすでに来ていた。
ロビーの端、観葉植物のそばでスマートフォンを見つめていた女性が、こちらに気づいて立ち上がる。
その目が、自分の顔を見た瞬間にわずかに揺れるのが分かった。

「KAIさん、ですよね」
声に緊張が混じっていたが、言葉は丁寧だった。

「はい。こんばんは。お待たせしてすみません」
微笑みながら答えるとき、声は少し低めに、落ち着いて響くように調整する。
肩の力は抜いているが、背筋は自然に伸びていた。
スーツの第一ボタンを外したまま、襟元からのぞく薄手のインナーが、さりげなく輪郭を見せている。

香水は、昼間よりも微かに多めにつけていた。
とはいえ、甘さのないウッディ系だ。
「男」としての印象を与えるには、これくらいがいい。
シャワーを浴びる直前に決めた香りだった。

自分のなかに、“男”のスイッチを入れる準備はすでに終わっていた。
服、表情、所作、距離の取り方、目線。
何もかもが、「女性とセックスをする」ために用意された外装だった。

エレベーターが開くとき、彼女が少し緊張気味に並んで立つ。
互いの肩がかすかに触れるが、それも自然に受け止める。
「一緒に部屋へ向かう」というこの一連の流れに、会話はいらなかった。

モノローグが静かに胸の内に浮かぶ。
気づいている。
この夜が、ただの逃避であることに。

──あの夜が、自分に何かを残したってこと。
けれど、これはそれとは別だ。
これはただのセックスだ。

部屋に入る。
カードキーのランプが緑に変わり、ドアが閉まる音が背後で落ち着くと、空間の空気が変わる。
狭くて清潔で、けれど生活の匂いはない。
使い捨ての関係には、ぴったりの場所だった。

ジャケットを脱いで、ソファの背にかける。
彼女はバッグをベッドの端に置きながら、わずかに楷の顔を伺うような視線を送ってきた。
それをやわらかい笑顔で受け止めながら、上着の下のシャツの袖をゆっくりまくっていく。

「お水、もらっていいですか?」

「もちろん」
備え付けの冷蔵庫からペットボトルを取り出して渡すとき、指が触れ合う。
その接触も計算のうちだ。

彼女の頬が少し赤らんでいるのを確認してから、再び目を合わせる。
笑顔の角度は、練習のように完璧だ。

セックスまでの流れは、まるで決まりきった手順のようだった。
彼女が浴室へ入り、シャワーの音が響きはじめる。
その音を聞きながら、ベッド脇に腰を下ろした楷は、深く息を吐いた。

手のひらがじんわりと汗ばんでいることに気づく。
あれほど“演じる”ことには慣れていたのに、今夜は、どこかで違和感がつきまとっていた。
一度、髪を整え直しながら鏡を見る。

鏡の中には、いつもの「KAI」が映っていた。
完璧に“男”として設計された楷。
女性にとっては「ちょうどいい美しさ」。
男らしさと柔らかさの間を正確に演出した、演技の産物。

だけど──
その目の奥には、なにもなかった。

すぐに彼女がバスルームから出てきて、照明を少し落とす。
肌を包む柔らかい布と、微かに甘いシャンプーの匂いが混ざる。
楷はそれに応じるように、静かに手を伸ばした。

感触は知っている。
肌の温度、身体の反応、リズム、呼吸。
そのすべてを「導く」ことには、もう慣れきっていた。

この人を満足させることはできる。
それは確信だった。
だが、それは、“自分の感情”とは切り離されていた。

触れて、抱いて、抱かれて──
流れるような動作のなかで、心だけがまるで別の部屋に置いていかれたような感覚。

それでも、身体は熱を帯びる。
快感が走る。
けれどそれは、“生きている実感”ではなかった。

ただ、体が反応しているという事実だけがあった。
それが、“KAI”という仮面を、今日も成立させていた。

けれど胸の奥には、
“あの夜”──
目を閉じなかった自分と、髪にそっと触れた手と、何も奪わなかった静けさが、どうしても滲み出してくる。

それが、ひどく邪魔だった。
邪魔なのに、消えなかった。
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