誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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偶然のまなざし

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ホテルの自動ドアが静かに閉まる音が、背後に吸い込まれていく。
湿った夜の空気が、肌に張りつくように重かった。
街灯の下、路面にはまだ乾ききらない水の筋が残り、歩くたびに小さく靴音が跳ね返った。
金曜の夜にしては、人通りが少ない。
週末へと向かう移行点のような夜だった。

楷は、右手でコートの襟を整え、左手にくるんだライターをポケットから取り出した。
ホテルの角を曲がってすぐのコンビニの横、喫煙スペースには誰もいなかった。
薄い壁に囲まれた狭いスペースに一歩入る。
煙草を一本取り出し、ライターに火をつける。
カチリという乾いた音が、ひどく大きく響いた気がした。

吸い込む煙は、思ったより熱かった。
喉がざらつく。
肺に入れた瞬間、ほんの少しだけ落ち着く感覚があった。
だがそれは、短くて脆い鎮静だった。

目の前の通りを、数人の酔客が通り過ぎていく。
笑い声。誰かの名前を呼ぶ声。
そのどれもが、遠く感じた。
楷は無意識のうちに、もう一度煙を吐き出した。

そのときだった。

視界の端に、人の姿が映った。
何気なく目を向けると、歩道の向こう側──
ほんの五、六メートル先に、見慣れたシルエットがあった。

黒のジャケット。足取りに迷いのない歩き方。
そして、視線が、ほんの一瞬だけ重なった。

芳樹だった。

足を止めたわけではない。
通りすがりのように、ごく自然な速度で歩いていた。
だがその一瞬、確かに楷の目を見た。
何も言わずに。
声も、表情もなく。

そして、そのまま通り過ぎた。

背中が遠ざかっていく。
ゆっくりと、けれど確実に。
楷は、煙草を持ったまま、その場に立ち尽くした。

胸の奥に、小さな何かが沈んでいく音がした。

「……見られた」

声に出さなかったその言葉が、空気より重く心に落ちてくる。
何か言われると思っていた。
なにか、たった一言でも──
責められるでも、問われるでもなく、ただ「どうして」と訊かれるだけでも。

だが、芳樹は何も言わなかった。

それがいちばん堪えた。

モノローグが、呼吸の隙間から滲む。

「何か言われると思った。…でも、何も言われなかった。見なかったふりが、いちばん堪える」

煙草をくわえた唇が、無意識のうちにわずかに震えた。
火はまだ消えていない。
けれど、吸い込むたびに、胸の奥がざらついた。

“見なかったふり”。
その選択が、楷のなかの何かを削った。
何も言わない優しさがあることは知っている。
あの人は、そういう人だ。
一度だって楷を責めたことはなかった。
見たことを、見なかったことにする──
そのやり方で、ずっと隣にいてくれた。

でも、今夜は違った。
違うように感じてしまった。

「見たくなかっただけかもしれない」
そんな思考が、傷のように胸の内を掠める。
「見たけど、もうどうでもよかったのかもしれない」
「何をしても、もう興味なんてないのかもしれない」
疑念は、内側から楷をむしばんだ。

それでも、自分がしたことは分かっていた。
誰にも責められなくても、自分がいちばんよく知っていた。

身体だけで何かを上書きできると思った。
セックスという行為のなかに、“戻れる道”があるような錯覚をしていた。
でも、それは幻想だった。
快感はあった。
けれど、それは“あの夜”を越えもしなかったし、なぞりもできなかった。

背中のほうから吹いた夜風が、煙草の煙をあおった。
視線はまだ、芳樹のいた道のほうを向いたままだった。
けれど、もうその姿はなかった。

ただ、消えたあとに残された感情だけが、
楷の胸の奥で、かすかに音を立てていた。
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